言香の花嫁は、鍵穴の先を覗く

第15話 朝焼けの路地で、あなたを選ぶ(End)

 都が静かになった、と人は言った。

 けれど実際には、静かになったのではなかった。
 止まっていたものが、元のやかましさを取り戻しただけだ。

 礼縁局の表門では、朝から役人たちが記録箱を抱えて走り回っていた。婚礼札の差し替え確認、縁鍵の返還、誤って重なった届書の再照合。石段の下では、待たされた家々が文句を言い、説明を受けた親たちが顔を見合わせ、当人同士で改めて話したいと言い出す若者もいた。

 揉め事は増えた。
 泣く者もいた。
 怒鳴り声も上がった。

 それでも、ゆかりはその光景を前に、前ほど息苦しくならなかった。

 言葉の裏にある焦りも、見栄も、諦めも、たしかに匂う。けれど以前のように、底に沈んだ濁りだけが鼻へ刺さってくることはなくなっていた。迷っている匂いは迷っている匂いのまま、怒っている匂いは怒っている匂いのまま届く。裏だけが膨らみ、本音の全部みたいに迫ってくる感じが薄れている。

 人の心は、最初から一色ではなかったのだ。
 ようやく、その混ざり方ごと受け取れるようになった気がした。

「また難しい顔してる」

 背後から真幌が湯呑を差し出した。
 礼縁局から少し離れた辻に出した茶台には、小さな焼き菓子が並んでいる。白ごまと黒糖を練った新作で、婚礼客向けに出すつもりだと聞いた。

「考え事じゃないよ」
 ゆかりは湯呑を受け取り、ぬるくなった指先を温めた。
「前より、いろんな匂いがいっぺんに来ても平気になったなって」

「よかったじゃない」
 真幌はあっさり言って、焼き菓子の形をひとつ指で直した。
「前は祝言の帰りなんて、あんた、笑ってるくせに目が死んでたもの」

「そんな顔してた?」

「してた」

 間を置かず返されて、ゆかりは口をへの字にした。
 真幌はそれを見て笑う。

 婚礼を白紙にしたあと、真幌はしばらく店を閉めるかと思われた。だが実際には逆だった。三日寝込んで四日目に起き出し、台所へ立ち、「祝言が延びた人でも食べやすい甘いものを作る」と言い始めた。泣いたぶんだけ腹は減るから、と本人は言う。そういうところが真幌らしい。

「楓葉さまも、さっき見たよ」
 真幌が通りの先を顎で示す。
「家の女中さん二人も連れて、礼縁局の裏へ入ってった」

 名家の若い娘が、古い婚礼帳の見直しへ自分から出入りするなど、少し前なら誰も想像しなかっただろう。楓葉はこの数日、紹介状の扱いと婚礼作法の押しつけについて、家の年長者と何度もぶつかっていた。きちんと髪を結い、きちんと文句を言い、きちんと自分で確かめに行く。その背中は以前よりずっとまっすぐに見えた。

 榊の家も閉じなかった。
 英美子は礼縁局との関わりを隠さず話し、自分のやったことを認めたうえで、行き場のない娘たちが一時身を寄せられる家として建て直すと決めた。叱る声は相変わらず路地の端まで響くが、朝になると炊き出しの湯気まで一緒に流れてくる。

 橋のたもとや水路沿いでも、壊れたものを壊れたまま放ってはおかなかった。欄干の注連は掛け直され、古い鍵箱は封を改められ、見回りの鈴の音が朝夕の路地へ少しずつ戻ってきている。

 都は、すぐには綺麗にならない。
 けれど、前より息をしやすい場所が、あちこちに増えていた。

 ただ一つだけ、まだ戻ってこないものがあった。

 圭介だった。

 巨大な綻びが閉じた夜から、三日。
 命に別状はないと鍵守寮の医師は言った。呼吸も脈もある。傷も、見えているぶんは深くない。だが目を閉じたまま起きない。

 正晶は、壊れた断ち鍵の欠片を盆の上へ並べながら、「戻る場所が増えすぎたのかもしれん」と言った。
 星志郎は「曖昧な言い方をするな」と顔をしかめたが、その声にも疲れが滲んでいた。
 世凪は一度だけ本気で泣き、二度目からは泣きながら記録を書き写し、三度目には「目覚めたあと困らないように遅れたぶん全部読ませましょう」と物騒なことを言い出した。

