追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

最初の一時間は、状況の整理と脱出経路の検討に費やした。
公爵家に戻って訴える、という選択肢は真っ先に却下した。

あの様子では、戻ったところで追い払われるだけ。
むしろ、さっき以上に大騒ぎになるかもしれない。
魔法を解いてもらうには、魔女を見つけるしかない。
でも今その魔女は、ミレイユの顔で、ミレイユの声で、婚約式に臨もうとしている。

考えるだけで、胸の奥がざり、と痛んだ。
二時間目は、途方に暮れることに費やした。
三時間目に、空腹が牙を剥いた。

考えてみれば、今朝から何も食べていない。
支度に追われて朝食を取りそびれていたのだ。
人間の体でも空腹だったのに、猫の体になった今は、胃がきゅうっと縮むみたいに空腹が強い。
鼻が利くせいか、食べ物の匂いが余計につらかった。

(何か食べないと)

市場の方へ行けば、何か落ちているかもしれない。
猫なんだから、そのくらい——と思ったものの、ブランシュフォール公爵家の令嬢として育ったミレイユには、地面に落ちたものを拾い食いするという行為への心理的ハードルがあまりにも高かった。

でも、食べなければ死ぬ。
令嬢としての矜持より、いまは生き延びることのほうが先だ。

市場は人でいっぱいだった。
色とりどりの布地、山積みの野菜、魚の並ぶ台、焼き菓子の屋台。
匂いが幾重にも重なって押し寄せてくる。甘い匂い、塩気のある匂い、生臭い匂い。
鼻が良すぎるのも考えものだと、こんなときに知った。

見ると、いろいろなものが足元に落ちている。
パンの欠片。野菜の切れ端。魚の骨。

(骨は食べられない……いや、猫だから食べられる?でも喉に刺さったらどうするの?そもそも、生で?)

迷っているあいだに、先客の存在に気づいた。
灰色の猫が一匹、素早く魚の骨をくわえて走り去っていく。
まるでためらいがない。この街で生きてきた猫の動きだった。

(ああいう風にすれば……)
「おい、猫!」

怒鳴り声が飛んだ。
ミレイユはびくっと飛び上がる。
耳が反射的に伏せられ、尻尾が膨らんだ。
市場の魚屋が、こちらを睨んでいた。

「うちの台に近づくな!あっちへ行け!」
(そうだ……この国では猫は嫌われものだった)

胸の奥がすうっと冷たくなる。
白猫は不吉。さっき魔女が言っていたことを、最悪の形で思い出した。

ミレイユは走って逃げた。
人の足のあいだを縫い、木箱の脇をすり抜け、なんとか路地へ転がり込む。
息が切れ、小さな胸がせわしなく上下する。

(なんでこんなことに……)

路地の隅にしゃがみ込み、ミレイユは初めて本気で泣きそうになった。
婚約式は、もう始まる頃だろう。
魔女が自分のふりをして、王太子殿下と向き合っている。
自分は路地の隅で、空腹に耐えながら小さくなっている。

「……ゥミャウ……(……笑えない)」

かすれた鳴き声しか出なかった。
泣いても仕方がないし、そもそも猫が泣いたところで、誰もミレイユの絶望だとは気づかない。
それでも、ここでうずくまっているわけにはいかなかった。

(まず食べること。それから考えないと)

結局その日、ミレイユが口にできたのは、パン屋のゴミ箱に捨てられていた廃棄のパンの欠片と、お惣菜屋の前で若い女の子がくれた煮魚の切れ端だけだった。

女の子は「白猫だ!」と目を輝かせ、自分の食べかけの煮魚をちぎって分けてくれた。
しゃがみ込んだその手は小さくて、少しぬくかった。
ミレイユが恐る恐る近づくと、逃がさないようにではなく、驚かせないようにそっと差し出してくる。
人間にも、こんなふうに優しい人はいるのだと、猫になってから初めて知った気がした。

けれど、恵んでもらったものを食べながら、ミレイユの胸の内はなんとも複雑だった。

人から施しを受けるという経験を、生まれて初めてしたのだ。
公爵令嬢として何不自由なく生きてきた自分が、猫の姿で地面に座り、人から食べ物をもらっている。
しかも、差し出された魚に思わず鼻先が寄ってしまった自分が、少しだけ情けない。

(……ありがたいけど、どうにも心に刺さる)

でも、食べなければ死ぬ。
だから食べた。

煮魚は思ったよりずっと美味しかった。
舌に触れた瞬間、塩気と旨みがぱっと広がって、骨の気配まで妙にはっきりわかる。
猫の舌は正直だった。悔しいくらいに。

夜になると、ミレイユは隠れるように教会の軒下へ潜り込んだ。
石の上は硬く、夜風は冷たい。
昼のあいだに少し乾いた毛並みも、夜気に触れるとすぐ頼りなくなる。
体を丸め、尻尾を体に巻きつけるみたいにして目を閉じたが、なかなか眠れなかった。

「ミャ……(今頃、婚約式は終わったかな)」

魔女は式を終えてしまっただろうか。
王太子殿下は何も気づかないままだったか。
ブランシュフォール公爵家の使用人たちは、主人が入れ替わっていることに気づかないのか。

考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。
それでも、そこで思考を止めるわけにはいかなかった。

(でも、諦めない)

軒下から夜空を見上げると、星が出ていた。
五月の空は透き通っていて、ひとつひとつの光がよく見える。
令嬢だった頃、よく夜の庭に出て星を見上げていたことを思い出す。
侍女頭には「夜露に濡れますから」と怒られていたけれど、あのひんやりした空気も、静かな庭も、ミレイユは案外好きだった。

(もう一度、あの庭で星を見たい)

そう思った途端、喉の奥が少しだけ詰まった。
泣くまいと目を閉じて、ミレイユはようやく眠りに落ちた。