あらくも、みやびに

幼少期から作文は得意な方だった。
文章が良いというよりは、文字を書くことに苦痛はなかった。『原稿用紙五枚埋めろ』など、何も苦い気持ちにならない子どもだった。ただ、私は、両親や学校の先生の添削によって大人好みの作文に整えられてしまった自分の作文は大嫌いだった。無駄だと省かれたそれには、私の熱はなく、綺麗に揃えられた文章。ここが回りくどいだのなんだのと言われ、全てを破いてやろうかという気持ちになったのを覚えている。読書感想文を書けば、提出前に両親が確認。離任する先生への手紙を書かされたと思ったら、他の先生が添削。不満でしょうがなかった。特に許せないのは、私が添削無しで提出したものが、とある新聞で取り上げられたときだ。学校に新聞記者がインタビューをしに来たのだが、新聞に載ったのは『学校の教育の賜物だ』という内容だった。私は自分が持っていたものを学校の手柄のように言われ、口の端を歪めた。そんなこんなで、大人の都合で、切り揃え、整えられてしまう作文には、うんざりしていた。
そして、大人になり、小説を書き始めた。すると、比喩は無駄ではなく、この言い回しが良いのだ、と言われるようになった。そこには、私の文章を、ポエティックすぎる、と冷笑する人はいなかった。わくわくした。私は文章を書く、ということに自由を感じた。私の文字は、長く伸びたり、ぷつりと切れたり。ザンバラで。それを望んでいたのだ。