 ゆかりは毎朝、鍵守寮の部屋へ通った。
 香具店の手伝いを終え、真幌の茶台をのぞき、榊の家へ差し入れを置き、それから廊下の一番奥にある部屋へ行く。

 今日も襖を開ける。

 春先の朝の光が、障子越しに薄く差していた。
 圭介は枕を高くした寝台の上で、静かなまま横たわっている。顔色は三日前より戻った。けれど目を開けない人というのは、それだけで遠く見えた。

 ゆかりはいつもの椅子へ座り、持ってきた小さな包みを膝に置く。
 中身は、藤代香舗で仕立て直した香袋だ。仮の婚約のときに交換したものとは別に、今の季節の匂いで作った。

「……これ、まだ渡してませんからね」

 返事はない。

「契約のぶんは、もう終わりでいいんです」
 自分で言って、喉が少しつまる。
「公務のためでも、方便でも、もうそれでそばにいる理由は足りてるでしょうし」

 膝の上で包み紐を撫でる。

「でも、終わりでいいかどうかは、あなたが起きてから決めます」

 そのときだった。

 微かに、空気が変わった。

 風ではない。
 香袋でもない。
 もっと静かな、けれど、どうしても聞き逃せない変化。

 ゆかりは息を止めた。

 匂いがした。

 雨上がりの檜。
 煎りたての茶。
 夜の冷えがほどける直前の、朝焼けの路地の空気。

 それは強すぎず、甘すぎず、胸の奥へまっすぐ入ってきた。帰る場所に近い匂いだった。嗅いだ瞬間、疑うより先に肩の力が抜ける。

 ぼろりと涙が落ちた。

「……遅い」

 言った途端、寝台の上で指先がわずかに動いた。

 ゆかりは立ち上がる。椅子が畳を擦った。

「圭介さん?」

 睫毛が震える。
 それから、ゆっくりと目が開いた。

 寝起きのせいか、いつもの切れ味が半分ほど抜けた眼差しが、ぼんやりと天井を見て、次にゆかりへ移る。

「……うるさい声だな」

 最初の一言がそれだった。

 ゆかりは泣きながら、思いきり顔をしかめた。

「起き抜けにそれですか」

「よく眠れた」

「三日です」

 圭介の目が少しだけ見開かれる。
 たぶん本人は半日程度のつもりだったのだろう。そこでようやく、部屋の隅に積まれた記録の束や、机の上の水差しや、替えられた寝間着の袖までが視界へ入ったらしい。

「綾部は」

「生きてます。捕まってます。礼縁局の記録も見直しになりました。榊の家は残ります。真幌姉さんは新しい甘味を作ってます。楓葉さまは家のしきたりに喧嘩売ってます。世凪くんは、あなたが起きたら遅れた記録を全部読ませるつもりです」

