翌週のこと。
魔女の苛立ちは、じわじわと宮廷の空気に滲み出すようになっていた。
侍女たちへの当たりが強くなった。
何かにつけて命令口調になり、少しでも気に入らないことがあると、声がひやりと冷たくなる。
婚約者という立場から真正面からは逆らえず、侍女たちが侍女長に泣きついてくることも増えたらしい。
一方で、ミレイユは——というと。
王様が『お猫様専用のお茶碗』を陶芸家に特注した。
王妃からは特製の刺繍入りクッションをもらった。
殿下にいたっては、生け垣の隙間へ安全な小道を作り、『お猫様専用の散歩コース』まで整備した。
宮廷の『お猫様』人気は、もはや手がつけられないところまで来ていた。
そんな中、魔女が三度目の来訪をした。
その日は、殿下が午前中の政務会議で不在だった。
執務室にはミレイユと侍従だけがいる。
扉をノックする音がして、魔女が入ってきた。
ミレイユはソファの上から顔を上げ、魔女を見た。
(今日は、殿下がいない)
魔女もそれをわかっている。
だからこそ来たのだろう。
「侍従、少し席を外してくれないかしら。お猫様と二人で仲良くしたいの」
侍従が一瞬、固まった。
ほんのわずかな間だったが、困惑と警戒が顔に出る。
「それは……殿下のお許しなく、お猫様と二人きりになることは、わたくしの一存では」
「私は婚約者よ」
「はい」
「婚約者のお願いも聞けないの?」
声が少し低くなった。
侍従が言葉を探すように口を閉じる。
そのとき、ミレイユはソファから降り、侍従のそばへまっすぐ歩み寄った。
侍従の靴の横へぴたりと座ると、彼は目に見えてほっとした顔になる。
「お猫様、お傍に」
その瞬間だった。
「出なくていい、侍従」
低い声が、扉の方から聞こえた。
全員が振り返る。
殿下が立っていた。
政務会議が早めに終わったのか。
それとも——侍従が何らかの形で知らせていたのか。
そこまではわからない。
けれど、来てくれた。それだけで十分だった。
「殿下……」
「執務室に猫だけを残すつもりか」
「少し、二人で仲良くなりたかっただけですわ。ご一緒に席を外してくだされば、それで」
「ミィが嫌がっている」
「嫌がって……猫が何を」
「ミィの意志を尊重する」
殿下の声は静かだった。
静かなのに、一歩も引かない。
その言い方に、魔女の笑顔がはじめてはっきりと歪んだ。
「……猫の意志を、ですって」
「そうだ」
短い沈黙が落ちる。
そのあいだ、ミレイユはじっと魔女を見ていた。
耳は少し伏せていたが、目だけは逸らさない。
「猫の意志を、婚約者である私より優先されるのですか」
「優先しているわけではない。ただ、ミィを一人にするつもりはない」
その一言に、魔女の目の奥で何かがひどく冷たく光った。
もう『優雅な令嬢』の仮面は薄い。
取り繕ってはいるが、内側の苛立ちが隠しきれていなかった。
「……わかりましたわ」
魔女が一礼して退室する。
足音は優雅さを装っていても、かすかに硬かった。
扉が閉まる。
そこでようやく、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
「侍従、ご苦労」
「は、はい……」
侍従がほっとした顔でお辞儀をする。
殿下がミレイユを見た。
ミレイユも見上げる。
「怖かったか」
「ニャア(少しだけ)」
「そうか」
殿下がミレイユを抱き上げる。
腕の中へ収まると、さっきまで逆立ちそうだった毛が自然と落ち着いていく。
情けないくらい、体は正直だった。
その夜、侍従が殿下に追加の報告をした。
侍女たちから上がっている証言について。
廊下での無礼な言動について。
機嫌の悪いときの冷たい物言いについて。
殿下は無言で最後まで聞いた。
「……そうか」
それだけ言って、殿下は書類仕事に戻った。
けれどその横顔は、何かを静かに繋ぎ合わせ始めているように見えた。
