日本なら残暑がやっと引き始める季節だろうか。
あの肌を焦がす熱気もなく、代わりに心地よい風が頬を撫で、少しの肌寒さと茜色の光が街を包み込む。
「そうか……この世界でも、夕焼けは見れるんだな」
ふっとこぼれた言葉。
ホームシックと呼ぶには、あまりに生ぬるい。
胸の奥に、名前をつけられない感情が込み上げる。
郷愁。哀愁。愛郷心。どれもしっくり来ないのに、全部が涙腺を刺激した。
もう二度と帰れない。ここで生きるしかない。
そう思い知らされるたび、息が詰まりそうになる。
あの病院の白い天井も、忙しなく駆け回った日々も、もう二度と戻らない。
私を『涼子』と呼んだ人たち……両親、同僚、数少ない友人。
彼らの声も、笑顔も、もう二度と届かないのだ。
誰一人として、あの名前で私を呼ぶ人はいない。
もう戻れないのだと、夕焼けに染まる街を見下ろして、ようやく痛感した。
けれど今は、その隣に彼がいる。
まだ離さずに握られている手の温もりだけが、すべてを現実へと繋ぎ止めていた。
静かに息を吐き、目を閉じる。
ほんの一瞬だったのに、妙に熱い視線を感じて顔を上げた。
視線が交わった瞬間……彼が無意識に見惚れていたのだと悟る。
言葉はなくとも、その眼差しがすべてを語っていた。
胸の鼓動がひときわ強く跳ねる。
……いつから?こいつ、いつから見てたんだ!?
「……行こうか」
穏やかで、柔らかくて、心を撫でるような声。
どうしてそんなふうに言うのか、わからない。
けれど胸がざわめいて、どうしても落ち着けなかった。
高台のテラス席。夕焼けが街をゆっくりと飲み込んでいく。
オレンジと紫が混じり合う境目。遠くから鐘の音が響く。
テーブルの上には、熱々のスープと香草の香りが漂う白身魚。
「今日は、楽しかった?」
「楽しかった!」
即答したあと、あまりの素直さに自分で恥ずかしくなり、グラスを持ち直す。
「えっと……屋台、ほんとに美味しくて。屋敷に戻ったら、作ってもらいたいくらい……」
風が、テーブル端に置かれていた紙をめくった。
視線が吸い寄せられる。そこには色鮮やかな刷り物。
収穫祭のチラシ。
金色の灯り、踊り、露店。日付は、そう遠くない。
無意識に手を伸ばし、じっと見つめる。
いいな……行ってみたい。
収穫祭って、ハロウィンに近いのかな?
病院で入院していた子供たちを楽しませるために、仮装して回診したことを思い出す。
「この祭りも、一緒に行こうか」
心臓が、不意に跳ねた。
「え!?いいの!?」
「もちろん」
「うわー!楽しみ!!」
口から飛び出した声に、数秒遅れて青ざめる。
あれ!?私いま、次のデートの約束、普通に楽しみって言ったよね!?
だって……今日が想像以上に、あんまりにも楽しくて……
視線を上げると、エドはいつもの落ち着いた顔で、けれど目の奥だけが柔らかい光を帯びていた。
「人混みは今日より多いから、もう少し周到に」
「……う、うん」
収穫祭のチラシを楽しげに見つめるアリエルを見ながら……胸の奥で、呼吸が少し軽くなる。
周到に。慎重に。焦らない。次は絶対に失敗できない。
アリエルはまだ気づいていない。
本当の目的がすぐそこまで迫っていることに。
「そろそろ送ろう」
帰りの馬車に揺られる頃には、空はすっかり夜の帳に覆われていた。
一日中出歩いたのなんて、この世界に来て初めて。
疲れている。けれど、ドレスで丸一日過ごした時のぐったり感とは違う。
心が軽くて、身体の芯がじんわりと温かい。
窓の外に流れる街の灯りを眺めながら、馬車の揺れに身を任せる。
そのリズムは、子守歌のように心地良かった。
屋敷に戻り、侍女に手伝われてお風呂に入る。
湯気に包まれながら今日を思い返し、思わず笑みがこぼれた。