 矢継ぎ早に言うと、圭介は枕へ顔を半分埋めるようにして目を閉じた。

「最後のがいちばん面倒だな」

「そこですか」

 声に出して笑ってしまう。
 笑った途端、また涙が出た。

 圭介が目を開ける。今度ははっきり、ゆかりを見る目だった。

「……泣いたのか」

「泣きますよ」
 ゆかりは鼻をすすった。
「誰のせいだと思ってるんです」

 しばらく沈黙が落ちた。
 けれど、その沈黙は以前のように冷たくなかった。言葉を探している沈黙だと、匂いが教えてくれる。

「心配をかけた」

 圭介がそう言った。
 簡単で、飾りのない言い方だった。
 それなのに、今まででいちばん真っ直ぐ胸へ届いた。

「はい」
 ゆかりは答える。
「とても」

「悪かった」

「はい」

「……二度目は」

「あります」

 即答すると、圭介がわずかに眉を寄せた。

「ないようにしてください、の意味です。わかってます?」

 そこでようやく、圭介の口元が少しだけ緩んだ。
 ほんの小さな動きだったのに、部屋の空気が春先の水みたいにほどける。

 その日から、いろいろなことが少しずつ片づいていった。

 急に何もかも良くなったわけではない。けれど、目をそらして先送りにされていた仕事から順に、ようやく人の手が入り始めた。

 礼縁局の婚礼記録は、麻里佳と亜寿加が中心になって整理し直し、星志郎が監察の印を一つずつ入れた。圭介は寝台から起き上がれるようになっても、しばらくは部屋から出ることを禁じられ、世凪が本当に遅れた報告書を山ほど抱えてきた。央和は無言でそれをさらに仕分けし、正晶は壊れた断ち鍵の代わりになる封鍵具を叩きながら、「今度は勝手に死にかけるな」と見舞いの品みたいな声で言った。

 ゆかりは店へ戻りつつ、ときどき鍵守寮へ顔を出した。
 前のように、会うたび胸の奥を疑うことはない。匂いがわかるからではなく、わからないところまで込みで、この人の言葉を待てると思えるようになっていた。

 そして、圭介が寮の門を自分でくぐれるようになった朝、藤代香舗へ一通の使いが来た。

 文は短い。

 ――今朝、例の路地へ来てほしい。

 それだけだった。

「例の、って何よ」
 ゆかりは文を握って言った。

 母は笑いを噛み殺し、父は帳面の上でわざとらしく咳払いをした。
 結局、ゆかりは顔を少しだけ赤くしたまま、店を飛び出した。

 朝焼けは、まだ都の屋根へ浅く乗っていた。
 第二話の朝と同じようで、けれどまるで違う。

 あのとき二人は、理屈を並べて線を引いた。
 今は、その線をどこへ引き直すのか、自分たちで決めに行く。

 路地の角には、圭介がいた。
 黒い羽織はいつもどおりきっちり着ている。だが肩の力だけは、前より少し抜けて見えた。

「呼び出しておいて、自分が先に来てるんですか」

「待たせると文句を言うだろう」

「言います」

「知っている」

 その返しが妙に自然で、ゆかりは一瞬だけ言葉に詰まる。
 圭介は懐から小さな包みを取り出した。布に包まれた、見慣れた形だ。

「これを返す」

 仮の婚約のときに交換した封鍵具だった。
 使い込まれた金具の縁を、朝の光が細く撫でている。

「公務上の理由で預けていたものだ」
 圭介が言う。
「だから、ここで一度、終わらせる」

 ゆかりはそれを受け取った。
 掌に乗る重さが、最初の頃とは違って感じる。

「……はい」

 胸が少しだけ痛んだ。
 わかっていたことだ。契約は契約だ。終わらせなければ、始め直せない。

 すると圭介は、今度はもう一つ、別の包みを差し出した。

「そのうえで、改めて頼みがある」

 布を開くと、中にあったのは新しい縁鍵だった。
 小ぶりで、余計な飾りはない。だが歯のところにだけ細い銀が流れ、柄には檜の葉と小さな香袋の意匠が並んでいる。正晶の仕事だろう。堅いくせに、こういうところだけ妙に気が利く。

 ゆかりは顔を上げた。

 圭介はまっすぐこちらを見ていた。

「今度は方便じゃない」
 低い声が、朝の冷えた空気を静かに押す。
「都合がいいからでも、公務に必要だからでもない」

 ひと呼吸。

「俺は、おまえと並んでいたい」

 その言葉に、匂いが重なる。
 雨上がりの檜。煎りたての茶。朝焼けの路地。
 迷いもある。照れもある。けれど逃げる匂いが一つもない。

「泣く回数を減らせるとは言わない。嫌な目に遭わせないとも言い切れない。俺は不器用だし、口も足りない」

「知ってます」

「知っているなら話が早い」

 圭介は一度だけ目を伏せ、それから言った。

「藤代ゆかり。契約ではなく、俺の意志で、おまえに婚約を申し込む」

 胸の奥が、熱くなる。

 ずっと前なら、こんな場面でも、先に匂いの裏を探していたかもしれない。
 少しでも濁りを見つけて、傷つく前に身を引こうとしたかもしれない。

 けれど今は違う。
 迷いが混じることは、嘘の証じゃない。
 怖さがあることは、本気ではない証拠じゃない。
 この人は、迷っても、怖くても、自分で言葉を選んでここに立っている。

