稽古が終わった頃合い。
稽古場の拭き掃除をしようと足を踏み入れると、そこには大の字に転がる千景の姿があった。
稽古着は少し着崩れ、胸が大きく上下している。
流れる汗を拭うこともせず、天井を見たまま、ただ荒い息を繰り返していた。
「大丈夫ですか?」
そっと覗き込むと、千景がはっとしたように目を見開いた。
瞬きも忘れたみたいな顔で、私が近くまで来たことにも、気づいていなかったらしい。
「……大丈夫だ」
「お稽古、大変そうですね」
ここに引き取られてから一年。
千景は、私に対して明確な感情を持って話しかけてくれる、ほとんど唯一の人になっていた。
同情でもない。
敵意でもない。
哀れみでもない。
ただ、対等に、あるいは少しだけ上から目線で。
けれど、いつも誠実に。
「女方が掴めない……」
低くこぼれたその一言に、思わず千景の顔を見た。
女方。
歌舞伎で女役を勤める役者のこと。
千景はまだ修行の途中で、女方一筋というわけではない。
けれど演目によっては女役も勤めるのだと、前に聞いたことがある。
この家に引き取られ、『梨園の娘』になってから、少しずつ歌舞伎のことも詳しくなってきた。
千景は起き上がると、まだ息の整わないまま、す、と立った。
そのまま先ほどまでの稽古をなぞるように動き出す。
演目は、女が登場するくだりなのだろう。
袖の扱い、視線の流し方、足の運び方。
ひとつひとつは丁寧で、稽古を積んできた跡がちゃんと見える。
形だけ見れば、きっと誰もが上手いという。
千景の衣擦れの音、吐息以外、それ以外の音がしないはずの、二人きりの稽古場。
それなのに、頭の中では三味線が鳴り響く。
拍子に合わせるように、千景の声が変わる。
だんだんと女に近づいていく。近づいていくのに、どうしても届ききらない。
でも、何かが引っかかる。
頭の中で、いつもの千景の声と、今の声を聴き比べる。
そして、母の声。座敷のお姉さんたちの声を思い出す。
笑うとき、呼びかけるとき、酔って少し崩れたときの声。
そのどれとも、今の千景の声はほんの少しだけ違う。
何かがずれている。
ほんの少し。けれど、その少しが千景の知りたいことなんだろう。
千景が動きを止め、こちらを見た。
ためらった。
こんなことを言っていいのか、わからない。
千景は東城院の御曹司。
私は愛人の子。
稽古に口を出すなんて、おこがましいにもほどがある。
それでも。
「……あの」
喉が渇く。
助言を求められたわけではない。
けれど、たぶん今しかない。今なら、伝えた方がいい気がした。
「声の揺れが、少し」
「声の揺れ?」
「男の人の声と、女の人の声は、揺れ方が違う気がするんです」
千景の目が、すっと細くなった。
怪訝そうでいて、ちゃんと聞く目だった。
それで少しだけ、話し続ける勇気が出た。
「うまく言えへんのですけど、呼吸と声の揺れのタイミングが……女の人の方が、もう少し後ろについてくるいうか」
「後ろ?」
「はい。男の人の声は、先に前へ出てくる感じがするんです。でも女の人の声は、一拍置いてから、あとを追うみたいに出てくることがあって」
「……」
「その拍が、少し短かった気がします」
言いながら、自分でも説明が曖昧だと思った。
耳で感じたことを言葉にするのは難しい。
伝わらなかったらどうしよう。そう思って、袴の折り目をぎゅっと掴む。
「……生意気なこというて、すんまへん」
「いや」
千景は静かに首を振った。
「もう一度やってみる」
すぐにそう返ってきて、私はまた顔を上げた。
今度は違った。
最初からすべてが変わったわけではない。
それでも、途中から声の揺れが変わる。
私が言った、一拍置いてからついてくる感じ。
それが、ほんの少しずつ近づいていく。
袖が動く。
視線が流れる。
声だけではなく、そこにいる空気まで、少し柔らかく変わった気がした。
千景が止まり、もう一度こちらを見る。
「今のは?」
「……近づいた気ぃします。最後の方が特に」
「そうか」
短い返事だった。
けれど、その声にはさっきまでとは違う色があった。
手応えを掴んだときの、抑えた熱みたいなもの。
千景は少し目を細め、何かを考えるように黙り込む。
それから、ぽつりと言った。
「面白い言い方をするな」
「おかしいことを言いましたか」
「いや。お世辞でも、型通りの批評でもない」
「……」
「自分に聴こえたものを、そのまま言う。そういうのは貴重だ」
何と返せばいいのか分からなくて、黙ってしまう。
褒められたのだと気づくのに、少し時間がかかった。
誰かに何かを言って、役に立ったことなんて、ほとんどない。
まして千景の稽古に、自分の言葉が届くなんて思ってもみなかった。
「また、稽古を見てもらえるだろうか」
その言い方は静かなのに、私にはずいぶん重く響いた。
見てほしい、ではなく、見てもらえるだろうか。
頼まれているのだとわかって、胸の奥が小さく鳴る。
「……はい」
それしか言えなかったけれど、返事をした声は少しだけ弾んでいた気がする。
千景はそれ以上は何も言わず、袖で汗を拭いながら稽古場を出ていった。
一人残された稽古場は、息が詰まるほど静かだった。
静かなのに、さっきまでそこにあった熱だけが、まだ逃げずに満ちている。
雑巾を絞ろうとして桶の水に手を入れ、その冷たさに小さく息を呑んだ。
それでも、頬のあたりだけが妙に熱い。
千景の、稽古のときの顔。
言葉を聞いて、もう一度やってみると言った声。
あの真っすぐな集中が、まだ目の奥に残っていた。
