翌朝、殿下が目を覚ましたとき、いつもより機嫌がよかった。
「よく眠れた」
そう言って、殿下は珍しくゆっくりと起き上がった。
いつもなら、目を開けてすぐに意識を切り替えるような人なのに、今朝は少しだけ寝起きの余韻が残っている。
すがすがしい顔で窓の外を見ている横顔まで、どこか穏やかだった。
ミレイユはベッドの端から、その様子をじっと眺める。
(昨夜より顔色がいい……)
(まさか、私が舐めたから?)
(そんなわけない。ただよく眠れただけ)
(でも、もしかして……)
(考えすぎ!)
「ミィ、どうした。じっとして」
殿下がこちらを見た。
ミレイユは慌てて平静を装う。猫の平静など、しっぽを止めて目をそらさないくらいしかできないのだが、それでも必死だった。
「ニャア(なんでもないです!)」
「そうか」
いつもの会話だ。
でも今朝は、殿下の声がいつもより少しやわらかい気がした。
昨夜のことを知っているのは自分だけなのに、まるで何かを共有してしまったみたいで、ミレイユは落ち着かなかった。
それから、それは毎夜の習慣になってしまった。
殿下が疲れているとき——いや、正確に言えば、気づくとミレイユは殿下の頭のそばへ近づいていた。
最初は「今夜だけ」「たまたま」と言い訳していたのに、三日も続けばもう偶然ではない。
(今日もやりそうな気がする……やめて、私!)
そう思うのに、猫の本能には抗えなかった。
「ぺろ(やった!また!)」
「ぺろぺろぺろ(三回!!回数が増えた!!!)」
「ゴロゴロゴロ(なんで喉まで鳴らしているの!全部本能のせいだけど、本能に乗っかっている私もいるし……!)」
毎晩、こんな調子だった。
舐めたあとで我に返り、ベッドの端へ逃げ帰り、毛づくろいのふりをしながら一人で混乱する。
けれど翌夜になると、また同じことを繰り返す。
三日、四日と経つうちに、ぺろぺろは『殿下が疲れているとき限定』から、『夜に殿下のそばにいるとき一般』へ変わっていった。
それはつまり、ほぼ毎夜やっているということだ。
(どうしよう。習慣になってしまった……)
習慣、という言葉で自分をごまかしていた。
本当は、習慣なんてぼんやりしたものではない。
『したい』という、かなりはっきりした気持ちがあると薄々わかっている。
でもそれを認めてしまうと、別の問題が生じる。
(殿下にしかしたくない。認めない。猫の本能。以上)
そこだけは、頑として認めたくなかった。
ある夜、殿下が目を閉じたまま言った。
「ミィ」
「ミャッ!?(え、起きてた!?)」
「毎晩、頭を舐めていたな」
「ミャミャッ!?(知ってた!!!!)」
ミレイユは石になった。
全身がぴしっと固まる。耳まで止まった気がした。
いつから気づいていたのか。
最初の夜から?
最近?
どのくらいの頻度で?
まさか全部?
(全部見られていたの……!?いや、見られていたというか、気づかれていた……!)
恥ずかしさで、体の内側が一気に熱くなる。
白猫の毛並みの下で真っ赤になっていても、たぶん外からはわからない。それだけが救いだった。
「猫が相手の頭を舐めるのは、親しみの表現だと聞いたことがある」
(そうです。そうなんです。猫の習性なんです。決してそれ以上のことではないんです!)
殿下が目を閉じたまま、淡々と言う。
ミレイユは心の中で必死にうなずいた。
どうかそこで話を終えてほしい。深掘りしないでほしい。
頼むから、それ以上は聞かないでほしい。
「……悪い気はしない」
(悪い気はしない……)
殿下が静かに言った。
ミレイユはその言葉を頭の中で繰り返す。
悪い気はしない。
それは、怒っていないということ。
許容しているということ。
むしろ——
(むしろ、喜んでいる……?)
「ニャア(い、いや!そんなことは!ただ怒っていないだけで!)」
そう鳴いたら、殿下の口元が少し動いた。
笑った。
初めて見た、殿下の笑顔だった。
人前では決して見せないような、作り物ではない、ほんの小さな笑み。
目尻にわずかに皺が寄って、口の端がやわらかく上がる。
笑うと、こんな顔をするのだと、そのとき初めて知った。
ミレイユは固まったまま、その顔を見ていた。
(……笑う顔、こういう顔をするんだ……)
知らなかった。
ここ二十日あまり、同じ部屋にいて、一緒に眠って、それでも見たことがなかった顔が、今そこにある。
胸の奥が、きゅうと変なふうに縮む。
猫の本能とは別のところが、勝手に騒いでいた。
(困った)
ミレイユは思った。
(これは……困ったかもしれない)
何が、とは言えなかった。
ただ、何か取り返しのつかないことが、静かに起き始めているような予感がした。
(人間に戻ったら……会うことができるのかな、この人に)
婚約者として会えるかどうかはわからない。
魔女のことがどうなるかもわからない。
元の関係に戻れるかどうかも、何ひとつわからない。
でも——ただ一度、人間として、この人と話してみたい。
猫の鳴き声ではなく、自分の声で。
名前を呼ばれたら、ちゃんと返事をして。
本の話でも、庭の話でも、なんでもいいから。
その気持ちだけは、もうごまかしようもなく、はっきりしていた。
「よく眠れた」
そう言って、殿下は珍しくゆっくりと起き上がった。
いつもなら、目を開けてすぐに意識を切り替えるような人なのに、今朝は少しだけ寝起きの余韻が残っている。
すがすがしい顔で窓の外を見ている横顔まで、どこか穏やかだった。
ミレイユはベッドの端から、その様子をじっと眺める。
(昨夜より顔色がいい……)
(まさか、私が舐めたから?)