 それがわかる。
 それで十分だった。

 ゆかりは、息をひとつ吸った。

「……前に言いましたよね」

「何を」

「本気になんてならない、って」

 圭介の喉がわずかに動く。
 ああ、この人、こういうときだけ本当に強くない、とゆかりは思ってしまう。

 それがたまらなく愛しい。

「撤回してもいいですか」

 問いかけた瞬間、圭介の目元がほどけた。
 笑った、というには少しだけ不器用な、けれど確かな変化だった。

「それは、許可を取るものなのか」

「一応」

「なら、許す」

「何ですかそれ」

「言い直す」
 圭介は新しい縁鍵を差し出したまま、ほんの少しだけ身を屈めた。
「撤回してくれて、助かる」

 その言い方があまりにこの人らしくて、ゆかりは笑いながら泣きそうになる。
 受け取った縁鍵は、朝の光の中でひやりと冷たかった。

「私も」
 ゆかりは声を整えた。
「あなたを選びます。誰かに決められたからじゃなくて、私がそうしたいから」

 言ってから、そっと鍵を握る。
 もう匂いは怖くない。
 いや、怖さが消えたわけではない。けれど、怖いまま言える。
 それでいいのだと思えた。

 路地の向こうで、店を開ける音がした。
 魚屋の戸板が上がる。茶店が湯を沸かす。榊の家のほうからは英美子の怒鳴り声が飛び、すぐあとで娘たちの笑い声が追いかける。橋のたもとの宿では憲幸が箒を動かし、真幌の茶屋からは黒糖を煮る匂いが流れてきた。

 都は今日も忙しい。
 泣く者も、笑う者も、迷う者もいる。
 けれど、そのどれもが自分の足で立とうとしている匂いだった。

「行くか」
 圭介が言う。

「どこへ」

「まず藤代香舗へ」

 ゆかりが目を瞬くと、圭介は少しだけ視線を逸らした。

「正式に話を通す。順番を誤ると、あとで面倒になる」

「誰が言ってるんですか」

「おまえの父上は、そのへんを見ていそうだ」

 たしかに見ていそうだった。
 想像しただけで可笑しくなる。

「それが済んだら?」

「榊の家へ寄る。英美子殿に報告が必要だろう」

「そのあと」

「真幌の茶屋で新しい甘味を食べる」

「そのあと」

 ゆかりが重ねると、圭介は今度こそこちらを見た。

「壊れた言葉を結び直したい者の相談所を作る」

 さらりと言ったその中身が大きくて、ゆかりは足を止める。

「相談所?」

「記録だけで縁を決める場は、もう信用されない。だが記録そのものは要る。綻びもなくならない」
 圭介は歩き出しながら言う。
「なら、押しつけるためではなく、本人たちが選び直すための手助けをする場がいる。鍵守寮だけでは足りない。香りで感情の綻びを読み、鍵で閉じる者が並んでいたほうがいい」

「ずいぶん勝手に話を進めますね」

「嫌か」

 ゆかりは二歩遅れて、その隣へ並んだ。

 朝焼けの路地は細い。
 けれど二人で歩くには、もう十分だった。

「嫌じゃないです」

 素直に言うと、圭介の匂いがまた少しだけ深くなる。
 檜の奥に、あたたかい茶の気配が混じる。
 帰る場所みたいな匂いだ、とゆかりは思う。

 誰かに与えられた最適解ではない。
 遠回りで、面倒で、ときどき泣く。
 それでも、自分で選んだ縁の匂いだった。

 雨鏡京の朝が、二人の足もとからゆっくり明るくなっていく。
 欄干の向こうで水が光り、どこかの家の戸口で新しい鍵が鳴った。

 今度の音は、誰かを檻へ閉じるためではない。
 自分で開ける扉のための音だった。

【終】 【完】