翌朝、目を覚ますと、ふわふわでもこもこの毛布が体にかかっていた。
しかも、ただ乗っているのではなく、寝返りを打っても落ちないようにふんわり整えられている。
見回しても、殿下の姿はない。
早朝の公務に出てしまったのだろう。
窓から差し込む朝の光が、昨夜よりも明るく部屋を照らしていた。
屋根のある場所で、やわらかいものの上で、追い立てられる心配もなく眠れたのはいつぶりだろう。
一週間ぶりどころか、猫になってから初めて、まともに眠れた気がした。
追いかけられないこと。
雨風を気にしなくていいこと。
目を閉じても、次に目を開けたとき同じ場所にいられると思えること。
そんな当たり前が、今はひどくありがたかった。
(殿下……)
まったく予想していなかった人物に、助けられた。
しかも、ただ気まぐれに拾われたというより、本気で保護するつもりらしい。
この人は、相当猫が好きなのだろう。
『猫は不吉』とされているのに。
(そういう人なんだ)
そのとき、扉が開いて、見知らぬ侍従が入ってきた。
手には食事のトレイがある。
「殿下より、お猫様のお食事をお持ちするよう仰せつかりました」
『お猫様』
その呼び方に、ミレイユは思わず目を丸くした。
耳までぴくりと動いた気がする。
「ミャ……?(……お猫様?私のこと?)」
「お猫様、朝のお食事でございます」
侍従は若干困惑した様子のまま、トレイをソファの前に置いた。
魚のほぐしたものと、ミルクの入った小皿。
昨日の夜と同じく、猫にしてはかなり丁重な扱いである。
「ニャ……(とりあえず……食べます)」
ミルクを舐めながら、ミレイユは考えた。
『お猫様』と呼ばれた。
殿下の命令で世話をしに来た。
どうやら本当に、ここで保護されることになったらしい。
しかも、殿下一人の思いつきではなさそうだ。
侍従は戸惑っていたが、拒む様子はなかった。
猫を部屋に置くこと自体が、王宮の中で絶対的な禁忌ではないのだろう。
(これは……チャンスかもしれない)
王宮の中にいれば、魔女の動向をもっと近くで観察できる。
本が読めれば、この猫になる魔法を解く方法が見つかるかもしれない。
殿下の信頼を得られれば、何か手が打てるかもしれない。
いまは猫だ。
でも、猫だからこそ入れる場所もある。
そう考えると、少しだけ道が見えた気がした。
(大丈夫。きっと、なんとかなる)
ミレイユはそう自分に言い聞かせ、ミルクの残りをぺろぺろと飲み干した。
最後の一滴まできれいに舐めてしまってから、はっとする。
令嬢としてどうなの、と思ったが、もう遅い。
その日の昼過ぎ、殿下が執務室に戻ってきた。
ミレイユは本棚の下段に並んだ本の背表紙を読んでいた。
(本、取り出せない……)
前足をかけて引っ張ろうとしても、本棚をカリカリと引っ掻くだけ。
これでは完全に爪とぎである。
読める文字があるだけ、多少の慰めにはなったけれど、肝心の中身にたどりつけないのでは話にならない。
ただ、その背表紙を眺めるだけでも収穫はあった。
魔術に関する本が何冊か混じっている。
歴代王家の記録らしき本もある。
いつか役立つかもしれない。
せめて、殿下が読んでいるのを横からでも覗ければいいのに、とミレイユは本気で思った。
「起きていたか、ミィ」
殿下が上着を脱ぎながら言う。
ミレイユは本棚から飛び降り、殿下のほうへ歩み寄った。
足音がほとんどしないのも、猫の便利なところだ。
「お腹は空いているか」
「ニャア(少し)」
「そうか。なぜだろう、おまえの言うことがわかる気がする」
(私はもちろんわかるけど、殿下もわかってる?本当に?)
ミレイユがぴんと耳を立てると、殿下がわずかに苦笑した。
「気のせいかもしれないが。……よく、こういう目をする人間がいる。表情が豊かというか」
「ミャア(猫ですが)」
「猫なのに」
言いたいことを先に言われた。
しかも声音に、ほんの少し笑いが混じっている。
昨日までの硬い印象からすると、それだけでだいぶ珍しい気がした。
殿下がミレイユを抱き上げる。
昨日と同じ、安定した抱き方だった。
胸に収まると、不思議なくらい落ち着く。
高いところが怖いはずなのに、この腕の中だけは別だった。
「しばらくここにいなさい」
「ミャ(……はい)」
ミレイユは殿下の腕の中で、ゆっくりまばたきをした。
断る理由なんて、どこにもない。
こうして、ミレイユ・ド・ブランシュフォールの『お猫様』生活が始まった。
彼女はまだ知らなかった。
アドリアン・ド・ヴェルモン王太子が、実は筋金入りの猫好きであることを。
というより、王族全体がだいたい猫に甘い、ということを。
世間では『猫は不吉』という言い伝えが広まっている。
だがその由来は、数代前の王が愛猫を亡くし、落ち込みのあまり政務を滞らせ、やがてその後を追うように亡くなった——という、たいへん人聞きの悪い逸話だった。
それがいつの間にか尾ひれをつけ、『猫を飼うと国が傾く』だの『白猫は特に不吉』だのと広まってしまったらしい。
王族の間では、あれはただの風説だというのが共通認識である。
そして殿下が、この白猫に並々ならぬ関心を持ち始めていることも。
ミレイユはまだ知らない。
ただ、殿下の腕が温かいことだけは知っている。
(早く人間に戻らないと)
そう思いながらも、夕暮れの窓辺で殿下の隣に座って外を眺めるのは、まあ悪くないとも思っていた。
少しだけ。
