ミレイユは客間のベッドで目を覚ました。
柔らかな寝台。清潔なシーツ。窓から差し込む朝の光。
猫だったあいだには当たり前ではなかったものが、今は全部、目の前にある。
(人間として……眠れた)
ミレイユはゆっくりと身を起こした。
まず、自分の手を見る。
指が五本ある。爪は小さく、丸く、あの可愛らしい肉球はもうない。
(夢じゃない。人間の手……)
当たり前のことなのに、ひどく新鮮だった。
手を握って、開く。もう一度、握る。
それだけで少し泣きそうになる。
扉をノックする音がした。
入ってきたのは、見知らぬ侍女だった。
王宮付きの侍女で、昨夜から世話をしてくれている人らしい。
「ミレイユ様、お目覚めですか。身支度のお手伝いに参りました」
「ありがとう」
自分の声が、まだ少しだけ不思議だった。
猫の鳴き声ではなく、ちゃんと人の言葉として届く。それだけのことに、まだ胸が落ち着かない。
朝食のあと、ミレイユは執務室に呼ばれた。
扉を開けると、殿下がいた。
いつもの机の前に、いつもの椅子に座っている。
(同じ部屋。でも、目線が全然違う。今は人間として来ている)
ミレイユは少し緊張した。
この殿下と一緒に過ごす間、一度も感じなかった種類の緊張。
猫のミレイユにはなかった、人間のミレイユとしての緊張だった。
「座ってくれるか」
「はい」
ソファに腰を下ろす。
殿下も対面に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
(何から話せばいいのやら……)
猫のときは、言えないことばかりだった。
けれど今は、言葉がある。
そのはずなのに、ありすぎて、何から口にしていいのかわからなかった。
「まず、謝罪を受け取ってほしい。私の婚約者であるべきあなたが、こんな目に遭うまで気づけなかった」
「いいえ……」
ミレイユは首を振った。
「殿下は何も悪くありません。猫に変えられたのは私ですし……それに、猫でいる間も、たくさん助けていただきました」
「助けた、か」
「はい」
少し息を吸ってから、ミレイユは続けた。
「ご迷惑ばかりおかけしたと思っていました。でも、寒い夜も、怖い夜も、殿下がいたから耐えられました」
「迷惑ではなかった」
殿下の表情が、わずかにやわらぎ、静かに、はっきりと言った。
ミレイユは顔を上げる。
「お前が——ミィがいてくれたことで、私は随分、楽になった部分がある」
「殿下……」
「何でも正直に示す猫だった。嫌なときは嫌だとわかる顔をするし、怖いときは傍に来た。難しいことを考えていると思ったら、本を出せと示した。疲れているときは、膝の上にいてくれた」
青灰色の目が、まっすぐミレイユを見ていた。
「それがお前だったとわかっても……印象は変わらない」
ミレイユは何も言えなかった。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
猫だった自分の時間を、なかったことにしないでくれる。
それが、たまらなく嬉しかった。
「ただ、一つだけ聞いていいか」
「……はい」
「毎夜、頭を舐めていたのは」
ミレイユの頬が、一瞬で熱くなった。
「それは……その……猫の習性で……!猫が親しみを持っている相手に対して、本能的にそういう行動を取ることがあると申しますか、あれは本当に、猫の習性なんです……!」
「そうか」
殿下の口元が、わずかに動いた。
笑った。
あの夜に見た、小さな、本物の笑顔だった。
「ありがとう」
(な……なんで感謝されるの……!)
