殿下は執務机で書類を書いていた。
今日は謁見が長引いたらしく、夕食のあともまだ仕事が続いている。
ミレイユはソファで丸まりながら、じっと殿下の背中を眺めていた。
(疲れているな……)
それは、なんとなくではなく、はっきりわかった。
肩が少し落ちている。
ペンを走らせる速度が、いつもより遅い。
時折ぴたりと手が止まり、そのまま窓の外へ目をやることがある。今日の謁見で、何か面倒な話でもあったのだろうか。
(いつもより、ずっと疲れている)
猫になってから気づいたことがある。
猫は、人間の『調子』を驚くほど敏感に感じ取る。
明確な根拠があるわけではない。声なのか、体温のわずかな変化なのか、気配の密度なのか、呼吸の浅さなのか——そのあたりは自分でも説明できない。
でも、『今日は疲れている』『今日は少し機嫌がいい』くらいのことは、体が勝手にわかってしまうのだ。
そして今夜の殿下は、かなり疲れている。
(何もできないけど……)
ミレイユはソファから降り、殿下の足元へ歩み寄った。
絨毯の上を音もなく進む。殿下が少しだけ視線を落とした。
「ミィか」
「ニャア(少しだけ温もりを分けてあげる、くらいしかできないけれど)」
ミレイユは殿下の足もとに座った。
殿下は革の室内靴を履いている。その靴の横へ、そっと体を寄せる。
ただ近くにいるだけ。それだけでも、少しは違う気がした。
殿下はまたペンを動かし始めた。
ミレイユは足元でじっとしている。
しばらくして、書き進める手の動きが少し戻ってきた。
さっきまでの重さが、ほんのわずかだが薄れたように見える。
(よかった……少しは楽になったかな)
それで満足して、もう少しその場にいることにした。
問題は、そのあとだった。
殿下の足のそばにいるうちに、体の奥がむずむずした。
何かが起きた、というより、何かをしたくなった、が正しい。
ぐり。
ミレイユの額が、殿下の足に押しつけられていた。
(!な、なに今!?)
自分でやっていた。
無意識に、殿下の足へ頭をぐり、と押しつけていたのだ。
(や、やめなさい!やめなさいよ私!)
そう思うのに、体が止まらない。
するりと頬を靴の脇へ擦りつけ、もう一度、今度はさっきよりしっかり額を押しつける。
ぐり、ぐり、と、まるでそこが定位置みたいに。
(なんで!?なんで私は王太子の足にぐりぐりしているの!?令嬢よ、私は!ブランシュフォール公爵家の!公爵令嬢が王太子の足に顔を擦りつけるなんて前代未聞!絶対に前代未聞!)
でも、猫の体はやめる気がない。
むしろ本能が『これでいい』『もっと擦りつけろ』と堂々と言ってくる。
殿下の匂いが自分につくような、自分の匂いを殿下につけているような、そういう妙な満足感まである。
(満足感!?満足してる場合ではない!)
しかも、ここでようやく気づいた。
これまで誰彼かまわずこうなったわけではない。
王妃にも、王様にも、侍女たちにもならなかった。
こんなふうに、勝手に頭が寄っていくのは——殿下にだけだ。
(なんで殿下にだけ……)
その瞬間、殿下の手がすっと下りてきて、ミレイユの頭を撫でた。
指先が耳の後ろをかすめ、首筋へ抜けていく。
「どうした、急に」
「ニャア(どうしたって、私が聞きたい!)」
声まで少しやさしい。
それが余計によくない気がした。
ミレイユはやっとの思いで殿下の足から離れ、逃げるみたいにソファへ戻った。
しっぽを体に巻きつけ、勢いよく丸まる。
(今のは何……猫の本能というやつ?なんだか無性に、好きな相手に擦りつけたくなって……って、え?好き……?)
