『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~



 ドリアン寺への道は、相沢が想像していたより近かった。

 村の中央の「日本街道」を抜けると、山肌に沿って石段が続いていた。

 苔むした段差を一つ越えるごとに、村の犬の声が遠くなる。

 連合軍の足音も、川の赤い匂いも、少しずつ薄れていく。

 山肌の上に、ピンクの壁が見えた。

 中村軍曹は一段一段を確かめるように登った。

 左腕の包帯は黒ずんでいた。傷は膿んでいる。

 相沢には分かっていた。

 軍曹自身も分かっているはずだった。

 本堂の前で、軍曹は立ち止まった。
 
 扉は開いていた。中から線香の煙が流れ出してくる。
 
 金色の仏像が、薄暗い堂内の奥で静かに光っていた。
 
 軍曹はボロボロの軍靴を脱いだ。
 
 相沢も倣った。

 石の床は冷たかった。

 二人分の軍靴の音が消えると、堂内はひどく静かになった。

 虫の声さえ遠い。

 軍曹は仏像の前に座った。

 正座ではなく、あぐらをかいた―疲れ果てた老人のように。

 相沢はその隣に腰を下ろした。

 しばらく、何も言わなかった。

 線香の煙が二人の間をゆっくりと流れた。

 やがて軍曹が口を開いた。

「相沢……」

「はい」

「俺はな……」

 そこで一度、言葉が止まった。

 仏像の目が、二人をまっすぐ見ていた。

 金色の、静かで穏やかな目だった。

「この道を作っていた頃のことだ」

 日本街道-あの赤土の道。

「一人、殺した」

 相沢は息を呑んだ。

「戦闘ではない。命令でもない」

 軍曹の声は低く、乾いていた。

 感情を押し殺しているのではなく、もう感情そのものが擦り切れているような声だった。

「夜中に、一人の男が逃げようとした。村の男だ。若かった。俺より若かった」

 線香の灰が、音もなく落ちた。

「追いかけた。追いついたよ。そして……怖かったんだ」

 相沢は軍曹の横顔を見た。

 皺の深い、泥と血で汚れた顔。

 その目が、仏像をまっすぐ見ていた。

「逃げられたら困る、じゃない。ただ怖かった。暗い森の中で、自分が何者か分からなくなる気がした。だから、息をしなくなるまで殴った。止まらなかった」
 
 風が堂内を通り抜けた。
 
 蠟燭の炎が揺れる。

「名前も知らん。顔は覚えている。今でもな…」

 軍曹はそこで初めて相沢の方を向いた。

「お前に話したのは、誰かに聞いていてもらいたかったからだ。墓まで一人で持っていくには、少し重すぎた」

 相沢は何も言えなかった。

 言葉を探したが、見つからなかった。

 ただ、うなずいた。

 それで十分だった、と思いたかった。

 軍曹は再び仏像に向き直った。

「相沢…」

「はい」

「お前はここに残れ」

 命令の口調だった。

 最後の、命令だった。

 相沢は背筋を伸ばした。

「……それは?」

「命令だ」

 軍曹は立ち上がった。

 ゆっくりと、しかし迷いなく。

 履物を履かずに、石畳の境内へ出て行った。

 本堂の前の石段の途中で立ち止まり、振り返らなかった。

 外の光の中に、その背中が溶けていく。

 相沢は動けなかった。

 仏像だけが、たおやかに中村の背を追う。

 金色の目で、静かに。

 そして乾いた一発の銃声がした。

 鳥が飛び立つ羽音がした。

 それきり、静かになった……。