『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~




 相沢はしばらく、動かなかった。

 銃声の余韻が石の壁に吸い込まれ、線香の煙だけが変わらず揺れている。

 立ち上がれなかった。

 立ち上がってしまえば、扉の外へ出なければならない。

 出てしまえば、軍曹の死を自分の目で確かめなければならない。

 確かめてしまえば、自分が一人になる。

 だから動かなかった。

 どれほど時間が経ったか分からない。

 やがて、足音がした。

 軽い足音だった。

 草履が石を踏む音。

 相沢は顔を上げた。

 老いたタイ人の僧侶が立っていた。

 橙色の袈裟をまとい、剃り上げた頭に汗の粒が光っている。

 小柄な体で、相沢を見下ろしていた。

 目が合った。

 老僧は何も言わなかった。

 ただ、相沢の軍服の上から下まで、ゆっくりと視線を動かした。

 それから、外を指差した。

 相沢は立ち上がった。

 膝が笑った。

 石の床が冷たかった。

 扉の外に出ると、午後の光が目に刺さった。

 境内の菩提樹の木陰に、軍曹は倒れていた。

 俯せに、右手に拳銃を握ったまま。

 血は思ったより少なかった。

 赤土の上に、黒く小さな染みができているだけだった。

 老僧が相沢の隣に立った。

 両手を合わせ、目を閉じた。

 唇が動く―タイ語の経文だった。

 相沢には意味が分からない―だが音の輪郭だけは聞こえた。

 低く、一定で、波のように繰り返される声。

 相沢も手を合わせた。

 言葉は出なかった。

 軍曹の顔が見えた。

 目は閉じていた。
 
 苦しんだ形跡はなかった―ただ眠っているように見えた。

 だがそれは嘘だと、相沢は知っていた。
 
 眠りとは違う―もっと遠い場所へ行ってしまった顔だった。

 老僧の経文が終わった。

 静寂が戻る。
  
 老僧は相沢を見た。
 
 何かを問うような目だった。

 それから、寺の本堂を指差した。

 相沢にその意味が分からない。

 逃げれば生き延びられるかもしれない。

 だがその先で、自分が何者になるのか分からなかった。

 寺の石段に、掃かれていない落ち葉が、朝の風に揺れている。 

 相沢は老僧の方を見た。

「……ここに、いさせてください」 

 初めて自分の意思で言葉を選んだ。 

 老僧は静かに頷いた。

 相沢が日本語で何と言ったかも気にしないように……。