追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

その日の殿下は、ひと目でわかるほど疲れていた。

午前から昼にかけて外交使節との謁見が続き、午後は政務会議、夕方には宮廷貴族との接見。
ほとんど隙間なく予定が詰まっていたらしく、執務室へ戻ってきたのは夜の九時を過ぎた頃だった。

「ミィ」
「ミャァ(疲れている……今日は特に)」

部屋へ入ってきた殿下の声は、いつもより少し低く、かすれていた。
歩き方まで重いわけではない。背筋もきちんと伸びている。
それでも、猫の体にはわかる。
今日はかなり消耗している。

ミレイユは本棚の前から、殿下のそばへ歩み寄った。

殿下がソファに腰を下ろす。
いつもなら椅子にきちんと座って、そのまま机へ向かうのに、今夜はソファだった。
背中が背もたれへ預けられ、体が少しだけ沈み込む。視線も、しばらく虚空を見ていた。

(こういうときは……)

ミレイユは考える。
猫に何ができるだろう。
言葉はない。温かいお茶を持ってきてあげることもできない。
『お疲れ様でした』の一言も言えない。
肩を揉んであげることも、一緒に愚痴を聞くことも、励ましの言葉をかけることもできない。

何ひとつ、できない。
ミレイユはソファへ跳び上がり、殿下の膝の上に乗った。

(でも、できることはある)
「……ミィ」

殿下の声に、わずかな驚きが混じる。
けれど追い払われはしなかった。
すぐに手が伸びてきて、ミレイユの背中にそっと置かれる。

ミレイユはそのまま、くるりと丸まった。
殿下の膝の上で、できるだけちょうどいい重さになるように。
猫一匹の重さは、人が何か小さなものを抱える重さとそれほど変わらない。
感じられるけれど、負担にはならない。そのくらいの重さだ。

(重くはないって言ってくれたから……このくらいは、許してくれると思う)

殿下が、ゆっくり背中を撫で始めた。
静かな部屋に、暖炉の火のはぜる音だけが聞こえる。
ミレイユはごろごろと喉を鳴らした。
撫でてもらうのが気持ちいい、というだけではない。
この人に、少しでも楽になってほしかった。

猫の温もりが人の緊張をほどくことがあるなら、今夜は少し役に立てるかもしれない。
何も言えなくても、何もしてあげられなくても、ただここにいることならできる。

(疲れを、少しだけでも取ってあげられれば)

時間が経つにつれて、殿下の手の動きが変わってきた。
最初は意識して撫でている感じだったのが、少しずつゆったりとした、半分無意識の動きになっていく。
肩の力も、わずかに落ちてきている。

ミレイユはじっとしていた。
動かない。鳴きすぎない。重さの位置も変えない。
ただそこにいる。

手だけが、ふみ、と開きそうになるのを必死でこらえながら。

(こういうときは、存在しているだけでいい、と思う)

人間でも同じだろうか。
何かを言わなくても、何かをしなくても、ただそばにいることで楽になれることがある。

「……ありがとう」

低く、小さな声で、殿下が言った。

猫に礼を言うことに、おかしみはない。
少なくとも殿下は本気でそう言っている。
だからこそ、ミレイユにはその一言が重く届いた。

「ニャァ(いいえ……私こそ)」

あなたに拾われなかったら、今ごろどこにいたかわからない。
王宮の庭をひもじく彷徨い、冷たい石畳の上で眠っていたかもしれない。
夜が怖くて、朝が来るたびに少しずつ希望をなくしていたかもしれない。

この人に、何度助けられたかわからない。
庭で囲まれたときも。
夜が怖かったときも。
一人でいなくていい場所をくれたのも、この人だ。

「ニャア(……伝わった?)」

殿下の手が一度止まった。
それから、また動き出す。今度は少しだけ力を込めて。
伝わるはずがない。
でも、なんとなく、伝わった気がした。

その夜、殿下が寝所に入ってから、ミレイユはいつものようにベッドの端で丸まった。
殿下の寝息はすぐに落ち着いた。
今夜は特に疲れていたからか、いつもより早く深い眠りに入ったようだった。

ミレイユはしばらく起きていた。
暖炉の火が揺れている。
橙色の光の中で、殿下の寝顔が見える。

(……)

ミレイユはゆっくりとベッドを進んだ。
殿下の枕元まで来て、止まる。
黒い髪が枕の上にやわらかく広がっていた。

(今日は……特別に疲れていたから)
(だから、これは特別な場合のお見舞い、みたいなもの)
(そう。お見舞いです。猫なりの)

自分で言い訳して、自分でごまかす。
けれど、近づいた時点でたぶんもう負けていた。

ミレイユはそっと、殿下の黒髪を舐めた。

「ぺろ。ぺろぺろ(あ、やっぱりまた止まらない……!)」
「ぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろ」
「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(もう……)」

観念するしかなかった。
正直に言えば、これは本能だけではないのかもしれない。
猫の習性が最初のきっかけだったとしても、今は自分がしたくてしているような気がする。
殿下の黒髪は、思ったよりやわらかい。
舐めるたび、妙に安心する。

(こんなことを思ってはいけないのだけど……)
(早く人間に戻りたい)

今夜、その気持ちはいつもよりずっと切実だった。
人間に戻って、ちゃんとこの人に会いたい。
膝の上の猫としてではなく、隣に座って話せる人間として。
猫の鳴き声ではなく、自分の声で話したい。

本の話をしたい。
庭の花の話をしたい。
こういう疲れた夜には、せめて『お疲れ様でした』と一言くらい言える人間でいたい。

(必ず、戻る。そして、人間としてあなたの前に立ちたい)

ミレイユは殿下から離れ、ベッドの端へ戻った。
そこで小さく丸まり、目を閉じる。
殿下の体温が遠くからでも届いてくる。
それだけで、今夜は十分に温かかった。
胸の奥のざわつきまで、少しだけ静まっていく気がした。
そうして眠る直前まで、ミレイユは静かに決意を抱いていた。