稽古場の拭き掃除をしようと足を踏み入れると、そこには大の字に転がる千景の姿があった。
稽古着は少し着崩れ、胸が大きく上下している。
流れる汗を拭うこともせず、天井を見たまま、ただ荒い息を繰り返していた。
「大丈夫ですか?」
そっと覗き込むと、千景がはっとしたように目を見開いた。
瞬きも忘れたみたいな顔で、私が近くまで来たことにも、気づいていなかったらしい。
「……大丈夫だ」
「お稽古、大変そうですね」
ここに引き取られてから一年。
千景は、私に対して明確な感情を持って話しかけてくれる、ほとんど唯一の人になっていた。
同情でもない。
敵意でもない。
哀れみでもない。
ただ、対等に、あるいは少しだけ上から目線で。
けれど、いつも誠実に。
「女方が掴めない……」
低くこぼれたその一言に、思わず千景の顔を見た。
女方。
歌舞伎で女役を勤める役者のこと。
千景はまだ修行の途中で、女方一筋というわけではない。
けれど演目によっては女役も勤めるのだと、前に聞いたことがある。
この家に引き取られ、『梨園の娘』になってから、少しずつ歌舞伎のことも詳しくなってきた。
千景は起き上がると、まだ息の整わないまま、す、と立った。
そのまま先ほどまでの稽古をなぞるように動き出す。
演目は、女が登場するくだりなのだろう。
袖の扱い、視線の流し方、足の運び方。
ひとつひとつは丁寧で、稽古を積んできた跡がちゃんと見える。
形だけ見れば、きっと誰もが上手いという。
千景の衣擦れの音、吐息以外、それ以外の音がしないはずの、二人きりの稽古場。
それなのに、頭の中では三味線が鳴り響く。
拍子に合わせるように、千景の声が変わる。
だんだんと女に近づいていく。近づいていくのに、どうしても届ききらない。
でも、何かが引っかかる。
頭の中で、いつもの千景の声と、今の声を聴き比べる。
そして、母の声。座敷のお姉さんたちの声を思い出す。
笑うとき、呼びかけるとき、酔って少し崩れたときの声。
そのどれとも、今の千景の声はほんの少しだけ違う。
何かがずれている。
ほんの少し。けれど、その少しが千景の知りたいことなんだろう。
千景が動きを止め、こちらを見た。
ためらった。
こんなことを言っていいのか、わからない。
千景は東城院の御曹司。
私は愛人の子。
稽古に口を出すなんて、おこがましいにもほどがある。
それでも。
「……あの」
喉が渇く。
助言を求められたわけではない。
けれど、たぶん今しかない。今なら、伝えた方がいい気がした。
「声の揺れが、少し」
「声の揺れ?」
「男の人の声と、女の人の声は、揺れ方が違う気がするんです」
千景の目が、すっと細くなった。
怪訝そうでいて、ちゃんと聞く目だった。
それで少しだけ、話し続ける勇気が出た。
「うまく言えへんのですけど、呼吸と声の揺れのタイミングが……女の人の方が、もう少し後ろについてくるいうか」
「後ろ?」
「はい。男の人の声は、先に前へ出てくる感じがするんです。でも女の人の声は、一拍置いてから、あとを追うみたいに出てくることがあって」
「……」
「その拍が、少し短かった気がします」
言いながら、自分でも説明が曖昧だと思った。
耳で感じたことを言葉にするのは難しい。
伝わらなかったらどうしよう。そう思って、袴の折り目をぎゅっと掴む。
「……生意気なこというて、すんまへん」
「いや」
千景は静かに首を振った。
「もう一度やってみる」
すぐにそう返ってきて、私はまた顔を上げた。
今度は違った。
最初からすべてが変わったわけではない。
それでも、途中から声の揺れが変わる。
私が言った、一拍置いてからついてくる感じ。
それが、ほんの少しずつ近づいていく。
袖が動く。
視線が流れる。
声だけではなく、そこにいる空気まで、少し柔らかく変わった気がした。
千景が止まり、もう一度こちらを見る。
「今のは?」
「……近づいた気ぃします。最後の方が特に」
「そうか」
短い返事だった。
けれど、その声にはさっきまでとは違う色があった。
手応えを掴んだときの、抑えた熱みたいなもの。
千景は少し目を細め、何かを考えるように黙り込む。
それから、ぽつりと言った。
「面白い言い方をするな」
「おかしいことを言いましたか」
「いや。お世辞でも、型通りの批評でもない」
「……」
「自分に聴こえたものを、そのまま言う。そういうのは貴重だ」
何と返せばいいのか分からなくて、黙ってしまう。
褒められたのだと気づくのに、少し時間がかかった。
誰かに何かを言って、役に立ったことなんて、ほとんどない。
まして千景の稽古に、自分の言葉が届くなんて思ってもみなかった。
「また、稽古を見てもらえるだろうか」
その言い方は静かなのに、私にはずいぶん重く響いた。
見てほしい、ではなく、見てもらえるだろうか。
頼まれているのだとわかって、胸の奥が小さく鳴る。
「……はい」
それしか言えなかったけれど、返事をした声は少しだけ弾んでいた気がする。
千景はそれ以上は何も言わず、袖で汗を拭いながら稽古場を出ていった。
一人残された稽古場は、息が詰まるほど静かだった。
静かなのに、さっきまでそこにあった熱だけが、まだ逃げずに満ちている。
雑巾を絞ろうとして桶の水に手を入れ、その冷たさに小さく息を呑んだ。
それでも、頬のあたりだけが妙に熱い。
千景の、稽古のときの顔。
言葉を聞いて、もう一度やってみると言った声。
あの真っすぐな集中が、まだ目の奥に残っていた。



