追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

それから数日後の朝だった。

魔女は執務室前の廊下を、ただ通りかかっただけのつもりだった。
本当に、そのまま通り過ぎるはずだった。
けれど執務室の扉が、ほんの少しだけ開いていた。

隙間から、声が漏れる。

殿下の——笑い声。

宮廷で、そんなものを聞いた者はほとんどいない。
少なくとも魔女は聞いたことがなかった。
それは声を立てて笑うようなものではなく、抑えた、くつろいだ笑いの気配だった。
けれど確かに、笑っていた。

「ニャア」

猫の声がする。
続いて、殿下が朗らかな声で何か話しかける気配。

魔女は足を止めた。

(あの猫と……笑っている?)

扉の隙間から覗く。
殿下はソファに座り、白猫を膝に乗せていた。
手には羽のついた棒を持っている。それを軽く振るたび、猫が前足で追いかける。
そのたびに、殿下の口元がやわらかく動いた。

(楽しそう……!)

魔女の胸に、煮え立つような感情があふれた。
あのお方のそばにいるのは、自分のはずだった。
あのお方に笑顔を向けられるのは、自分のはずだった。
五年間、計画してきた。
準備してきた。
やっと手に入れた機会だった。

なのに——なのに——

(あの猫さえいなければ!)

魔女は踵を返し、廊下を歩き去った。
もう優雅に待てる限界ではなかった。

その夜は、殿下が遅くまで謁見の予定だった。
侍従も夕食の準備で厨房棟へ行っており、執務室には珍しく人がいない時間帯があった。

ミレイユはソファで丸まっていた。

(殿下が戻るまで、少し眠ろう)

ごろごろと喉を鳴らす。
お気に入りの毛布をふみふみしながら、うとうとし始めた、そのときだった。

廊下の足音が止まった。
耳がぴくりと扉の方を向く。
ミレイユは目を開けた。

(この足音は確か……)

扉が、ゆっくりと開いた。
音を立てないように、慎重に。
入ってきたのは、魔女だった。

ミレイユは瞬時に飛び起きた。

(一人で来た……!)

魔女がミレイユを見る。
その目には、もう笑顔のかけらもなかった。

「見つけた」

低い声。
本来の声色だ。
偽ミレイユとしての柔らかな声音ではなく、魔女本来の冷たい声。

全身の毛が逆立ち、しっぽがぶわっと膨らむのが自分でもわかった。

「今夜で終わりにしましょう、お嬢様」
「シャーッ!!(来る……!)」

ミレイユはソファから飛び降り、反射的に逃げようとした。
けれど魔女の動きの方が速い。
扉を閉め、逃げ道を塞ぐ。
机の裏へ回り込もうとすると、そちらへ先回りされる。
書棚へ向かえば、長い腕が伸びてきた。

「ニャッ!!?(まずい——!)」

離れているはずの魔女の手に、吸い寄せられるように体が引かれる。
次の瞬間、首の後ろを掴まれた。
ぐい、と持ち上げられる。

「ふっ。本気を出せば猫なんて、いつでも捕まえられたのよ」
「シャーーッ!!(痛い……!)」

猫の首根っこを掴むのは、ある意味では無力化の手段だ。
子猫を運ぶとき、母猫がそうするように、首の後ろを掴まれると一瞬体が緩む本能がある。
でも、荒々しくやられれば当然痛い。
痛いし、怖いし、何より悔しかった。

「暴れるな。あなたの姿が必要な限り、殺せない」

魔女が冷たく言う。

「遠くへ連れて行ってあげる。もう王宮には戻れないくらい、遠くに。今度こそ終わりよ」
「ニャーー!!(離して……!)」

ミレイユは前足をばたつかせた。
けれど逃げられない。
首の後ろを押さえられているせいで、力がうまく入らない。
情けないほど、何もできなかった。

「大人しくして——」
「何をしている」

声がした。
扉が開き、廊下に殿下が立っていた。

魔女が固まる。
殿下の目が、魔女の手を、そしてそこに掴まれているミレイユを見ていた。

「……ミィを放せ」

低い、静かな声だった。
けれどその声には、ミレイユが今まで聞いたことのない種類の冷たさが宿っていた。
怒鳴っているわけではない。
それなのに、空気そのものが凍るみたいに冷えた。

魔女の顔に、はっきりと『しまった』と書いてあった。

「これは……猫が爪を立ててきて、その、乱暴にするつもりではなく」
「嘘をつくな」

殿下の声は静かだった。
激しくない。荒くもない。
でも、有無を言わせない重みがあった。

「もう一度言う。ミィを放せ。今すぐ」

魔女の手が緩んだ。
ミレイユの体が床へ落ちる。

けれど着地すると同時に、ミレイユは殿下の方へ駆けた。
殿下がすぐにしゃがみ込み、抱き上げる。

「怪我はないか」
「ニャア(首が少し痛いけど……大丈夫です)」

殿下の手が首の後ろをそっと確かめた。
乱暴に触れず、痛む場所を避けるような手つきだった。
それだけで、さっきまで強張っていた体から少し力が抜ける。
殿下はミレイユを抱いたまま立ち上がり、魔女を見る。

「説明しろ。なぜ、わざわざ一人で私の執務室に入り込み、ミィの首を掴んでいたのか」
「……」
「何も言わないつもりか」

魔女が言葉に詰まる。
さっきまでの勢いは、もうどこにもなかった。
殿下が廊下へ向かって言った。

「侍従、侍女長を呼んでこい。それから父上と母上にも伝言を」
(え?もう廊下にいたの?侍従)
「はい、殿下!」

廊下の向こうから侍従の声がした。
小走りに去っていく足音。

(侍従……見ていたの?)

もしかしたら、最初から異変に気づいていたのかもしれない。
あるいは、こうなることを殿下も読んでいたのかもしれない。
ミレイユがそう思っているあいだに、殿下が魔女へ向き直った。
その横顔は、いつもの静けさのまま、今まででいちばん容赦がなかった。

執務室に、人が集まり始めた。
侍女長、侍従、数人の侍従。そして王妃。
王様はまだ謁見の最中だったが、急使を送ったとのことで、ほどなくして王様自身も姿を現した。

狭くはないはずの執務室が、急に息苦しく感じられる。
誰も大声は出していないのに、空気だけが張りつめていた。

魔女——偽ミレイユ——は、そのただならぬ雰囲気に顔を蒼白にしながらも、まだ笑顔を保とうとしていた。
けれど口元は引きつり、目元には余裕がない。
優雅な令嬢の仮面が、いまにも剥がれ落ちそうだった。

「殿下、これは少し大げさではないでしょうか。猫を少し持ち上げただけで……」
「首根っこを掴んで、遠くに連れて行くと言っていた」

殿下が静かに言った。
怒鳴りもしない。声を荒らげもしない。
それなのに、魔女はそれだけで口を詰まらせる。

「私が聞いていた」

その一言で、執務室の温度がさらに下がった気がした。
魔女が口を閉じる。

「以前から、ミィを追い出そうとしていた。庭の猫を追い出す命令を出した。夜に侍従を呼び止めて、猫の居場所を探った。そして今夜、一人で私の執務室に侵入した」
「それは……」
「何か弁明があるなら聞こう」