……さすがに疲れてるから、たくさん買った本は明日のお楽しみかな。
そう思いながらネグリジェに着替え、部屋に戻ると……
そこには、優雅に紅茶を口にしているエドの姿があった。
「……まだいんのか!」
「送るとは言ったけど、帰るとは言ってないからね」
もーーーまた、こいつは屁理屈を……
そんなエドの言葉を無視してベッドに向かう。
「何でもいいから、私は寝るから、とっとと帰れよな……」
よほど疲れていたのだろう。
言い終えるよりも早く、ベッドに突っ伏したアリエルは深い眠りに落ち、静かな寝息を立て始めた。
あの様子……街中を一日中歩き回ったなんて、きっと初めてだ。
ベッドの傍に静かに近づき、端に腰かけて彼女の髪にそっと触れる。
「……まったく、無防備だな」
頬を撫でると、足元から熱っぽい視線。
目を下げると、彼女が「ワンワン」と名付けた大きな白犬が見上げていた。
「くぅ~ん」
アリエルを起こさぬよう指を口に当て、囁く。
「シー……君のご主人様を、今は少しだけ独占させてくれるかな」
犬は不満げに鼻を鳴らしたが、察したのかその場に伏せて目を閉じた。
それを確認すると、ためらうことなくベッドに潜り込み、眠るアリエルを抱き寄せる。
彼女はふっと目を開け、寝ぼけ眼で微笑んだ。
「……ふふっ、今日、楽しかった……」
その一言に、心臓が大きく跳ねる。
「……あぁ……」
思わず身を屈め、強く抱きしめる。
想像以上に柔らかく、温かい。
こんな真似をすれば、もう二度と手放せなくなるとわかっていても……止められなかった。
無意識なのだろう。
その細い腕が、きゅっと抱き返してきた瞬間、喉が詰まる。
「……っ……」
言葉を失い、ただ愛しさを噛みしめるように力を込める。
やがてアリエルは再び深い眠りへ。
きっと……君は起きたら覚えていない。
「……忘れてもいい。君が覚えていなくても、私は絶対に忘れない」
静かに目を閉じ、彼女の寝息に耳を傾ける。
「……おやすみ」
髪に口づけを落とし、腕の中で眠りに落ちた。
「……んぁ……あったか」
普段より暖かい。けれど少し重い。
ふわふわの毛が顔をくすぐる……
「ん……ワンワン?」
うっすらと目を開けると……目の前にはワンワンではなく、エドの顔。
しかも、しっかり腕の中に抱き込まれている。
「…………ぎゃあああああああ!!!!」
一瞬で血の気が引き、慌てて自分の身体を確認する。
服は乱れていない。下着も無事。下腹部に違和感もない。
よし!未遂!!!
安堵した途端、別の意味で心臓が暴れる。
「……って、お前!!!なんで帰ってねーんだよおおおお!!!」
剣幕に押され、エドは目を覚ますも、涼しい顔であくびを噛み殺しながら答えた。
「危険だからな。隣にいた方が安心だろう?」
「だからー!お前と一緒だと命狙われちゃうの!!!安心どころか不安の塊だわ!!!」
そこへ、扉の向こうからノックと侍女の声。
「殿下、お嬢様、朝食の準備ができております」
「いただこうか」
「え?え?」
いやいやいや今それどころじゃ……!?
なんで普通にモーニングコーヒー決めちゃってんの!?
「では、また来る」
私の混乱など意に介さず、コーヒーを一杯だけ飲み干して部屋を出て行く。
……いや、また来るって。もう来るなって言ってたはずだろ!?
なんか本屋に釣られて、うっかりデートみたいなことしちゃったし。
次の約束までしちゃったし。
なんでこうなるのよ……!
私の混乱をよそに、侍女がにこにこと声をかけてきた。
「昨晩は滞りなくお済みになられたようで……」
……は?滞りなくって何!?
「え……何のこと?」
「お嬢様、お風呂のご用意も整えてございます」
!!!!!!
お済みって……そういうことか!?