魔女の苛立ちは、じわじわと宮廷の空気に滲み出すようになっていた。
侍女たちへの当たりが強くなった。
何かにつけて命令口調になり、少しでも気に入らないことがあると、声がひやりと冷たくなる。
婚約者という立場から真正面からは逆らえず、侍女たちが侍女長に泣きついてくることも増えたらしい。
一方で、ミレイユは——というと。
王様が『お猫様専用のお茶碗』を陶芸家に特注した。
王妃からは特製の刺繍入りクッションをもらった。
殿下にいたっては、生け垣の隙間へ安全な小道を作り、『お猫様専用の散歩コース』まで整備した。
宮廷の『お猫様』人気は、もはや手がつけられないところまで来ていた。
そんな中、魔女が三度目の来訪をした。
その日は、殿下が午前中の政務会議で不在だった。
執務室にはミレイユと侍従だけがいる。
扉をノックする音がして、魔女が入ってきた。
ミレイユはソファの上から顔を上げ、魔女を見た。
(今日は、殿下がいない)
魔女もそれをわかっている。
だからこそ来たのだろう。
「侍従、少し席を外してくれないかしら。お猫様と二人で仲良くしたいの」
侍従が一瞬、固まった。
ほんのわずかな間だったが、困惑と警戒が顔に出る。
「それは……殿下のお許しなく、お猫様と二人きりになることは、わたくしの一存では」
「私は婚約者よ」
「はい」
「婚約者のお願いも聞けないの?」
声が少し低くなった。
侍従が言葉を探すように口を閉じる。
そのとき、ミレイユはソファから降り、侍従のそばへまっすぐ歩み寄った。
侍従の靴の横へぴたりと座ると、彼は目に見えてほっとした顔になる。
「お猫様、お傍に」
その瞬間だった。
「出なくていい、侍従」
低い声が、扉の方から聞こえた。
全員が振り返る。
殿下が立っていた。
政務会議が早めに終わったのか。
それとも——侍従が何らかの形で知らせていたのか。
そこまではわからない。
けれど、来てくれた。それだけで十分だった。
「殿下……」
「執務室に猫だけを残すつもりか」
「少し、二人で仲良くなりたかっただけですわ。ご一緒に席を外してくだされば、それで」
「ミィが嫌がっている」
「嫌がって……猫が何を」
「ミィの意志を尊重する」
殿下の声は静かだった。
静かなのに、一歩も引かない。
その言い方に、魔女の笑顔がはじめてはっきりと歪んだ。
「……猫の意志を、ですって」
「そうだ」
短い沈黙が落ちる。
そのあいだ、ミレイユはじっと魔女を見ていた。
耳は少し伏せていたが、目だけは逸らさない。
「猫の意志を、婚約者である私より優先されるのですか」
「優先しているわけではない。ただ、ミィを一人にするつもりはない」
その一言に、魔女の目の奥で何かがひどく冷たく光った。
もう『優雅な令嬢』の仮面は薄い。
取り繕ってはいるが、内側の苛立ちが隠しきれていなかった。
「……わかりましたわ」
魔女が一礼して退室する。
足音は優雅さを装っていても、かすかに硬かった。
扉が閉まる。
そこでようやく、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
「侍従、ご苦労」
「は、はい……」
侍従がほっとした顔でお辞儀をする。
殿下がミレイユを見た。
ミレイユも見上げる。
「怖かったか」
「ニャア(少しだけ)」
「そうか」
殿下がミレイユを抱き上げる。
腕の中へ収まると、さっきまで逆立ちそうだった毛が自然と落ち着いていく。
情けないくらい、体は正直だった。
その夜、侍従が殿下に追加の報告をした。
侍女たちから上がっている証言について。
廊下での無礼な言動について。
機嫌の悪いときの冷たい物言いについて。
殿下は無言で最後まで聞いた。
「……そうか」
それだけ言って、殿下は書類仕事に戻った。
けれどその横顔は、何かを静かに繋ぎ合わせ始めているように見えた。



