梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

鴇子に呼ばれたのは、その翌日のこと。

「千景さんの稽古場に出入りしているそうね」
「はい」
「なぜ?」

鴇子は縫い物をしながら、目も上げずに言った。
針を運ぶ手だけが、規則正しく動いている。
静かな声なのに、その部屋の空気だけがすうっと冷える。

「兄さんから、稽古を見てほしいとおっしゃっていただいて」
「あなたに何ができるというの」
「……特に、何も……」
「そうよね。西の出のあなたに、東の芸がわかるわけがないわ」

鴇子はそこで初めて目を上げた。
細く、冷たい目だった。

「千景さんは今、大切な時期です。無駄なことで時間を取らせないように」
「はい」
「あなたは、あなたの仕事だけをしていればいい」
「はい」
「西の女は、西の女らしく、目立たず黙っていなさい」

それだけだった。
声を荒らげるわけでもない。責め立てるわけでもない。
けれど、もう二度と稽古場へ行くな、と言われたのと同じだった。

鴇子は視線を縫い物へ戻した。
話は終わった、ということなのだろう。
私は頭を下げて、その場を出た。

廊下に出てからもしばらく、そのまま立ち尽くしていた。
稽古場に行くな、ということだろうか。
でも、千景からは来るように言われている。
私はどうしたらいいのだろう。

その日の終わり、意を決して千景に声をかけた。

「……すんまへん。お稽古を見るんは、今日で最後にさしてもろてもよろしいですか」
「なぜだ」

返ってきたのは、短い一言だった。
けれど、その低さに、思わず喉が詰まる。

なぜ。
邪魔をするなと言われたからだ。
そう言えば済むのに、口の中がうまく動かない。
そこに自分の意志がないのだから……

まだ一度も舞台で見たことのない歌舞伎。
それでも、千景の演技を観るのは好きだった。
観ていれば、胸の奥が少しだけ広がる。
観られるものなら、何時間でも見ていたいと思うくらいには。

「……鴇子様に、言われました」
「そうか」

それだけ言って、千景は息を吐いた。

「ふぅ……わかった」

大きなため息だった。
その音が胸の上に落ちてきたみたいで、わずかに痛む。
私のせいで困らせたのだと思うと、顔を上げられない。

けれど。

「稽古が終わったあと、廊下でなら話せる。それは問題ないだろう」
「……はい」
「聞こえた範囲で構わない。引き続き感想を聞かせろ」

思わず顔を上げた。
千景は気づいている。
私が鴇子に何を言われたのか、きっと察している。
それでも、そこで終わりにはしないのだと、淡々とした口調のまま示してくれる。

その言い方が、千景らしかった。
強く庇うわけでもない。感情をあらわにするわけでもない。
けれど、切らない。
細くても、繋がる道だけは残してくれる。

少しだけ、救われた気がした。
居場所を全部なくされたわけではないのだという感覚。
ほんの細い糸みたいなものだったけれど、その糸があるだけで、まだここに立っていられる気がした。