「待って!?済んでない済んでない!!何も始まってもないから!!」
「まぁ……お嬢様ったら、そんなに恥ずかしがられて」
あかん……完全に「恥ずかしくて否定してるだけ」としか受け取られてない……
否定すればするほど泥沼に沈むパターン。
ぐったりとソファに倒れ込み、力なく呟く。
「もう……それで……いいです……」
それが精いっぱいの抵抗だった。
あの肌を焦がす熱気もなく、代わりに心地よい風が頬を撫で、少しの肌寒さと茜色の光が街を包み込む。
「そうか……この世界でも、夕焼けは見れるんだな」
ふっとこぼれた言葉。
ホームシックと呼ぶには、あまりに生ぬるい。
胸の奥に、名前をつけられない感情が込み上げる。
郷愁。哀愁。愛郷心。どれもしっくり来ないのに、全部が涙腺を刺激した。
もう二度と帰れない。ここで生きるしかない。
そう思い知らされるたび、息が詰まりそうになる。
あの病院の白い天井も、忙しなく駆け回った日々も、もう二度と戻らない。
私を『涼子』と呼んだ人たち……両親、同僚、数少ない友人。
彼らの声も、笑顔も、もう二度と届かないのだ。
誰一人として、あの名前で私を呼ぶ人はいない。
もう戻れないのだと、夕焼けに染まる街を見下ろして、ようやく痛感した。
けれど今は、その隣に彼がいる。
まだ離さずに握られている手の温もりだけが、すべてを現実へと繋ぎ止めていた。
静かに息を吐き、目を閉じる。
ほんの一瞬だったのに、妙に熱い視線を感じて顔を上げた。
視線が交わった瞬間……彼が無意識に見惚れていたのだと悟る。
言葉はなくとも、その眼差しがすべてを語っていた。
胸の鼓動がひときわ強く跳ねる。
……いつから?こいつ、いつから見てたんだ!?
「……行こうか」
穏やかで、柔らかくて、心を撫でるような声。
どうしてそんなふうに言うのか、わからない。
けれど胸がざわめいて、どうしても落ち着けなかった。
高台のテラス席。夕焼けが街をゆっくりと飲み込んでいく。
オレンジと紫が混じり合う境目。遠くから鐘の音が響く。
テーブルの上には、熱々のスープと香草の香りが漂う白身魚。
「今日は、楽しかった?」
「楽しかった!」
即答したあと、あまりの素直さに自分で恥ずかしくなり、グラスを持ち直す。
「えっと……屋台、ほんとに美味しくて。屋敷に戻ったら、作ってもらいたいくらい……」
風が、テーブル端に置かれていた紙をめくった。
視線が吸い寄せられる。そこには色鮮やかな刷り物。
収穫祭のチラシ。
金色の灯り、踊り、露店。日付は、そう遠くない。
無意識に手を伸ばし、じっと見つめる。
いいな……行ってみたい。
収穫祭って、ハロウィンに近いのかな?
病院で入院していた子供たちを楽しませるために、仮装して回診したことを思い出す。
「この祭りも、一緒に行こうか」
心臓が、不意に跳ねた。
「え!?いいの!?」
「もちろん」
「うわー!楽しみ!!」
口から飛び出した声に、数秒遅れて青ざめる。
あれ!?私いま、次のデートの約束、普通に楽しみって言ったよね!?
だって……今日が想像以上に、あんまりにも楽しくて……
視線を上げると、エドはいつもの落ち着いた顔で、けれど目の奥だけが柔らかい光を帯びていた。
「人混みは今日より多いから、もう少し周到に」
「……う、うん」
収穫祭のチラシを楽しげに見つめるアリエルを見ながら……胸の奥で、呼吸が少し軽くなる。
周到に。慎重に。焦らない。次は絶対に失敗できない。
アリエルはまだ気づいていない。
本当の目的がすぐそこまで迫っていることに。
「そろそろ送ろう」
帰りの馬車に揺られる頃には、空はすっかり夜の帳に覆われていた。
一日中出歩いたのなんて、この世界に来て初めて。
疲れている。けれど、ドレスで丸一日過ごした時のぐったり感とは違う。
心が軽くて、身体の芯がじんわりと温かい。
窓の外に流れる街の灯りを眺めながら、馬車の揺れに身を任せる。
そのリズムは、子守歌のように心地良かった。
屋敷に戻り、侍女に手伝われてお風呂に入る。
湯気に包まれながら今日を思い返し、思わず笑みがこぼれた。