本当に少しだけ、正直に言えば。
しかも、ただ乗っているのではなく、寝返りを打っても落ちないようにふんわり整えられている。
見回しても、殿下の姿はない。
早朝の公務に出てしまったのだろう。
窓から差し込む朝の光が、昨夜よりも明るく部屋を照らしていた。
屋根のある場所で、やわらかいものの上で、追い立てられる心配もなく眠れたのはいつぶりだろう。
一週間ぶりどころか、猫になってから初めて、まともに眠れた気がした。
追いかけられないこと。
雨風を気にしなくていいこと。
目を閉じても、次に目を開けたとき同じ場所にいられると思えること。
そんな当たり前が、今はひどくありがたかった。
(殿下……)
まったく予想していなかった人物に、助けられた。
しかも、ただ気まぐれに拾われたというより、本気で保護するつもりらしい。
この人は、相当猫が好きなのだろう。
『猫は不吉』とされているのに。
(そういう人なんだ)
そのとき、扉が開いて、見知らぬ侍従が入ってきた。
手には食事のトレイがある。
「殿下より、お猫様のお食事をお持ちするよう仰せつかりました」
『お猫様』
その呼び方に、ミレイユは思わず目を丸くした。
耳までぴくりと動いた気がする。
「ミャ……?(……お猫様?私のこと?)」
「お猫様、朝のお食事でございます」
侍従は若干困惑した様子のまま、トレイをソファの前に置いた。
魚のほぐしたものと、ミルクの入った小皿。
昨日の夜と同じく、猫にしてはかなり丁重な扱いである。
「ニャ……(とりあえず……食べます)」
ミルクを舐めながら、ミレイユは考えた。
『お猫様』と呼ばれた。
殿下の命令で世話をしに来た。
どうやら本当に、ここで保護されることになったらしい。
しかも、殿下一人の思いつきではなさそうだ。
侍従は戸惑っていたが、拒む様子はなかった。
猫を部屋に置くこと自体が、王宮の中で絶対的な禁忌ではないのだろう。
(これは……チャンスかもしれない)
王宮の中にいれば、魔女の動向をもっと近くで観察できる。
本が読めれば、この猫になる魔法を解く方法が見つかるかもしれない。
殿下の信頼を得られれば、何か手が打てるかもしれない。
いまは猫だ。
でも、猫だからこそ入れる場所もある。
そう考えると、少しだけ道が見えた気がした。
(大丈夫。きっと、なんとかなる)
ミレイユはそう自分に言い聞かせ、ミルクの残りをぺろぺろと飲み干した。
最後の一滴まできれいに舐めてしまってから、はっとする。
令嬢としてどうなの、と思ったが、もう遅い。
その日の昼過ぎ、殿下が執務室に戻ってきた。
ミレイユは本棚の下段に並んだ本の背表紙を読んでいた。
(本、取り出せない……)
前足をかけて引っ張ろうとしても、本棚をカリカリと引っ掻くだけ。
これでは完全に爪とぎである。
読める文字があるだけ、多少の慰めにはなったけれど、肝心の中身にたどりつけないのでは話にならない。
ただ、その背表紙を眺めるだけでも収穫はあった。
魔術に関する本が何冊か混じっている。
歴代王家の記録らしき本もある。
いつか役立つかもしれない。
せめて、殿下が読んでいるのを横からでも覗ければいいのに、とミレイユは本気で思った。
「起きていたか、ミィ」
殿下が上着を脱ぎながら言う。
ミレイユは本棚から飛び降り、殿下のほうへ歩み寄った。
足音がほとんどしないのも、猫の便利なところだ。
「お腹は空いているか」
「ニャア(少し)」
「そうか。なぜだろう、おまえの言うことがわかる気がする」
(私はもちろんわかるけど、殿下もわかってる?本当に?)
ミレイユがぴんと耳を立てると、殿下がわずかに苦笑した。
「気のせいかもしれないが。……よく、こういう目をする人間がいる。表情が豊かというか」
「ミャア(猫ですが)」
「猫なのに」
言いたいことを先に言われた。
しかも声音に、ほんの少し笑いが混じっている。
昨日までの硬い印象からすると、それだけでだいぶ珍しい気がした。
殿下がミレイユを抱き上げる。
昨日と同じ、安定した抱き方だった。
胸に収まると、不思議なくらい落ち着く。
高いところが怖いはずなのに、この腕の中だけは別だった。
「しばらくここにいなさい」
「ミャ(……はい)」
ミレイユは殿下の腕の中で、ゆっくりまばたきをした。
断る理由なんて、どこにもない。
こうして、ミレイユ・ド・ブランシュフォールの『お猫様』生活が始まった。
彼女はまだ知らなかった。
アドリアン・ド・ヴェルモン王太子が、実は筋金入りの猫好きであることを。
というより、王族全体がだいたい猫に甘い、ということを。
世間では『猫は不吉』という言い伝えが広まっている。
だがその由来は、数代前の王が愛猫を亡くし、落ち込みのあまり政務を滞らせ、やがてその後を追うように亡くなった——という、たいへん人聞きの悪い逸話だった。
それがいつの間にか尾ひれをつけ、『猫を飼うと国が傾く』だの『白猫は特に不吉』だのと広まってしまったらしい。
王族の間では、あれはただの風説だというのが共通認識である。
そして殿下が、この白猫に並々ならぬ関心を持ち始めていることも。
ミレイユはまだ知らない。
ただ、殿下の腕が温かいことだけは知っている。
(早く人間に戻らないと)
そう思いながらも、夕暮れの窓辺で殿下の隣に座って外を眺めるのは、まあ悪くないとも思っていた。
少しだけ。
本当に少しだけ、正直に言えば。



