偽ミレイユ——魔女——の苛立ちは、もう隠しきれないところまで来ていた。
目に見えて増している。どころか、近くにいれば空気でわかるほど。
魔女がミレイユを追い出せないのには、はっきりした理由がある。
殿下が保護しているからだ。
王妃もいる。王様もいる。
さらに今や、宮廷の侍女や侍従の多くが『お猫様』の支持者になっている。
不吉の象徴であるはずの『猫を追い出せ』という命令を、今さら正面から口にしようものなら、白い目で見られるのは明白だった。
むしろ、誰のほうが非常識なのかを問い返されてもおかしくない。
(魔女にとっては、想定外だろうな)
ミレイユはそう思いながら、書棚の前で静かに観察を続けた。
魔女の計画は、王太子の婚約者として王宮に定着し、やがてそのまま結婚まで辿り着くことだったはずだ。
けれど蓋を開けてみれば、王太子は婚約者にさほど興味を示さず、むしろ王宮の白猫ばかり気にかけている。
(……殿下が私を気にかけているのは、猫だから、という理由だけど)
そこはちゃんと冷静でいなければならない。
王妃も、王様も、侍女たちも——みんな猫であるミレイユと仲良くなった。
それは嬉しい。助かっている。何度も救われてもいる。
でも、やっぱり人間に戻らなければ意味がない。
(これが解決しなければ……魔女が仮に追い払われても、『本物のミレイユ』として認めてもらえなければ意味がない)
課題は山積みだった。
魔女を暴くこと。
変身魔法を解くこと。
そして、猫ではなく人間として、自分が本物だと証明すること。
その日の夕方、侍女たちの『お猫様接見時間』が終わったあと。
ミレイユが廊下を歩いていると、角を曲がったところで魔女と鉢合わせした。
魔女はミレイユを見た。
ミレイユも魔女を見た。
魔女の顔に——ミレイユ自身の顔に——苛立ちと、冷たい何かが浮かんでいた。
同じ顔立ちのはずなのに、こうして向き合うとまるで別人に見える。
目の奥にある温度が違いすぎた。
「まだいるの」
低い声だった。
もう『ミィちゃん』などという、余裕のある呼び方ではない。
廊下には誰もいない。だから取り繕う必要もないのだろう。
「殿下がどれだけ可愛がっても、あなたは所詮猫よ。そのうち飽きられる。あるいは……」
魔女が一歩、近づいた。
「飽きられる前に、いなくなってもらってもいいのよ」
(脅し、ね)
ミレイユは動かなかった。
耳は少し伏せたが、後ずさるつもりはない。
魔女の目が細くなる。
「なぜ逃げないの」
「ニャア(逃げる必要がないから)」
「……賢いふりをして」
魔女が吐き捨てるように呟く。
その声には、もう隠しようのない怒りがあった。
優雅を装う余裕が薄れてきているのが、はっきりわかる。
「このままにはしておかないから」
魔女が歩き去っていく。
ミレイユはその背中を見送った。
(そう……そのままにしておくつもりはない。でも、それはあなたも私も同じよ)
廊下に一人残されて、ミレイユは静かに思った。
そろそろ、こちらも本気で動かなければならない。
偽物は必ず、どこかで綻びを出す。
猫の体のままでは直接できることは限られているけれど、それでも、何もできないわけではない。
(殿下を信じる)
それはもう、根拠のない勘ではなかった。
保護されてから今日まで、この人を見てきた。誰よりも近くにいた。
疲れているときの顔も、笑う顔も、黙って考え込む顔も知っている。
この人は、真実を見誤らない人だ。
少なくとも、見誤ったままで終わる人ではない。
(だから、きっと大丈夫)
その夜。
殿下の足元に座りながら、ミレイユはいつものようにぐりぐりしていた。
「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(うぅ……今日もやってしまってる……盛大に……)」
「ぐりぐりぐりぐりぐりぐり(でも、もう開き直る。猫だもの。仕方がない。殿下が疲れているとき、私がそばにいたいと思うのは、猫の本能で……いや、本能だけじゃないかもしれないけど……)」
殿下の手が下りてきて、ミレイユの頭を撫でた。
耳の後ろから首筋へ、ゆっくりとした手つきで撫でられる。
(……温かい)
ミレイユは目を細めた。
喉が勝手に鳴る。体が力を抜く。
こうして撫でられていると、どうしようもなく安心してしまう。
(必ず人間に戻る。でも……人間に戻ったあとも、この人のそばに、いられるだろうか)
婚約者として、正式に。
嘘も魔法もなしに、ただミレイユ・ド・ブランシュフォールとして。
(……そうなれたら。あなたはまた撫でてくれますか?)