(そんなわけない。ただよく眠れただけ)
(でも、もしかして……)
(考えすぎ!)
「ミィ、どうした。じっとして」
殿下がこちらを見た。
ミレイユは慌てて平静を装う。猫の平静など、しっぽを止めて目をそらさないくらいしかできないのだが、それでも必死だった。
「ニャア(なんでもないです!)」
「そうか」
いつもの会話だ。
でも今朝は、殿下の声がいつもより少しやわらかい気がした。
昨夜のことを知っているのは自分だけなのに、まるで何かを共有してしまったみたいで、ミレイユは落ち着かなかった。
それから、それは毎夜の習慣になってしまった。
殿下が疲れているとき——いや、正確に言えば、気づくとミレイユは殿下の頭のそばへ近づいていた。
最初は「今夜だけ」「たまたま」と言い訳していたのに、三日も続けばもう偶然ではない。
(今日もやりそうな気がする……やめて、私!)
そう思うのに、猫の本能には抗えなかった。
「ぺろ(やった!また!)」
「ぺろぺろぺろ(三回!!回数が増えた!!!)」
「ゴロゴロゴロ(なんで喉まで鳴らしているの!全部本能のせいだけど、本能に乗っかっている私もいるし……!)」
毎晩、こんな調子だった。
舐めたあとで我に返り、ベッドの端へ逃げ帰り、毛づくろいのふりをしながら一人で混乱する。
けれど翌夜になると、また同じことを繰り返す。
三日、四日と経つうちに、ぺろぺろは『殿下が疲れているとき限定』から、『夜に殿下のそばにいるとき一般』へ変わっていった。
それはつまり、ほぼ毎夜やっているということだ。
(どうしよう。習慣になってしまった……)
習慣、という言葉で自分をごまかしていた。
本当は、習慣なんてぼんやりしたものではない。
『したい』という、かなりはっきりした気持ちがあると薄々わかっている。
でもそれを認めてしまうと、別の問題が生じる。
(殿下にしかしたくない。認めない。猫の本能。以上)
そこだけは、頑として認めたくなかった。
ある夜、殿下が目を閉じたまま言った。
「ミィ」
「ミャッ!?(え、起きてた!?)」
「毎晩、頭を舐めていたな」
「ミャミャッ!?(知ってた!!!!)」
ミレイユは石になった。
全身がぴしっと固まる。耳まで止まった気がした。
いつから気づいていたのか。
最初の夜から?
最近?
どのくらいの頻度で?
まさか全部?
(全部見られていたの……!?いや、見られていたというか、気づかれていた……!)
恥ずかしさで、体の内側が一気に熱くなる。
白猫の毛並みの下で真っ赤になっていても、たぶん外からはわからない。それだけが救いだった。
「猫が相手の頭を舐めるのは、親しみの表現だと聞いたことがある」
(そうです。そうなんです。猫の習性なんです。決してそれ以上のことではないんです!)
殿下が目を閉じたまま、淡々と言う。
ミレイユは心の中で必死にうなずいた。
どうかそこで話を終えてほしい。深掘りしないでほしい。
頼むから、それ以上は聞かないでほしい。
「……悪い気はしない」
(悪い気はしない……)
殿下が静かに言った。
ミレイユはその言葉を頭の中で繰り返す。
悪い気はしない。
それは、怒っていないということ。
許容しているということ。
むしろ——
(むしろ、喜んでいる……?)
「ニャア(い、いや!そんなことは!ただ怒っていないだけで!)」
そう鳴いたら、殿下の口元が少し動いた。
笑った。
初めて見た、殿下の笑顔だった。
人前では決して見せないような、作り物ではない、ほんの小さな笑み。
目尻にわずかに皺が寄って、口の端がやわらかく上がる。
笑うと、こんな顔をするのだと、そのとき初めて知った。
ミレイユは固まったまま、その顔を見ていた。
(……笑う顔、こういう顔をするんだ……)
知らなかった。
ここ二十日あまり、同じ部屋にいて、一緒に眠って、それでも見たことがなかった顔が、今そこにある。
胸の奥が、きゅうと変なふうに縮む。
猫の本能とは別のところが、勝手に騒いでいた。
(困った)
ミレイユは思った。
(これは……困ったかもしれない)
何が、とは言えなかった。
ただ、何か取り返しのつかないことが、静かに起き始めているような予感がした。
(人間に戻ったら……会うことができるのかな、この人に)
婚約者として会えるかどうかはわからない。
魔女のことがどうなるかもわからない。
元の関係に戻れるかどうかも、何ひとつわからない。
でも——ただ一度、人間として、この人と話してみたい。
猫の鳴き声ではなく、自分の声で。
名前を呼ばれたら、ちゃんと返事をして。
本の話でも、庭の話でも、なんでもいいから。
その気持ちだけは、もうごまかしようもなく、はっきりしていた。



