悪役令嬢の追放からの逆転スローライフ〜辺境公爵の『溺愛業務』を請け負います〜

「視覚的な無駄が多い。色彩と盛り付けに割いた時間は非効率ではないか?」
「色彩は脳の食欲中枢を刺激し、唾液分泌を促します。これは消化の第一歩で、栄養吸収効率を高めます」

リリアーナは笑顔のまま、論理で殴る。
カインは半信半疑で、ポタージュを一口飲んだ。

その瞬間、青い瞳が僅かに見開かれた。
温かさが喉を滑り、内側から身体を解凍していく。
肉の旨味が、蒸し肉では引き出せなかった深さで舌に残る。
ハーブの香りが、緊張した脳をふっと緩める。

「……これは」
「精神的満足度は、カロリー値だけでは測れません」

言葉が出ないのは、感情を言語化する習慣がないからだ。
リリアーナは勝利を確信した。
カインは無言でスプーンを動かし続け、普段の倍以上の時間をかけて完食した。

食後、彼は硬い声で報告を始める。
そこだけは通常運転だ。

「精神的満足度において、以前より優れている。食後の魔力安定性が、通常より約七パーセント向上している。貴女の主張するリラックス効果が、脳活動に良い影響を与えた証拠と認めよう」

「ありがとうございます、カイン様。では、正式にメニュー立案権限を――」
「ああ。貴女に一任する。ただし、貴女自身の栄養バランスも完璧に維持すること」

当然のように、管理対象を増やしてくる。
リリアーナは苦笑を飲み込み、頷いた。

昼食は、王都で流行していた簡素なランチを応用した温かいチョップドサラダ。
見た目はカジュアルだが、全て一口大で、フォーク一つで食べられる。
カインの研究時間を邪魔しない『効率』は残しつつ、食べることのストレスを消す。

そして、その日の夕食。
リリアーナが出したのは、疲労回復のためのスパイス煮込み――魔獣肉を赤ワインと香辛料で煮込んだ濃厚なシチューだった。
暖炉の炎のような赤と、深い香りがダイニングに満ちる。

カインは椅子に座るなり、その香りにわずかに鼻を動かした。
――ほんの一瞬。
だが、リリアーナは見逃さない。

(溶けてる。料理でなら、この人は反応するわ)

「この香辛料は?」
「辺境特有の、血行を促進するスパイスです。疲労回復に効果があります。そして、カイン様が召し上がる前に、わたくしが一口味見をいたします。これは業務です」

リリアーナはさらりと言い、次に演出へ移る。
彼女はカインの皿からスプーン一杯をすくい、口に運んだ。
カインの瞳が、驚きと警戒で鋭くなる。

「リリアーナ!何をしている!毒見なら執事に任せろ!」
「違います。これは愛の物語を維持するための、公的な業務です」

リリアーナは堂々と言い切った。

「貴族社会において、妻が夫の食事を最初に口にする行為は、『二人の間に秘密はない』という最大級の愛情表現の一つです。わたくしがこの辺境で、公爵夫人としての地位を確立し、貴方様への献身を示すための重要な演出です」

前世のドラマ知識を、王妃教育の社交論に変換して差し出す。
カインの論理回路は、この手の演出を否定できない。
アルテミス家の名誉と、リリアーナの地位保全に直結するからだ。

「……愚かな行為だ」

カインは呟いた。
だが、声の温度がほんの僅かに揺れている。

「だが、貴女の論理は認めよう。二度と、私以外の毒見は許さない」

そこ、そうなるんだ。
許可じゃない。独占だ。

カインはシチューを食べ始める。
一口、また一口。
複雑な香りと、熱が、彼の五感を揺さぶっていく。
硬い表情が、少しずつ、しかし確実に緩む。

「リリアーナ」

彼が静かに名前を呼んだ時、リリアーナはなぜか背筋が伸びた。

「この煮込みは……なぜ、これほどまでに魔力消耗の回復を促すと感じる?」
「栄養素が香辛料の刺激で代謝されやすくなっているからです。加えて、香りと味覚が、貴方様の脳が知覚していた『疲労』という概念を一時的に上書きします。プラシーボ効果もありますが――」

リリアーナはそこで一拍置き、決定打を落とした。

「最も重要なのは、貴方様がこの食事を楽しんでいるという事実です」

カインが僅かに固まった。
楽しんでいると指摘されることが、彼にとっては不意打ちだ。
感情は、計算できない。制御しづらい。
だから彼は嫌う――はずなのに。

「……この食事は、素晴らしい。貴女の主張通り、私のパフォーマンスは向上している」

彼は認めた。

「メニュー立案だけでなく、調理指導も貴女に一任する。リチャード。あらゆる食材と香辛料を王都から調達しろ」
「かしこまりました、旦那様」

リチャード執事の顔は、喜びで輝いていた。
リリアーナは満足した。
カインが論理では解決できない領域を、確かにこちらへ委ね始めたのだ。

その夜。
カインはリリアーナの私室を訪れた。

「リリアーナ。貴女は、私が想定していた以上に優秀なパートナーだ。食事改革は初日から研究効率を約八パーセント向上させた」

夜の訪問すら、業務報告という名目で正当化する。
相変わらずだ。

「ありがとうございます、カイン様」
「だが、貴女が自分の安全を顧みず、私の食事の味見を強行した行為は非合理だ」

カインはリリアーナの顎を優しく持ち上げた。
指先は冷たい。だが視線の奥に、熱がある。
その熱が、彼自身の制御から外れかけているのがわかる。

「貴女の安全は、この契約における最重要項目だ。それを貴女自身が脅かしてはならない」
「わたくしの命が、貴方様にとってどれほどの価値を持つか、身をもって示す必要がありました。それが最大の信頼の証です」

計算された献身。
けれど、嘘ではない。
リリアーナは必要な演出をしているだけだ。
それが彼の安全装置になるなら、なおさら。

カインは、その答えに満足したように息を吐いた。
そして、リリアーナの唇に短い口づけを落とす。

朝の契約締結の口づけよりも、明らかに温度がある。
『署名』ではなく、『確認』だ。

「忘れるな、リリアーナ」

カインは囁く。

「貴女が私の胃袋を掴んだように、私も貴女の体と心を支配する権利を持っている。貴女は、私以外の者の料理を二度と口にしてはならない」

溺愛は、食の領域でも独占になる。
リリアーナは、前世の知識がこの冷徹な公爵を急速に溶かしていることを実感した。
そして同時に、その溶けた部分が、より強い鎖になっていくことも。

彼女は、もはや単なる契約妻ではない。
カイン・アルヴァロ・アルテミスという最も強力な男の、欲望と論理を同時に扱う――唯一の担当者になりつつあった。

「承知いたしました、カイン様。貴方様の食事は、わたくしが責任を持って管理いたします」

その言葉に、妻としての甘さではなく、プロとしての覚悟を込める。
この共同生活は、予想を遥かに超えた濃密な業務へと変貌していく。

食事改革は、胃袋を掴んだだけでは終わらない。
彼の心を、制御不能な溺愛という領域へ――確実に引きずり込んでいくのだ。