ミレイユはゆっくりと目を閉じた。
(そうなれたら、それ以上のことは、何もいらない気がする)
殿下の手が背中を撫で続ける。
暖炉の火が揺れている。
喉が、静かにごろごろと鳴っていた。
目に見えて増している。どころか、近くにいれば空気でわかるほど。
魔女がミレイユを追い出せないのには、はっきりした理由がある。
殿下が保護しているからだ。
王妃もいる。王様もいる。
さらに今や、宮廷の侍女や侍従の多くが『お猫様』の支持者になっている。
不吉の象徴であるはずの『猫を追い出せ』という命令を、今さら正面から口にしようものなら、白い目で見られるのは明白だった。
むしろ、誰のほうが非常識なのかを問い返されてもおかしくない。
(魔女にとっては、想定外だろうな)
ミレイユはそう思いながら、書棚の前で静かに観察を続けた。
魔女の計画は、王太子の婚約者として王宮に定着し、やがてそのまま結婚まで辿り着くことだったはずだ。
けれど蓋を開けてみれば、王太子は婚約者にさほど興味を示さず、むしろ王宮の白猫ばかり気にかけている。
(……殿下が私を気にかけているのは、猫だから、という理由だけど)
そこはちゃんと冷静でいなければならない。
王妃も、王様も、侍女たちも——みんな猫であるミレイユと仲良くなった。
それは嬉しい。助かっている。何度も救われてもいる。
でも、やっぱり人間に戻らなければ意味がない。
(これが解決しなければ……魔女が仮に追い払われても、『本物のミレイユ』として認めてもらえなければ意味がない)
課題は山積みだった。
魔女を暴くこと。
変身魔法を解くこと。
そして、猫ではなく人間として、自分が本物だと証明すること。
その日の夕方、侍女たちの『お猫様接見時間』が終わったあと。
ミレイユが廊下を歩いていると、角を曲がったところで魔女と鉢合わせした。
魔女はミレイユを見た。
ミレイユも魔女を見た。
魔女の顔に——ミレイユ自身の顔に——苛立ちと、冷たい何かが浮かんでいた。
同じ顔立ちのはずなのに、こうして向き合うとまるで別人に見える。
目の奥にある温度が違いすぎた。
「まだいるの」
低い声だった。
もう『ミィちゃん』などという、余裕のある呼び方ではない。
廊下には誰もいない。だから取り繕う必要もないのだろう。
「殿下がどれだけ可愛がっても、あなたは所詮猫よ。そのうち飽きられる。あるいは……」
魔女が一歩、近づいた。
「飽きられる前に、いなくなってもらってもいいのよ」
(脅し、ね)
ミレイユは動かなかった。
耳は少し伏せたが、後ずさるつもりはない。
魔女の目が細くなる。
「なぜ逃げないの」
「ニャア(逃げる必要がないから)」
「……賢いふりをして」
魔女が吐き捨てるように呟く。
その声には、もう隠しようのない怒りがあった。
優雅を装う余裕が薄れてきているのが、はっきりわかる。
「このままにはしておかないから」
魔女が歩き去っていく。
ミレイユはその背中を見送った。
(そう……そのままにしておくつもりはない。でも、それはあなたも私も同じよ)
廊下に一人残されて、ミレイユは静かに思った。
そろそろ、こちらも本気で動かなければならない。
偽物は必ず、どこかで綻びを出す。
猫の体のままでは直接できることは限られているけれど、それでも、何もできないわけではない。
(殿下を信じる)
それはもう、根拠のない勘ではなかった。
保護されてから今日まで、この人を見てきた。誰よりも近くにいた。
疲れているときの顔も、笑う顔も、黙って考え込む顔も知っている。
この人は、真実を見誤らない人だ。
少なくとも、見誤ったままで終わる人ではない。
(だから、きっと大丈夫)
その夜。
殿下の足元に座りながら、ミレイユはいつものようにぐりぐりしていた。
「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(うぅ……今日もやってしまってる……盛大に……)」
「ぐりぐりぐりぐりぐりぐり(でも、もう開き直る。猫だもの。仕方がない。殿下が疲れているとき、私がそばにいたいと思うのは、猫の本能で……いや、本能だけじゃないかもしれないけど……)」
殿下の手が下りてきて、ミレイユの頭を撫でた。
耳の後ろから首筋へ、ゆっくりとした手つきで撫でられる。
(……温かい)
ミレイユは目を細めた。
喉が勝手に鳴る。体が力を抜く。
こうして撫でられていると、どうしようもなく安心してしまう。
(必ず人間に戻る。でも……人間に戻ったあとも、この人のそばに、いられるだろうか)
婚約者として、正式に。
嘘も魔法もなしに、ただミレイユ・ド・ブランシュフォールとして。
(……そうなれたら。あなたはまた撫でてくれますか?)
ミレイユはゆっくりと目を閉じた。
(そうなれたら、それ以上のことは、何もいらない気がする)
殿下の手が背中を撫で続ける。
暖炉の火が揺れている。
喉が、静かにごろごろと鳴っていた。



