連れ込まれたのは、本棟の執務室だった。
広い部屋には書棚がずらりと並び、大きな執務机があり、暖炉では火が穏やかに燃えている。
窓際には細長いソファ。明かりは蜜蝋の蝋燭で、やわらかな光が部屋の隅々まで満ちていた。
外の雨と土の匂いに慣れていた鼻には、その部屋の空気はひどく落ち着いて感じられる。
乾いた紙の匂いと、木と、火の匂い。人の住む場所の匂いだ、とミレイユは思った。
殿下がミレイユをそっとソファに下ろした。
「まず、体を拭かないといけないな。随分汚れている」
「ウミャ(それは否定できないです……)」
見れば、白い毛はだいぶ薄汚れていた。
庭の土と埃と、何日も外で暮らした証拠が、そのままこびりついている。
令嬢としての品位がずたずただ。
もちろん今は猫なので関係ないのだけれど、それでもちょっとへこむ。
殿下は扉を開け、廊下に控えていた侍従へ声をかけた。
「温かい湯と、柔らかい布を持ってきてくれ。それから魚と、できれば鶏肉を少し」
「……はい」
侍従の返事には、わずかな戸惑いが混じっていた。
だが逆らいはしない。王太子の命令なのだから当然だ。
それでも、猫一匹にそこまでするのか、という顔はしていた。
殿下が戻ってきて、ソファの上のミレイユを見る。
「逃げないか」
「ニャァ(逃げません)」
ミレイユはゆっくりまばたきをした。
猫の体では、まばたき一つで気持ちが伝わるような気がする。
殿下がわずかに目を細めた。
「賢い猫だ」
その言い方が、少しだけやさしかった。
ミレイユはソファの上で丸くなり、暖炉の火を眺めた。
あたたかい。
じんわりと体の芯までほどけていくようなぬくもりだった。
何日ぶりだろう。雨をしのげて、火があって、追い払われる心配をしなくていい場所なんて。
(ここ、なかなかいいかも……)
いや、だめだ。
慣れてはいけない。
ここにいるのは一時的なことで、自分は早く人間に戻って、魔女を告発して、本当のことを伝えなくてはいけないのだから。
「怖かっただろう」
そう思っていたところへ、殿下がぽつりと言った。
「三人の男に囲まれて、追い詰められて」
「ミャ?(え?)」
「なぜ、私の手を取った?猫が人間に手を差し出されて、近寄ってくるのは珍しい。警戒するものだ。それとも、余程腹が減っていたか」
声が少し和らいでいた。
笑っているわけではないけれど、昼間のような張り詰めた硬さもない。
(なぜ、って……なぜだろう。信用できそうだと思ったから……と言えないし、そもそも言葉が通じないし)
ミレイユはソファから立ち上がり、殿下のほうへ近づいた。
毛足の長い敷物に足が沈む。こんな感触も久しぶりだ。
殿下の前まで行って、顔を見上げる。
青灰色の瞳が、すぐ近くにある。
昼間の庭で見た目とほとんど変わらない。
ただ今は、もう少しだけ、やわらかい気がした。
「ニャア」
呼びかけてみた。特に意味はない。ただ、何か言いたかった。
大丈夫ですとか、助かりましたとか、そういうことを。
でも出てくるのは猫の声だけだ。
殿下がゆっくりと手を伸ばし、ミレイユの耳の後ろを撫でた。
指先がそっと毛を分ける。その手つきがあまりに丁寧で、肩から背中にかけてふっと力が抜ける。
次の瞬間、喉が勝手に鳴った。
「ゴロゴロゴロゴロゴロ(えっ!?何これ???)」
しまった、と思ったのに止まらない。
むしろ撫でられるたび大きくなる。
殿下の指が耳のつけ根から首筋へ移ると、気持ちよすぎて目が細くなった。猫、正直すぎる。
広い部屋には書棚がずらりと並び、大きな執務机があり、暖炉では火が穏やかに燃えている。
窓際には細長いソファ。明かりは蜜蝋の蝋燭で、やわらかな光が部屋の隅々まで満ちていた。
外の雨と土の匂いに慣れていた鼻には、その部屋の空気はひどく落ち着いて感じられる。
乾いた紙の匂いと、木と、火の匂い。人の住む場所の匂いだ、とミレイユは思った。
殿下がミレイユをそっとソファに下ろした。
「まず、体を拭かないといけないな。随分汚れている」
「ウミャ(それは否定できないです……)」
見れば、白い毛はだいぶ薄汚れていた。
庭の土と埃と、何日も外で暮らした証拠が、そのままこびりついている。
令嬢としての品位がずたずただ。
もちろん今は猫なので関係ないのだけれど、それでもちょっとへこむ。
殿下は扉を開け、廊下に控えていた侍従へ声をかけた。
「温かい湯と、柔らかい布を持ってきてくれ。それから魚と、できれば鶏肉を少し」
「……はい」
侍従の返事には、わずかな戸惑いが混じっていた。
だが逆らいはしない。王太子の命令なのだから当然だ。
それでも、猫一匹にそこまでするのか、という顔はしていた。
殿下が戻ってきて、ソファの上のミレイユを見る。
「逃げないか」
「ニャァ(逃げません)」
ミレイユはゆっくりまばたきをした。
猫の体では、まばたき一つで気持ちが伝わるような気がする。
殿下がわずかに目を細めた。
「賢い猫だ」
その言い方が、少しだけやさしかった。
ミレイユはソファの上で丸くなり、暖炉の火を眺めた。
あたたかい。
じんわりと体の芯までほどけていくようなぬくもりだった。
何日ぶりだろう。雨をしのげて、火があって、追い払われる心配をしなくていい場所なんて。
(ここ、なかなかいいかも……)
いや、だめだ。
慣れてはいけない。
ここにいるのは一時的なことで、自分は早く人間に戻って、魔女を告発して、本当のことを伝えなくてはいけないのだから。
「怖かっただろう」
そう思っていたところへ、殿下がぽつりと言った。
「三人の男に囲まれて、追い詰められて」
「ミャ?(え?)」
「なぜ、私の手を取った?猫が人間に手を差し出されて、近寄ってくるのは珍しい。警戒するものだ。それとも、余程腹が減っていたか」
声が少し和らいでいた。
笑っているわけではないけれど、昼間のような張り詰めた硬さもない。
(なぜ、って……なぜだろう。信用できそうだと思ったから……と言えないし、そもそも言葉が通じないし)
ミレイユはソファから立ち上がり、殿下のほうへ近づいた。
毛足の長い敷物に足が沈む。こんな感触も久しぶりだ。
殿下の前まで行って、顔を見上げる。
青灰色の瞳が、すぐ近くにある。
昼間の庭で見た目とほとんど変わらない。
ただ今は、もう少しだけ、やわらかい気がした。
「ニャア」
呼びかけてみた。特に意味はない。ただ、何か言いたかった。
大丈夫ですとか、助かりましたとか、そういうことを。
でも出てくるのは猫の声だけだ。
殿下がゆっくりと手を伸ばし、ミレイユの耳の後ろを撫でた。
指先がそっと毛を分ける。その手つきがあまりに丁寧で、肩から背中にかけてふっと力が抜ける。
次の瞬間、喉が勝手に鳴った。
「ゴロゴロゴロゴロゴロ(えっ!?何これ???)」
しまった、と思ったのに止まらない。
むしろ撫でられるたび大きくなる。
殿下の指が耳のつけ根から首筋へ移ると、気持ちよすぎて目が細くなった。猫、正直すぎる。



