「名前をつけよう」
殿下が静かに言う。
「白くて、碧い目をしている。……言葉がわかるように鳴く。ミィはどうだ」
「ミャァ(ミィ……)」
「吉兆の白という意味だ。不吉なはずがない」
その言葉には、何か言外の意味が込められているように聞こえた。
猫は不吉だという、この国の言い伝えへの静かな反論。
誰かに聞かせるためではなく、自分の考えとしてそう言っている声だった。
「ニャア(いいと思います)」
「では、ミィだ」
名前をもらう、というのは不思議な気分だった。
本当はミレイユなのに、と思う。
でも、その名前を殿下がくれたことが、なぜだか少しうれしい。
猫として呼ばれているだけなのに、ここにいていいと許されたような気がした。
しばらくして、侍従が湯と布と食べ物を運んできた。
殿下は自らミレイユの体を温かい布で拭き始める。
(え、殿下が直接やるの?)
侍従が「お手伝いを」と申し出たが、殿下は「いい」と断った。
「猫は知らない人間に触られると警戒する。馴染むまでは私がやる」
そんな理由を口にしながら、殿下は本当に丁寧に白い毛を拭いてくれる。
力を入れすぎず、顔まわりは布の端でそっと、足先は嫌がらないよう短く。
猫の扱いを心得ているように見えた。
これは明らかに、猫好きな人の手つき。
ぬるま湯を含んだ布が、冷えていた毛並みに心地いい。
汚れが落ちるたび、毛がふわりと軽くなる。
思わず前足を踏ん張ってしまうと、「そこは苦手か」と小さく言って、すぐ別の場所から拭いてくれる。
(やさしい……)
だめだ、と思うそばから警戒心が薄れていく。
こんなふうに扱われたら、猫でなくても懐いてしまう。
「白い猫だったんだな。汚れていて気づかなかった」
「ニャァ(そうです、白猫です)」
拭き終わったあとは、食べ物が出された。
白身魚の切り身と、鶏肉の小片。
王宮の厨房から来た、ちゃんとした食事。
ここ数日の干し魚とパンとは比べものにならない。
湯気こそないが、匂いの時点で格が違う。
ミレイユは少し迷い、けれど空腹には勝てず、なるべく品位を保ちながら食べ始めた。
急いでがっつきたいのに、殿下が見ていると思うと、つい一口ごとに姿勢を整えてしまうあたり、我ながら変なところで令嬢だった。
殿下はそんな様子を黙って眺めていた。
その目は、面白がるでも呆れるでもなく、ただひどく安堵したようにやわらいでいた。
ちゃんと食べるのを見て、ようやく安心した——そんな眼差しだった。
食事が終わる頃には、どっと眠気が押し寄せてきた。
久しぶりにあたたかく、久しぶりにきちんと食べたのだ。
体が安心した途端、緊張の糸が一気にほどけたらしい。
ミレイユはソファの上へ戻ると、くるりと丸くなった。
まだ少しだけ湿り気の残る毛の先を、暖炉の熱がじんわり乾かしていく。
殿下は執務机に戻り、書類を読みながら、ときどきこちらを見ていた。
「くぁっ……(欠伸が出てしまう。寝てしまってもいいのかな……)」
気にしたところで、猫の体は正直だ。
蝋燭のやわらかな光の中、暖炉のぬくもりの中で、ミレイユはゆっくり目を閉じた。
紙をめくる小さな音だけが遠くで聞こえて、やがてそれさえも溶けていく。
(……不思議な人)
『謹厳な御方』という評判は、半分正しかった。
隙がなく、しっかりした人だ。言葉も態度もぶれない。
でも同時に、猫に名前をつけ、直接体を拭き、ちゃんと食べたのを見て安堵する人でもある。
(想像と、違った)
(どうせなら……殿下に、ちゃんと人間の姿で会いたかった)
そんなことを思いながら、ミレイユは眠りに落ちた。
殿下が静かに言う。
「白くて、碧い目をしている。……言葉がわかるように鳴く。ミィはどうだ」
「ミャァ(ミィ……)」
「吉兆の白という意味だ。不吉なはずがない」
その言葉には、何か言外の意味が込められているように聞こえた。
猫は不吉だという、この国の言い伝えへの静かな反論。
誰かに聞かせるためではなく、自分の考えとしてそう言っている声だった。
「ニャア(いいと思います)」
「では、ミィだ」
名前をもらう、というのは不思議な気分だった。
本当はミレイユなのに、と思う。
でも、その名前を殿下がくれたことが、なぜだか少しうれしい。
猫として呼ばれているだけなのに、ここにいていいと許されたような気がした。
しばらくして、侍従が湯と布と食べ物を運んできた。
殿下は自らミレイユの体を温かい布で拭き始める。
(え、殿下が直接やるの?)
