それから少し経った頃のこと。
千景が、稽古のあとでひどく沈んでいる日があった。
廊下で行き合うと、珍しく向こうから声をかけてきた。
「今日の稽古、見ていたか」
「いいえ、今日は……」
「そうか。見ていてほしかった」
思わず、足が止まる。
珍しいことを言う、と思った。
千景はいつも、私が見ていたかどうかをわざわざ確かめたりしない。
感想を求めることはあっても、先にそんなふうに言うことはなかった。
「何かあったんですか」
「女方がうまくいかなかった。師匠にも言われたが、何がいけないのか、自分でもわからない」
千景は、ほんの少し悔しそうな顔をしていた。
声はいつも通り淡々としているのに、その奥だけが静かに煮えているようだった。
「掴めてきたと思っていたんだが……明日、稽古を見てもらえないか」
「……少しでしたら」
翌日、ほんのわずか、誰にも見つからないようにすれば……そんな思いを抱き、時間を作って稽古場へ行くと、すでに稽古は始まっていた。
物陰から除くように、稽古を見つめる。
千景の稽古での舞は、やっぱりうまかった。
所作は美しい。袖の返しも、視線の流れも、間の取り方も乱れがない。
技術だけを見れば、十分すぎるほど整っているだろうことは、素人の自分が観てもよくわかる。
けれど、何かが足りなかった。
技術の問題ではない。
ひとつひとつは綺麗なのに、全体で見ると、そこに女がいない。
女を演じているはずなのに、まだ『女をしている千景』が見えてしまう。
板の上に立つ者としての気配が、どこか現実に寄りすぎていた。
稽古が終わると、千景がこちらを見て、手招きをする。
いつから気が付いていたのだろう……
「今日は?」
「……ひとつだけ、よろしいですか」
「ああ」
少しためらってから、言葉を選びつつ口を開いた。
「女の真似をしようとしているように、見えはります」
千景の目が、わずかに鋭くなるけれど、遮られない。
そのまま聞いてくれるとわかって、ゆっくり千景に歩み寄った。
御曹司らしい、華のある整った顔。
切れ長の、美しい目。
私はもちろん、数多の女では、到底敵わないほどの美貌。
けれど今の千景には、そのままでは足りない気がした。
「女の真似やないんです」
「……」
「板の上で見せるんは、男が夢見る、女以上の女です」
一目見たら、誰でも虜にしてしまうような。
現実におる女をなぞるだけではなく、その先にあるもの。
そうでなければ、きっと千景が求める眩しさには届かない。
気がつけば、私はそっと千景の頬に触れていた。
指先に、稽古の後の汗と、熱に触れた気がいた。
「現実の女より、もっと女らしい女。せやから、現実の女を真似しようとすると、かえって届きまへん」
「……なるほど」
言ってから、はっとした。
東城院の御曹司に向かって、顔に触れて、こんなふうに言うなんて。
出しゃばりすぎるにもほどがある。
慌てて手を離す。
「すみません。でしゃばりました」
「いや」
静かに、私の言葉を繰り返した。
「女の真似ではなく、男が夢見る女以上の女、か」
その言葉を、口の中でゆっくり転がすみたいに、低いながらも甘い声色で繰り返す。
千景の目の色が変わっていた。
何かを掴みかけた人の目だった。
「もう一度」
その声で、空気まで変わる。
今度の舞は、違った。
何が変わったのか、正確に言葉にするのは難しい。
でも、さっきまでとまるで違う。
千景の目線が変わる。
身体の使い方が変わる。
衣擦れの音まで、さっきより艶を帯びて聞こえた。
何かを模倣しようとしているのではない。
何かを創り出そうとしている。
そういう気迫が、稽古場いっぱいに満ちていく。
ふっと、静寂が来た。
しばらく、息ができなかった。
見惚れる、というのは、きっとこういうことを言うのかもしれない。
稽古だとわかっているのに、目が逸らせない。
千景がこちらを向く。
その目に、私は少し驚いた。
いつもの淡々とした千景の目ではない。
何かに火が入ったあとの、熱を抱えた目だった。
さっき触れた頬の熱が、今さら自分の指先に移ったみたいに思えて、胸の奥が小さく鳴った。
