翌日の午後。
殿下の執務室の扉が開いた。
ミレイユは書棚の前で本の背表紙を読んでいた。
反射的に扉の方を振り返る。
(来た。殿下と……もう一つ違う足音)
偽ミレイユが入ってくる。
殿下の少し後ろに、優雅な笑みを浮かべながら。
その歩き方も、顎の上げ方も、たしかにミレイユの姿をしているのに、中身だけがまるで違う。
それが遠目にもわかってしまうことに、ミレイユはぞっとした。
ミレイユは動かなかった。
逃げない。怯まない。少なくとも、ここでは。
魔女の目がミレイユを捉えた瞬間、その笑顔がわずかに歪んだ。
ほんの一瞬のことだ。
殿下には見えなかったかもしれない。
でもミレイユには、はっきり見えた。
あれは驚きではない。苛立ちと、警戒だ。
「ミィ、こちらはミレイユ嬢だ」
「まあ……本当に白猫なのですね。綺麗な子」
魔女が口を開く。
声は優雅さを保っている。耳に馴染んだ、自分自身の声だった。
でもその柔らかさの下にあるものを、ミレイユはもう知っている。
ミレイユは殿下のそばへ歩み寄った。
(知ってる。知りすぎるほど知ってる)
ミレイユは魔女を見た。
魔女もミレイユを見た。
どちらも動かない。
静かな執務室の中で、その一瞬だけ空気がぴんと張った。
「……可愛い子ですこと」
(私の声。こんなふうに聞こえるんだ)
その言い方に、ミレイユはかすかに耳を伏せた。
魔女がしゃがみ、手を差し伸べてくる。
細くてきれいな指先。
けれど、その手に触れたいとは、ひとかけらも思えなかった。
ミレイユは一歩後ろへ下がった。
(近づくと思ったら大間違い。近づくわけないでしょ……)
「あら、人見知りかしら」
「そういうわけでもないんだが。まあ、猫は気まぐれだから」
「そうですわね。ところで殿下、この子はいつもここに?」
「ああ。執務室か寝所にいる」
「寝所に……」
魔女の目の奥で、何かが光った。
一瞬だけ、笑顔の奥に計算が走るのが見えた。
「それは……お猫様は大変なご寵愛を受けていらっしゃるのですね」
「そうかもしれない」
殿下が静かにそう返すと、魔女が立ち上がる。
その目が、上からミレイユを見下ろした。
口元の笑みは綺麗に保たれているのに、目だけが冷えている。
(邪魔だ、と思っているのね)
ミレイユはその視線を受け止めた。
逃げない。
ここで目を逸らしたくなかった。
「……愛らしい子ですわ。また会いに来てもよろしいですか、殿下」
「構わない」
(できれば、あまり会いたくないんだけど……)
魔女が退室すると、張っていた空気が少しだけゆるんだ。
ミレイユは殿下を見上げる。
「何かあったか」
「ニャア(なんでもありません。ただ、あの人は信用できません、と伝えたいのですが、猫には難しい)」
「そうか。……まあ、ここにいなさい」
「ニャァ(はい)」
殿下が静かに言う。
短い言葉なのに、それだけで少し落ち着いた。
その夜、魔女が動いた。
深夜、廊下の物陰で侍従を呼び止める。
「ちょっとよろしいかしら」
「ミレイユ様、こんな夜更けに何か」
「あの猫のこと。少し聞きたいことがあるのだけれど。どこにいるときが多いの?殿下がいらっしゃらないときは?」
「……それをお聞きになって、どうされるのでしょうか」
「ただの興味よ。可愛い猫だったから、もっとよく見てみたくて」
侍従が一拍置いた。
その間が、思ったより長い。
「お猫様はいつでも執務室か寝所においでですが……」
「そう、ありがとう」
魔女は笑顔を保ったまま立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、侍従はしばらくその場を動かなかった。
殿下の執務室の扉が開いた。
ミレイユは書棚の前で本の背表紙を読んでいた。
反射的に扉の方を振り返る。
(来た。殿下と……もう一つ違う足音)
偽ミレイユが入ってくる。
殿下の少し後ろに、優雅な笑みを浮かべながら。
その歩き方も、顎の上げ方も、たしかにミレイユの姿をしているのに、中身だけがまるで違う。
それが遠目にもわかってしまうことに、ミレイユはぞっとした。
ミレイユは動かなかった。
逃げない。怯まない。少なくとも、ここでは。
魔女の目がミレイユを捉えた瞬間、その笑顔がわずかに歪んだ。
ほんの一瞬のことだ。
殿下には見えなかったかもしれない。
でもミレイユには、はっきり見えた。
あれは驚きではない。苛立ちと、警戒だ。
「ミィ、こちらはミレイユ嬢だ」
「まあ……本当に白猫なのですね。綺麗な子」
魔女が口を開く。
声は優雅さを保っている。耳に馴染んだ、自分自身の声だった。
でもその柔らかさの下にあるものを、ミレイユはもう知っている。
ミレイユは殿下のそばへ歩み寄った。
(知ってる。知りすぎるほど知ってる)
ミレイユは魔女を見た。
魔女もミレイユを見た。
どちらも動かない。
静かな執務室の中で、その一瞬だけ空気がぴんと張った。
「……可愛い子ですこと」
(私の声。こんなふうに聞こえるんだ)
その言い方に、ミレイユはかすかに耳を伏せた。
魔女がしゃがみ、手を差し伸べてくる。
細くてきれいな指先。
けれど、その手に触れたいとは、ひとかけらも思えなかった。
ミレイユは一歩後ろへ下がった。
(近づくと思ったら大間違い。近づくわけないでしょ……)
「あら、人見知りかしら」
「そういうわけでもないんだが。まあ、猫は気まぐれだから」
「そうですわね。ところで殿下、この子はいつもここに?」
「ああ。執務室か寝所にいる」
「寝所に……」
魔女の目の奥で、何かが光った。
一瞬だけ、笑顔の奥に計算が走るのが見えた。
「それは……お猫様は大変なご寵愛を受けていらっしゃるのですね」
「そうかもしれない」
殿下が静かにそう返すと、魔女が立ち上がる。
その目が、上からミレイユを見下ろした。
口元の笑みは綺麗に保たれているのに、目だけが冷えている。
(邪魔だ、と思っているのね)
ミレイユはその視線を受け止めた。
逃げない。
ここで目を逸らしたくなかった。
「……愛らしい子ですわ。また会いに来てもよろしいですか、殿下」
「構わない」
(できれば、あまり会いたくないんだけど……)
魔女が退室すると、張っていた空気が少しだけゆるんだ。
ミレイユは殿下を見上げる。
「何かあったか」
「ニャア(なんでもありません。ただ、あの人は信用できません、と伝えたいのですが、猫には難しい)」
「そうか。……まあ、ここにいなさい」
「ニャァ(はい)」
殿下が静かに言う。
短い言葉なのに、それだけで少し落ち着いた。
その夜、魔女が動いた。
深夜、廊下の物陰で侍従を呼び止める。
「ちょっとよろしいかしら」
「ミレイユ様、こんな夜更けに何か」
「あの猫のこと。少し聞きたいことがあるのだけれど。どこにいるときが多いの?殿下がいらっしゃらないときは?」
「……それをお聞きになって、どうされるのでしょうか」
「ただの興味よ。可愛い猫だったから、もっとよく見てみたくて」
侍従が一拍置いた。
その間が、思ったより長い。
「お猫様はいつでも執務室か寝所においでですが……」
「そう、ありがとう」
魔女は笑顔を保ったまま立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、侍従はしばらくその場を動かなかった。