侍従が「お手伝いを」と申し出たが、殿下は「いい」と断った。
「猫は知らない人間に触られると警戒する。馴染むまでは私がやる」
そんな理由を口にしながら、殿下は本当に丁寧に白い毛を拭いてくれる。
力を入れすぎず、顔まわりは布の端でそっと、足先は嫌がらないよう短く。
猫の扱いを心得ているように見えた。
これは明らかに、猫好きな人の手つき。
ぬるま湯を含んだ布が、冷えていた毛並みに心地いい。
汚れが落ちるたび、毛がふわりと軽くなる。
思わず前足を踏ん張ってしまうと、「そこは苦手か」と小さく言って、すぐ別の場所から拭いてくれる。
(やさしい……)
だめだ、と思うそばから警戒心が薄れていく。
こんなふうに扱われたら、猫でなくても懐いてしまう。
「白い猫だったんだな。汚れていて気づかなかった」
「ニャァ(そうです、白猫です)」
拭き終わったあとは、食べ物が出された。
白身魚の切り身と、鶏肉の小片。
王宮の厨房から来た、ちゃんとした食事。
ここ数日の干し魚とパンとは比べものにならない。
湯気こそないが、匂いの時点で格が違う。
ミレイユは少し迷い、けれど空腹には勝てず、なるべく品位を保ちながら食べ始めた。
急いでがっつきたいのに、殿下が見ていると思うと、つい一口ごとに姿勢を整えてしまうあたり、我ながら変なところで令嬢だった。
殿下はそんな様子を黙って眺めていた。
その目は、面白がるでも呆れるでもなく、ただひどく安堵したようにやわらいでいた。
ちゃんと食べるのを見て、ようやく安心した——そんな眼差しだった。
食事が終わる頃には、どっと眠気が押し寄せてきた。
久しぶりにあたたかく、久しぶりにきちんと食べたのだ。
体が安心した途端、緊張の糸が一気にほどけたらしい。
ミレイユはソファの上へ戻ると、くるりと丸くなった。
まだ少しだけ湿り気の残る毛の先を、暖炉の熱がじんわり乾かしていく。
殿下は執務机に戻り、書類を読みながら、ときどきこちらを見ていた。
「くぁっ……(欠伸が出てしまう。寝てしまってもいいのかな……)」
気にしたところで、猫の体は正直だ。
蝋燭のやわらかな光の中、暖炉のぬくもりの中で、ミレイユはゆっくり目を閉じた。
紙をめくる小さな音だけが遠くで聞こえて、やがてそれさえも溶けていく。
(……不思議な人)
『謹厳な御方』という評判は、半分正しかった。
隙がなく、しっかりした人だ。言葉も態度もぶれない。
でも同時に、猫に名前をつけ、直接体を拭き、ちゃんと食べたのを見て安堵する人でもある。
(想像と、違った)
(どうせなら……殿下に、ちゃんと人間の姿で会いたかった)
そんなことを思いながら、ミレイユは眠りに落ちた。



