『京都嵯峨野・ダイヤの殺意』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ



1.誤算の代償

 取調室の空気は乾いていた。

 蛍光灯の白さが、机の木目を過剰に浮き立たせている。

「何度も申し上げているはずだ」

 久保寺は両手を組んだまま、微動だにしない。

「私は実業家だ。メイという才能に、相応の資金と時間を注いできた。彼女の成功は私の成功であり、彼女を失うことは私自身の損失になる。それ以上でも、以下でもない」
 
 隣に座る弁護士が、短く補足する。

 「自分の資産を、自分の手で損壊するロジックは存在しませんよ」

 坂本は、手元の資料を閉じた。

「資産、ですか」

 モニターが起動し、未署名の専属契約書が映し出された。

 右上に印字された『ウィチャイ・エンターテイメント』のロゴが青白く浮かび上がる。

「メイさんは、移籍を検討していた。あなたの管理下を離れ、最大のライバルの元へとね」

「検討は自由だ。だが署名はしていない。ビジネスにおいて、確定していない事実に価値はない」

「だが、あの日、午後六時。保津峡の展望台で、彼女はそれをあなたに突きつけた。そうですね」

 久保寺の視線が、自分の高級腕時計に向けられた。

「撮影のオブザーバーとして立ち寄り、打ち合わせをしたまでだ」

「そこで、言い争いになりましたね。あなたが『現場を立ち去った』と主張する時刻には、致命的な狂いがある。スタッフが、休憩所の裏で激しい口論をするあなたたちを目撃している。午後六時五分。あなたが既に大阪へ向かっていたと称する時刻だ」

 坂本の感情を排した声が、久保寺の顔にじわりと染み込んでいく。

「彼女は理想に酔う年頃だ。環境を変えれば自分の価値が跳ね上がると信じ込んでいる。私は、その思い上がりを正したに過ぎない」

「いいえ。彼女はあなたの過去――二十五年前、タイであなたが盗み取った技術の真相を知っていた。このプログラムの開発者名はウィチャイ、そしてあなたの元恋人、アノンの名だ。あなたが開発した技術ではないという動かぬ証拠だ」

「何をいまさら……終わったことだ」

 リサが、タイ当局から取り寄せた出生証明書を提示した。

「メイさんの母親はアノン。父親の欄には、あなたの名があるわ」

 リサは久保寺の目をじっと見据え、言葉を突き刺す。

「DNA鑑定の結果も出ている。メイさんは、あなたの実の娘よ。彼女の芸名は、あなたがタイを去る直前に名付けた『愛衣(メイ)』だったのだから」

 久保寺の指が、机の下で激しく震える。

「……彼女は、私を脅したのだ! 私を破滅させるために、ウィチャイが送り込んだ刺客だったのだ!」

「違う!」

 坂本の声が遮った。

「彼女は、あなたの“偽りの成功”を守るために、自らを差し出したんだ。久保寺さん、あなたは自分を救いに来た娘を、ただの『脅威』と見誤って殺めたんだ」

 久保寺の唇が、微かに震えた。

「……彼女が余計なことをしたのだ。それだけのことだ」

 絞り出すようなその声は、もはや誰を説得するためのものでもなかった。



2.汽笛の残響

 午後六時二十二分。

 十一月の保津峡は、既に深い夜の底にあった。

「これが、私の新しい契約書よ」

 街灯の寒々しい光の下で、メイの派手な衣装が異様に浮き立っていた。

「私は、私の人生を選ぶ。あなたの敷いたレールは、もう走らないわ」

 久保寺は、彼女の背後に広がる暗い渓谷を黙って見つめていた。

 一分の隙もなく組み上げてきた成功の道。

 それを今、自身の傑作キャラであるはずのメイが書き換えようとしている。

 久保寺のエゴがそれを許さなかった。

 山あいに列車の汽笛が木霊し、吹き上がる風が首に巻かれたマフラーを揺らす。

 久保寺は、そのマフラーを引き抜き、滑らかな生地をメイの首に巻きつけた。
 
 渾身の力を込めると、メイの赤い唇から言葉にならない掠れた音が漏れた。

“おとうさん…”

 メイの軀体は糸の切れた操り人形のように、冷たい地面に崩れ落ちた……。

*

 取調室の久保寺は、じっと目を閉じ俯いたまま、弁護士に促(うなが)され席を立った。

 若い署員に両脇を固められ、部屋を後にする彼の背中を、坂本とリサが静かに見送った。

 完璧を求めた男が、最後に手にしたのは、完璧な敗北だった……。

*

 ―夕方の京都、嵯峨野。

 竹林の隙間から差し込む西陽が、坂本とリサの横顔を淡い茜色に染めていく。
 
 遠くで、最終のトロッコ列車の汽笛が冷えた空気を切り裂いた。

「彼女、最後まで久保寺を救おうとしていたのに……」

 リサの呟きは、吹き抜ける風の音にかき消された。

「……皮肉なもんだな」

 坂本の言葉に、リサは小さく頷いた。

 竹林の奥へ消えていく汽笛の余韻が、二人の間の沈黙を埋めていく。

 二人が竹林を抜けると、線路沿いの舗装路に数台のパトカーの赤色灯が並んでいた。

 JR嵯峨野線の踏切付近は、スマートフォンを掲げる外国人観光客の群れで異様な熱気に包まれている。

「ああ、やっぱり! ここに来てはったんですか!」

 人混みの向こうから、制服の警官をかき分けるようにして大河原警部が駆け寄ってきた。

 白い息を吐き、少し乱れたネクタイを直しながら、坂本とリサの前で足を止める。

「色々大変でしたなぁ。リサさんも、わざわざタイから来てもろて。……いや、しかし、こんなとこでお二人にお別れの挨拶なんて・・・・」

 大河原は、喧騒の渦中にある踏切を苦々しく振り返った。

「いわゆるオーバーツーリズムってやつですかね。踏切のすぐ横で中国人のユーチューバーが変死体で見つかりましてな……。現場はもうグチャグチャですわ……そや、ちょっと待ってな」

 大河原は踵を返し、部下に顎でしゃくった。

「リサさん、つまらんもんやけど、これでも“おたべ”(*)! ちゅうてね。遠慮せんと、これは捜査経費から落としてますよって!」

 小走りにやってきた、若い警官から手渡されたのは箱入りの生八つ橋だった。

 リサが大河原に小さく合掌(ワイ)をして受け取った。

「ほな、お二人さんとも気ぃ付けて、また、どっかでお会いしましょや。お元気でね……」

「大河原警部もお元気で、またどこかで……!」

 大河原は軽くお辞儀をして、足早に現場へと戻って行った。

「また、“おたべ”・・・? 今度はナムプリックパオでもかけてみようかしら。激辛の生八つ橋、案外いけるかもしれないわよ」

「……それは勘弁してほしいな。京都の伝統が台無しだ」

 坂本が苦笑すると、リサは声を立てて笑った。

 二人は、激しく明滅する赤色灯と野次馬のざわめきを背に、闇の降り始めた駅へと歩き出した……。

(*)京都土産の定番「おたべ」は、つぶあんを包んだやわらかな生八つ橋。上品な甘さともちもち食感が楽しめる和菓子。

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