追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

そんなある夜のことだった。
殿下が執務室を出ようとしたとき、ミレイユは無意識に立ち上がっていた。
扉へ向かう背中が、いつもより遠く見えた。
殿下が振り返る。

「どうした、ミィ」
「ニャァ……ニャァ……(どうした、って……私にもわからない)」

自分でもわからない。
ただ、殿下がこの部屋を出ていくのを見ていたら、胸の奥がざわついた。
行かないで、とでも言いたげな、ひどく子供っぽい感情だった。

「ニャア(情けない。猫になったからって、こんなに……)」

意味もなく鳴く。
殿下はミレイユをじっと見たあと、窓の外へ目をやった。
夜の庭を少し眺め、それからまたこちらへ戻ってくる。

「……眠れないのか」
「ニャア(そんなことはない、と言いたいけれど)」

嘘だ。
眠れない夜はある。
一人きりの静かな執務室で、考えなくていいことばかり考えてしまう夜が。

(あなたは、偽物の私を好きになりましたか。偽物の私と、恋をしてますか)

そんな気持ちが、ふいに胸いっぱいにあふれてしまった。
殿下が小さく息をついたかと思うと、次の瞬間、ひょいと抱き上げられた。

(え?)
「寝所まで連れていってやる」
「ニャア(で、でも、殿下の寝所に猫が入るのは——)」
「ミィ」

殿下が静かに名前を呼ぶ。
それだけで、妙に逆らえなくなる。

殿下の寝所は、執務室の隣の棟にあった。
執務室より広く、天蓋付きの大きなベッドがある。
窓は東向きで、朝の光が差し込みやすい位置にあるらしい。
部屋の隅には小さな暖炉があり、夜番の侍従が火を入れておいてくれたのか、穏やかに燃えていた。

執務室より、断然暖かい。
厚手のカーテンが夜の冷気を遮り、白いシーツはきちんと整えられている。
部屋全体が静かで、でも冷たくない。人が眠るための場所の空気だった。

(広い……)
「ここでいいか?」

殿下がベッドの端を指した。
そこには、小さなクッションが置かれていた。
ミレイユのためにわざわざ用意したのだろうか、それとも元からあったのか。
どちらにしても、猫一匹が丸まるにはちょうどいい大きさだった。

ミレイユはそろそろとクッションの上に乗る。
柔らかい。
ソファより少しふかふかしていて、爪先が沈む感じまで気持ちよかった。

思わず前足が交互に動く。
ふみ、ふみ、とクッションを踏んでしまってから、はっとした。

(これも猫の本能……?)

止めようとしても、気持ちよくて少しだけ止まらない。
殿下がその様子を見て、口元をわずかにゆるめた気がした。

(ここに置いておく、って……つまり、一緒に寝るということ?)

まあ、猫とその飼い主が同じ部屋で眠るのは、ごく普通のことだ。
王太子と猫、という組み合わせが普通かどうかはさておき。

殿下が寝支度をして、ベッドに入った。
明かりが消える。
部屋が暗くなる。

それでも暖炉の火が、やわらかな橙色を室内に投げていた。
完全な闇ではない。
殿下の寝息が、しだいにゆっくりと規則正しくなっていく。

「ウニャ……(……眠いな)」

ミレイユはクッションの上で丸くなった。
暖炉のぬくもりが、じんわりと体に広がる。
それに、殿下の気配が近い。

(怖くない。なぜかわからないけど、この人のそばだと、怖くない)

猫になってからの不安も、夜の孤独も、今夜は不思議と薄かった。
真夜中に一人で眠れない夜とは違う何かが、この部屋には満ちている。
温もりだけではない。人の気配。誰かがちゃんとそこにいる、という安心感。

(ずるいな……)

何がずるいのか、自分でもよくわからない。
でも、そう思った。
こういうふうに、何も言わずに不安を連れ去ってしまうところが、たぶんずるい。

ミレイユはそのまま、ほどなく眠りに落ちた。

それ以来、ミレイユは毎夜、殿下の寝所のクッションで眠るようになった。
最初に気づいた侍従が、「お猫様が殿下のご寝所で……!」と大げさに感動し、その話が侍女たちにも伝わって、また一段階『お猫様ブーム』の熱が上がった。

「殿下とお猫様が一緒においでになるとは……」
「なんと麗しい……」
「ご寝所まで……!」
(大げさよ、みんな)

ミレイユは思ったが、何も言えなかった。
猫なので。

ただ、正直に言えば——殿下の寝所で眠るようになってから、夜中に考えすぎることが減った。
目を閉じるたびに魔女のことを考えてしまう夜も、未来の暗さに胸が冷える夜も、少しだけ遠のいた。

それだけは、たしかにありがたかった。