「あれは嫌ではなかった」
「へ……?」
「それと、ぐりぐり——足に顔を擦りつけていたのも、嫌ではなかった」
今度こそ、ミレイユの顔は完全に真っ赤になった。
「ニャア……ではなく、その、えっと……(全部知ってた!!!最初から全部知ってたの!!!)」
言葉が出てこない。
令嬢として身につけた語彙も礼儀も、この場面ではまったく役に立たなかった。
穴があったら入りたい、と思ったが、もう猫ではないので狭い隙間にも逃げ込めない。
殿下が立ち上がった。
そして、ミレイユのそばまで来て、しゃがむ。
猫のミィに話しかけていたときと同じ高さになるように。
「ミレイユ・ド・ブランシュフォール」
「……はい」
「改めて、よろしくお願いします」
その言い方は穏やかで、でもきちんとしていた。
猫ではなく、人として向き合おうとしてくれているのが伝わる。
ミレイユは胸の奥がいっぱいになるのを感じながら、そっと頷いた。
「はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
人間の姿で、ちゃんと返事ができた。
そのことが、何より嬉しかった。
柔らかな寝台。清潔なシーツ。窓から差し込む朝の光。
猫だったあいだには当たり前ではなかったものが、今は全部、目の前にある。
(人間として……眠れた)
ミレイユはゆっくりと身を起こした。
まず、自分の手を見る。
指が五本ある。爪は小さく、丸く、あの可愛らしい肉球はもうない。
(夢じゃない。人間の手……)
当たり前のことなのに、ひどく新鮮だった。
手を握って、開く。もう一度、握る。
それだけで少し泣きそうになる。
扉をノックする音がした。
入ってきたのは、見知らぬ侍女だった。
王宮付きの侍女で、昨夜から世話をしてくれている人らしい。
「ミレイユ様、お目覚めですか。身支度のお手伝いに参りました」
「ありがとう」
自分の声が、まだ少しだけ不思議だった。
猫の鳴き声ではなく、ちゃんと人の言葉として届く。それだけのことに、まだ胸が落ち着かない。
朝食のあと、ミレイユは執務室に呼ばれた。
扉を開けると、殿下がいた。
いつもの机の前に、いつもの椅子に座っている。
(同じ部屋。でも、目線が全然違う。今は人間として来ている)
ミレイユは少し緊張した。
この殿下と一緒に過ごす間、一度も感じなかった種類の緊張。
猫のミレイユにはなかった、人間のミレイユとしての緊張だった。
「座ってくれるか」
「はい」
ソファに腰を下ろす。
殿下も対面に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
(何から話せばいいのやら……)
猫のときは、言えないことばかりだった。
けれど今は、言葉がある。
そのはずなのに、ありすぎて、何から口にしていいのかわからなかった。
「まず、謝罪を受け取ってほしい。私の婚約者であるべきあなたが、こんな目に遭うまで気づけなかった」
「いいえ……」
ミレイユは首を振った。
「殿下は何も悪くありません。猫に変えられたのは私ですし……それに、猫でいる間も、たくさん助けていただきました」
「助けた、か」
「はい」
少し息を吸ってから、ミレイユは続けた。
「ご迷惑ばかりおかけしたと思っていました。でも、寒い夜も、怖い夜も、殿下がいたから耐えられました」
「迷惑ではなかった」
殿下の表情が、わずかにやわらぎ、静かに、はっきりと言った。
ミレイユは顔を上げる。
「お前が——ミィがいてくれたことで、私は随分、楽になった部分がある」
「殿下……」
「何でも正直に示す猫だった。嫌なときは嫌だとわかる顔をするし、怖いときは傍に来た。難しいことを考えていると思ったら、本を出せと示した。疲れているときは、膝の上にいてくれた」
青灰色の目が、まっすぐミレイユを見ていた。
「それがお前だったとわかっても……印象は変わらない」
ミレイユは何も言えなかった。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
猫だった自分の時間を、なかったことにしないでくれる。
それが、たまらなく嬉しかった。
「ただ、一つだけ聞いていいか」
「……はい」
「毎夜、頭を舐めていたのは」
ミレイユの頬が、一瞬で熱くなった。
「それは……その……猫の習性で……!猫が親しみを持っている相手に対して、本能的にそういう行動を取ることがあると申しますか、あれは本当に、猫の習性なんです……!」
「そうか」
殿下の口元が、わずかに動いた。
笑った。
あの夜に見た、小さな、本物の笑顔だった。
「ありがとう」
(な……なんで感謝されるの……!)
「あれは嫌ではなかった」
「へ……?」
「それと、ぐりぐり——足に顔を擦りつけていたのも、嫌ではなかった」
今度こそ、ミレイユの顔は完全に真っ赤になった。
「ニャア……ではなく、その、えっと……(全部知ってた!!!最初から全部知ってたの!!!)」
言葉が出てこない。
令嬢として身につけた語彙も礼儀も、この場面ではまったく役に立たなかった。
穴があったら入りたい、と思ったが、もう猫ではないので狭い隙間にも逃げ込めない。
殿下が立ち上がった。
そして、ミレイユのそばまで来て、しゃがむ。
猫のミィに話しかけていたときと同じ高さになるように。
「ミレイユ・ド・ブランシュフォール」
「……はい」
「改めて、よろしくお願いします」
その言い方は穏やかで、でもきちんとしていた。
猫ではなく、人として向き合おうとしてくれているのが伝わる。
ミレイユは胸の奥がいっぱいになるのを感じながら、そっと頷いた。
「はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
人間の姿で、ちゃんと返事ができた。
そのことが、何より嬉しかった。