……さすがに疲れてるから、たくさん買った本は明日のお楽しみかな。
そう思いながらネグリジェに着替え、部屋に戻ると……
そこには、優雅に紅茶を口にしているエドの姿があった。
「……まだいんのか!」
「送るとは言ったけど、帰るとは言ってないからね」
もーーーまた、こいつは屁理屈を……
そんなエドの言葉を無視してベッドに向かう。
「何でもいいから、私は寝るから、とっとと帰れよな……」
よほど疲れていたのだろう。
言い終えるよりも早く、ベッドに突っ伏したアリエルは深い眠りに落ち、静かな寝息を立て始めた。
あの様子……街中を一日中歩き回ったなんて、きっと初めてだ。
ベッドの傍に静かに近づき、端に腰かけて彼女の髪にそっと触れる。
「……まったく、無防備だな」
頬を撫でると、足元から熱っぽい視線。
目を下げると、彼女が「ワンワン」と名付けた大きな白犬が見上げていた。
「くぅ~ん」
アリエルを起こさぬよう指を口に当て、囁く。
「シー……君のご主人様を、今は少しだけ独占させてくれるかな」
犬は不満げに鼻を鳴らしたが、察したのかその場に伏せて目を閉じた。
それを確認すると、ためらうことなくベッドに潜り込み、眠るアリエルを抱き寄せる。
彼女はふっと目を開け、寝ぼけ眼で微笑んだ。
「……ふふっ、今日、楽しかった……」
その一言に、心臓が大きく跳ねる。
「……あぁ……」
思わず身を屈め、強く抱きしめる。
想像以上に柔らかく、温かい。
こんな真似をすれば、もう二度と手放せなくなるとわかっていても……止められなかった。
無意識なのだろう。
その細い腕が、きゅっと抱き返してきた瞬間、喉が詰まる。
「……っ……」
言葉を失い、ただ愛しさを噛みしめるように力を込める。
やがてアリエルは再び深い眠りへ。
きっと……君は起きたら覚えていない。
「……忘れてもいい。君が覚えていなくても、私は絶対に忘れない」
静かに目を閉じ、彼女の寝息に耳を傾ける。
「……おやすみ」
髪に口づけを落とし、腕の中で眠りに落ちた。
「……んぁ……あったか」
普段より暖かい。けれど少し重い。
ふわふわの毛が顔をくすぐる……
「ん……ワンワン?」
うっすらと目を開けると……目の前にはワンワンではなく、エドの顔。
しかも、しっかり腕の中に抱き込まれている。
「…………ぎゃあああああああ!!!!」
一瞬で血の気が引き、慌てて自分の身体を確認する。
服は乱れていない。下着も無事。下腹部に違和感もない。
よし!未遂!!!
安堵した途端、別の意味で心臓が暴れる。
「……って、お前!!!なんで帰ってねーんだよおおおお!!!」
剣幕に押され、エドは目を覚ますも、涼しい顔であくびを噛み殺しながら答えた。
「危険だからな。隣にいた方が安心だろう?」
「だからー!お前と一緒だと命狙われちゃうの!!!安心どころか不安の塊だわ!!!」
そこへ、扉の向こうからノックと侍女の声。
「殿下、お嬢様、朝食の準備ができております」
「いただこうか」
「え?え?」
いやいやいや今それどころじゃ……!?
なんで普通にモーニングコーヒー決めちゃってんの!?
「では、また来る」
私の混乱など意に介さず、コーヒーを一杯だけ飲み干して部屋を出て行く。
……いや、また来るって。もう来るなって言ってたはずだろ!?
なんか本屋に釣られて、うっかりデートみたいなことしちゃったし。
次の約束までしちゃったし。
なんでこうなるのよ……!
私の混乱をよそに、侍女がにこにこと声をかけてきた。
「昨晩は滞りなくお済みになられたようで……」
……は?滞りなくって何!?
「え……何のこと?」
「お嬢様、お風呂のご用意も整えてございます」
!!!!!!
お済みって……そういうことか!?
「待って!?済んでない済んでない!!何も始まってもないから!!」
「まぁ……お嬢様ったら、そんなに恥ずかしがられて」
あかん……完全に「恥ずかしくて否定してるだけ」としか受け取られてない……
否定すればするほど泥沼に沈むパターン。
ぐったりとソファに倒れ込み、力なく呟く。
「もう……それで……いいです……」
それが精いっぱいの抵抗だった。