そこまで考えて、ぶんぶんと頭を振りたくなった。
危ない。いまのは非常に危ない思考だ。
(……考えない。考えてはいけない。今は猫なのだから、猫として行動するのは仕方がない。あれは本能。猫の習性。令嬢ミレイユ・ド・ブランシュフォールの感情とは無関係。たぶん。できれば、そう)
ミレイユは一人で懸命に言い聞かせた。
殿下は不思議そうにミレイユを見ていたが、無理に呼び戻したりはしなかった。
何も言わず、ただ少しだけ目を細める。
それがまた——妙に心に刺さった。
今日は謁見が長引いたらしく、夕食のあともまだ仕事が続いている。
ミレイユはソファで丸まりながら、じっと殿下の背中を眺めていた。
(疲れているな……)
それは、なんとなくではなく、はっきりわかった。
肩が少し落ちている。
ペンを走らせる速度が、いつもより遅い。
時折ぴたりと手が止まり、そのまま窓の外へ目をやることがある。今日の謁見で、何か面倒な話でもあったのだろうか。
(いつもより、ずっと疲れている)
猫になってから気づいたことがある。
猫は、人間の『調子』を驚くほど敏感に感じ取る。
明確な根拠があるわけではない。声なのか、体温のわずかな変化なのか、気配の密度なのか、呼吸の浅さなのか——そのあたりは自分でも説明できない。
でも、『今日は疲れている』『今日は少し機嫌がいい』くらいのことは、体が勝手にわかってしまうのだ。
そして今夜の殿下は、かなり疲れている。
(何もできないけど……)
ミレイユはソファから降り、殿下の足元へ歩み寄った。
絨毯の上を音もなく進む。殿下が少しだけ視線を落とした。
「ミィか」
「ニャア(少しだけ温もりを分けてあげる、くらいしかできないけれど)」
ミレイユは殿下の足もとに座った。
殿下は革の室内靴を履いている。その靴の横へ、そっと体を寄せる。
ただ近くにいるだけ。それだけでも、少しは違う気がした。
殿下はまたペンを動かし始めた。
ミレイユは足元でじっとしている。
しばらくして、書き進める手の動きが少し戻ってきた。
さっきまでの重さが、ほんのわずかだが薄れたように見える。
(よかった……少しは楽になったかな)
それで満足して、もう少しその場にいることにした。
問題は、そのあとだった。
殿下の足のそばにいるうちに、体の奥がむずむずした。
何かが起きた、というより、何かをしたくなった、が正しい。
ぐり。
ミレイユの額が、殿下の足に押しつけられていた。
(!な、なに今!?)
自分でやっていた。
無意識に、殿下の足へ頭をぐり、と押しつけていたのだ。
(や、やめなさい!やめなさいよ私!)
そう思うのに、体が止まらない。
するりと頬を靴の脇へ擦りつけ、もう一度、今度はさっきよりしっかり額を押しつける。
ぐり、ぐり、と、まるでそこが定位置みたいに。
(なんで!?なんで私は王太子の足にぐりぐりしているの!?令嬢よ、私は!ブランシュフォール公爵家の!公爵令嬢が王太子の足に顔を擦りつけるなんて前代未聞!絶対に前代未聞!)
でも、猫の体はやめる気がない。
むしろ本能が『これでいい』『もっと擦りつけろ』と堂々と言ってくる。
殿下の匂いが自分につくような、自分の匂いを殿下につけているような、そういう妙な満足感まである。
(満足感!?満足してる場合ではない!)
しかも、ここでようやく気づいた。
これまで誰彼かまわずこうなったわけではない。
王妃にも、王様にも、侍女たちにもならなかった。
こんなふうに、勝手に頭が寄っていくのは——殿下にだけだ。
(なんで殿下にだけ……)
その瞬間、殿下の手がすっと下りてきて、ミレイユの頭を撫でた。
指先が耳の後ろをかすめ、首筋へ抜けていく。
「どうした、急に」
「ニャア(どうしたって、私が聞きたい!)」
声まで少しやさしい。
それが余計によくない気がした。
ミレイユはやっとの思いで殿下の足から離れ、逃げるみたいにソファへ戻った。
しっぽを体に巻きつけ、勢いよく丸まる。
(今のは何……猫の本能というやつ?なんだか無性に、好きな相手に擦りつけたくなって……って、え?好き……?)
そこまで考えて、ぶんぶんと頭を振りたくなった。
危ない。いまのは非常に危ない思考だ。
(……考えない。考えてはいけない。今は猫なのだから、猫として行動するのは仕方がない。あれは本能。猫の習性。令嬢ミレイユ・ド・ブランシュフォールの感情とは無関係。たぶん。できれば、そう)
ミレイユは一人で懸命に言い聞かせた。
殿下は不思議そうにミレイユを見ていたが、無理に呼び戻したりはしなかった。
何も言わず、ただ少しだけ目を細める。
それがまた——妙に心に刺さった。