千景が、稽古のあとでひどく沈んでいる日があった。
廊下で行き合うと、珍しく向こうから声をかけてきた。
「今日の稽古、見ていたか」
「いいえ、今日は……」
「そうか。見ていてほしかった」
思わず、足が止まる。
珍しいことを言う、と思った。
千景はいつも、私が見ていたかどうかをわざわざ確かめたりしない。
感想を求めることはあっても、先にそんなふうに言うことはなかった。
「何かあったんですか」
「女方がうまくいかなかった。師匠にも言われたが、何がいけないのか、自分でもわからない」
千景は、ほんの少し悔しそうな顔をしていた。
声はいつも通り淡々としているのに、その奥だけが静かに煮えているようだった。
「掴めてきたと思っていたんだが……明日、稽古を見てもらえないか」
「……少しでしたら」
翌日、ほんのわずか、誰にも見つからないようにすれば……そんな思いを抱き、時間を作って稽古場へ行くと、すでに稽古は始まっていた。
物陰から除くように、稽古を見つめる。
千景の稽古での舞は、やっぱりうまかった。
所作は美しい。袖の返しも、視線の流れも、間の取り方も乱れがない。
技術だけを見れば、十分すぎるほど整っているだろうことは、素人の自分が観てもよくわかる。
けれど、何かが足りなかった。
技術の問題ではない。
ひとつひとつは綺麗なのに、全体で見ると、そこに女がいない。
女を演じているはずなのに、まだ『女をしている千景』が見えてしまう。
板の上に立つ者としての気配が、どこか現実に寄りすぎていた。
稽古が終わると、千景がこちらを見て、手招きをする。
いつから気が付いていたのだろう……
「今日は?」
「……ひとつだけ、よろしいですか」
「ああ」
少しためらってから、言葉を選びつつ口を開いた。
「女の真似をしようとしているように、見えはります」
千景の目が、わずかに鋭くなるけれど、遮られない。
そのまま聞いてくれるとわかって、ゆっくり千景に歩み寄った。
御曹司らしい、華のある整った顔。
切れ長の、美しい目。
私はもちろん、数多の女では、到底敵わないほどの美貌。
けれど今の千景には、そのままでは足りない気がした。
「女の真似やないんです」
「……」
「板の上で見せるんは、男が夢見る、女以上の女です」
一目見たら、誰でも虜にしてしまうような。
現実におる女をなぞるだけではなく、その先にあるもの。
そうでなければ、きっと千景が求める眩しさには届かない。
気がつけば、私はそっと千景の頬に触れていた。
指先に、稽古の後の汗と、熱に触れた気がいた。
「現実の女より、もっと女らしい女。せやから、現実の女を真似しようとすると、かえって届きまへん」
「……なるほど」
言ってから、はっとした。
東城院の御曹司に向かって、顔に触れて、こんなふうに言うなんて。
出しゃばりすぎるにもほどがある。
慌てて手を離す。
「すみません。でしゃばりました」
「いや」
静かに、私の言葉を繰り返した。
「女の真似ではなく、男が夢見る女以上の女、か」
その言葉を、口の中でゆっくり転がすみたいに、低いながらも甘い声色で繰り返す。
千景の目の色が変わっていた。
何かを掴みかけた人の目だった。
「もう一度」
その声で、空気まで変わる。
今度の舞は、違った。
何が変わったのか、正確に言葉にするのは難しい。
でも、さっきまでとまるで違う。
千景の目線が変わる。
身体の使い方が変わる。
衣擦れの音まで、さっきより艶を帯びて聞こえた。
何かを模倣しようとしているのではない。
何かを創り出そうとしている。
そういう気迫が、稽古場いっぱいに満ちていく。
ふっと、静寂が来た。
しばらく、息ができなかった。
見惚れる、というのは、きっとこういうことを言うのかもしれない。
稽古だとわかっているのに、目が逸らせない。
千景がこちらを向く。
その目に、私は少し驚いた。
いつもの淡々とした千景の目ではない。
何かに火が入ったあとの、熱を抱えた目だった。
さっき触れた頬の熱が、今さら自分の指先に移ったみたいに思えて、胸の奥が小さく鳴った。



