すぐに他の侍女たちも駆けつけてくる。
「猫……!」
「不吉だわ!」
「婚約式の当日に!」
ざわざわとした声が一気に膨らむ。
ミレイユはその輪の中で、ぐるぐると鳴き続けた。
耳を伏せ、尻尾を膨らませ、逃げ場を探して視線だけが忙しなく揺れる。
「ニャニャニャ!(違う!私よ!みんな、私の声を聞いて!)」
でも届かない。
侍女の一人が箒を取り出した瞬間、本能的な恐怖が背を走った。
居室の隅へ追い詰められ、さらに窓際へと追い立てられる。
ひげが壁に触れ、逃げ場のなさだけがはっきりわかった。
「出て行きなさい!」
「さあ、早く!」
侍女が窓を開ける。外の空気がどっと流れ込んできた。
高い。怖い。けれど、後ろからは箒が迫ってくる。
視界の端では、魔女が化けた自分が、怯えるふりをして、笑っているのが見える。
選択肢はなかった。
ミレイユは窓枠を蹴って、外へ飛び出した。
二階の窓から飛び降りるなんて、人間だったら絶対にしたくない。
猫の体でも、やっぱり怖かった。
けれど躊躇している余裕はない。ミレイユは思いきって身を躍らせた。
ふわ、と一瞬だけ体が軽くなる。
次の瞬間には四つ脚で草の上にシュタッと着地していた。
衝撃はあるのに、砕けるような痛みはない。
猫は着地が上手い。頭の片隅で妙に冷静な感想が浮かぶ。
でも感心している場合ではなかった。
ミレイユはそのままの勢いで走った。
どこへ行くかなんて考えていない。ただ走る。
後ろを振り返ったら、全部おしまいな気がして。
屋敷の裏庭を抜け、厩舎の横を通り過ぎ、使用人用の門が開いているのを見つけると、そこから外へ飛び出した。
石畳の道へ出たところで、ようやく足を止める。
振り向くと、ブランシュフォール公爵家の屋敷が、遠ざかっていく。
——いや、違う。
遠ざかっているのではなく、自分が離れてきたのだ。
五月の風が、白い毛並みをそっと撫でた。
風の通り道が、毛の流れに沿ってわかる。
そんなことまで感じ取れてしまう自分が、ちょっとだけ嫌だった。
(……これからどうしよう)
どうしようも何も、どうにもならなかった。
猫になって最初にわかったのは、世界がずいぶん大きいということ。
道行く人の足は柱みたいで、裾の揺れるだけで風圧を感じる。
荷馬車の車輪は岩のように巨大で、近くを通るたびに地面がどん、と震えた。
建物は天まで届く壁みたいで、石畳の一つひとつが、いちいちまたがなければならない段差に見える。
人間だったときには、気にもしなかったことばかりだ。
それが今は、いちいち障害になる。
その一方で、猫の体は人間が思っていたよりずっと機能的だった。
狭い隙間をすり抜けること。
少し高い塀なら、助走もそこそこに跳び上がれること。
物音に耳が勝手に反応して、危なそうな方向へは自然と体が引けること。
どうやらこの体には、猫としての本能がきちんと宿っているらしい。
ただ問題は、それだけでは生きていけないということだった。
(お腹が空いた)
「猫……!」
「不吉だわ!」
「婚約式の当日に!」
ざわざわとした声が一気に膨らむ。
ミレイユはその輪の中で、ぐるぐると鳴き続けた。
耳を伏せ、尻尾を膨らませ、逃げ場を探して視線だけが忙しなく揺れる。
「ニャニャニャ!(違う!私よ!みんな、私の声を聞いて!)」
でも届かない。
侍女の一人が箒を取り出した瞬間、本能的な恐怖が背を走った。
居室の隅へ追い詰められ、さらに窓際へと追い立てられる。
ひげが壁に触れ、逃げ場のなさだけがはっきりわかった。
「出て行きなさい!」
「さあ、早く!」
侍女が窓を開ける。外の空気がどっと流れ込んできた。
高い。怖い。けれど、後ろからは箒が迫ってくる。
視界の端では、魔女が化けた自分が、怯えるふりをして、笑っているのが見える。
選択肢はなかった。
ミレイユは窓枠を蹴って、外へ飛び出した。
二階の窓から飛び降りるなんて、人間だったら絶対にしたくない。
猫の体でも、やっぱり怖かった。
けれど躊躇している余裕はない。ミレイユは思いきって身を躍らせた。
ふわ、と一瞬だけ体が軽くなる。
次の瞬間には四つ脚で草の上にシュタッと着地していた。
衝撃はあるのに、砕けるような痛みはない。
猫は着地が上手い。頭の片隅で妙に冷静な感想が浮かぶ。
でも感心している場合ではなかった。
ミレイユはそのままの勢いで走った。
どこへ行くかなんて考えていない。ただ走る。
後ろを振り返ったら、全部おしまいな気がして。
屋敷の裏庭を抜け、厩舎の横を通り過ぎ、使用人用の門が開いているのを見つけると、そこから外へ飛び出した。
石畳の道へ出たところで、ようやく足を止める。
振り向くと、ブランシュフォール公爵家の屋敷が、遠ざかっていく。
——いや、違う。
遠ざかっているのではなく、自分が離れてきたのだ。
五月の風が、白い毛並みをそっと撫でた。
風の通り道が、毛の流れに沿ってわかる。
そんなことまで感じ取れてしまう自分が、ちょっとだけ嫌だった。
(……これからどうしよう)
どうしようも何も、どうにもならなかった。
猫になって最初にわかったのは、世界がずいぶん大きいということ。
道行く人の足は柱みたいで、裾の揺れるだけで風圧を感じる。
荷馬車の車輪は岩のように巨大で、近くを通るたびに地面がどん、と震えた。
建物は天まで届く壁みたいで、石畳の一つひとつが、いちいちまたがなければならない段差に見える。
人間だったときには、気にもしなかったことばかりだ。
それが今は、いちいち障害になる。
その一方で、猫の体は人間が思っていたよりずっと機能的だった。
狭い隙間をすり抜けること。
少し高い塀なら、助走もそこそこに跳び上がれること。
物音に耳が勝手に反応して、危なそうな方向へは自然と体が引けること。
どうやらこの体には、猫としての本能がきちんと宿っているらしい。
ただ問題は、それだけでは生きていけないということだった。
(お腹が空いた)



