『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~



 遠くから、人の声が近づいてくる……。

 最初に聞こえたのは、泣き声だった。

 中年の女の声だった。

 それは怒鳴り声でも罵声でもない。

 ただ、腹の底から絞り出すような低い嘆きだった。

 小川の下流から、村人たちが集まってくる。
 
 裸足の子ども。鍬を握った老人。肩を震わせる女たち。

 誰も相沢たちを見ていなかった。

 皆、川を見ていたー赤く濁った流れ。

 そこに引っかかるように止まった軍馬の死体。

 膨れた腹がゆっくりと揺れ、腐臭が朝の空気に広がる。

 老父の一人が水面に石を投げた。

 ぱしゃり、と鈍い音がした。

「もう飲めぬ……」誰かが呟いた。

 別の老婆が両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。

 水瓶が転がり、空しく乾いた音を立てた。

 この川は村の命だった。

 畑を潤し、米を炊き、祈りの前に口をすすぐ。

 そのすべてが、いま止められている。

 戦争は終わったというのに。

 中村軍曹は相沢の腕を掴んだまま、動かなかった。

 逃げることも、隠れることもできたはずだった。

 だが、足が動かなかった。

 相沢も同じだった。

 背嚢の重みが、急に現実味を帯びる。

 中で擦れ合う米の音がやけに大きく聞こえた。

 その時だった。

 あの彼女が人垣の向こうに現れた。

 昨夜の女だった。

 彼女はゆっくりと歩いてくる。

 村人たちの間を抜け、まっすぐ相沢の前まで来て止まった。

 相沢は目を逸らせなかった。

 赤い流れ。腐った命。

 彼女は、自分の胸に手を当てた。

 そして、相沢の胸を指差した。

 言葉はいらなかった。

 ――あなた達の戦争は、まだ此処にある。

 そう言われた気がした。

 遠くで銃の安全装置を外す音がした。

 はっきりと英語と分かる声が聞こえて来た。

 連合国軍の兵士たちが、村へ下りてくるのが見えた。

 二人は素早く村人の陰に隠れてその場を離れた……。