蓮くんの好きぴは着ぐるみのなか

 迎えた、十二月二十五日。蓮と約束したクリスマス当日の朝は、どんよりとした曇り空の下で幕を開けた。
 バス停に降り立った俺を待っていたのは、その空模様に負けるとも劣らない、見たこともないような不穏なオーラを噴き出している蓮だった。

「蓮、おはよ」
「……はよ」

 あまりの落ち込みように、苦笑いするしかない。俺はその肩にそっと手を置き、励ますようにポンポンと叩いた。

「まぁ、しゃーないって。人手不足だって園長に泣きつかれちゃったんだし……二人で出かけるのは、延期ってことでさ」

 俺の言葉に、蓮はアスファルトのひび割れを数えるように俯いたまま、いつもよりずっと重い足取りだ。
 いや、気持ちは痛いほど分かる。俺だって正直、昨日の夜まで浮かれて準備してたんだから。

(凹みすぎてて、かける言葉が見つかんねぇ……行き先も、予約した店も、待ち合わせの時間も……全部決めてたもんな)

 直前になって園長からかかってきた、『お願いだから出勤してくれ』という非情な泣きつき電話。
 結局、俺たちが心待ちにしていたクリスマスという一大イベントは、一瞬でバイトデーへと姿を変えた。
 別の日に振り替えればいい。頭では分かっていても、街中に流れるクリスマスソングが今はただ虚しく響く。今日という「特別」を逃した喪失感は、思った以上に俺たちの心を削っていた。

「今日がバイト納めじゃん? ……蓮と一緒のシフトで、俺は良かったと思ってるよ」
「……朝から晩まで、残業コースだけどな」

 何を言っても、今の蓮には届かない。
 楽しみにしてくれていたんだな、という嬉しさよりも、今は二人で共有していたはずの「今日」が消えたガッカリ感の方が勝ってしまう。
 『超勤手当がガッツリもらえるぞ!』なんて冗談で飛ばそうとしたけれど、蓮の横顔があまりに本気で絶望していたので、そっと言葉を飲み込んだ。

(珍しく、隠しきれないくらいめちゃくちゃしょげてんな。でも俺も、本当は……)

 胸をキュッと締め付けられるような、熱くて苦い塊が喉の辺りに込み上げる。それを体の中に押し留めるので、今は精一杯だった。

「蓮のシフト、今日はどんな感じなの?」
「ジェットコースターとコーヒーカップのもぎりと、夕方に、着ぐるみのアテンドが一回。真紘は?」
「そっか。俺は幼児コーナーと、イートインの清掃とスナックの補助」

 ――あと、最後に着ぐるみが一回だけ。

 蓮の気持ちを包み隠さずに聴けるのも、これっきりということだ。もう、どれだけ知りたくても蓮の本心が分からない状態に戻る。
 それが当たり前の日常だったのに、今はなぜか、ものすごく怖いことのように思えた。

「とりあえず五時まで頑張ろ! 上がる時間は一緒だし。晩飯どっか食いに行くとかも全然アリじゃん?」
「……うん」

 ゲートをくぐって諦めがついたのか、今度はスタスタと歩き始めた蓮の背中。その隣に追いつこうと、慌てて小走りで駆け寄る。

「あ、ちょいちょい! 蓮、待って。これ……さっきバスに乗る前に買ったんだ」

 リュックのサイドポケットから取り出したのは、蓮がいつもコンビニで買っているビターチョコレート。
 落ち込んでるだろうから、少しでもモチベーションを上げてやりたい。そんな一心で、コンビニに駆け込んで買ったそれ。
 差し出されたチョコの箱と俺の顔を、蓮は驚いたように交互にじっと見つめた。

「好きなものがあると、頑張れる気ぃするじゃん? まあ、結局いつも通りのバイトデーになっちゃったけどさ、それはそれで――」

 そこまで言って、盛大に自爆したことに気づいた。
 やば。これじゃあまるで、『俺も今日は特別な日だと思って楽しみにしてた』って白状しているみたいじゃん。

「えっと……つまり、あの! 蓮を励ましたかっただけなんだけど」
「……分かってる。ありがとな」

 強張っていた表情が、ふっと和らいだ。
 蓮が俺のことを励ましてくれたことは沢山あったけど、いざ自分がその番になると、これくらいしか思いつかなくて情けない。
 せっかくのクリスマスの予定がパーになったのは、正直めちゃくちゃ残念だ。
 けれど、たとえ持ち場が離れていても、同じ空気を吸って蓮と一緒に頑張っていると思えば。なんとか乗り切れる気がした。


 □■□■


 クリスマスデートのカップルや、冬休みを満喫する家族連れで、園内はここ二ヶ月で一番の熱気に包まれていた。
 アトラクションの列は長く伸び、ホットスナックの売店には品切れの貼り紙が次々と増えていく。
 そんな怒涛の忙しさの中、イートインコーナーのテーブル清掃をしていた俺は、聞き慣れた声に足を止めた。

「あ、ここなら飲み物とチュロスまだあるって。葵、座って待ってて」

 振り返ると、私服姿の葵と悠生がいた。葵はひとりベンチに腰を下ろし、寒そうに小さく肩をすくめて両手を擦り合わせている。
 今まで何回も二人の私服は見てきたけど、今日のが一番シャレてる。お互いにめちゃくちゃ気合いを入れてるのが丸わかりだ。

「あお……」

 声をかけようと一歩踏み出した瞬間、葵がふと悠生の方へ視線を向けた。
 それは、アイツのことが好きで好きでたまらない、という表情に見えた。ほんの少し離れただけなのに寂しそうで、切なそうで。悠生が戻ってくるのを待ちわびているような、片想いの瞳。

(葵、あんな顔するんだ……うわ、めっちゃ可愛い。マジで上手く行って欲しいけど……)

 悠生が注文を終え、列の先頭でチュロスを受け取ろうとしていた、その時。
 逆方向からやってきた女の子三人組が、悠生にニッコニコしながら声をかけている。どう見ても逆ナンにしか見えない。
 嫌な予感がして葵の方を見ると、やっぱりというか――案の定、葵は眉間に深い皺を刻み、女の子と悠生を睨みつけていた。
 一方の悠生はというと、さすがのお人よしの人たらし。チュロスを受け取っても断る様子はなく、ヘラヘラと笑いながら会話を続けている。

(いや、葵、行けよ! 走れ! お前のもんだろうが!)

 葵は立ち上がる気配すらない。そして悠生が絶望的に気付いていなくて、ヤバいことになる予感しかしない。
 俺は掃除道具を放り出し、プレハブ小屋へダッシュで駆け込んだ。予定より少し早いけれど、うさ太の衣装に身を包む。

(あぁ〜〜もうっ! マジで世話が焼ける! ここは俺がピエロになるしかない……!)

 お節介なのは分かっているけど、ハラハラしっぱなしで、黙って見ていられなかった。
 蓮の介添えなしで動くのは不安だったけれど、うさ太特有のゆるいステップでベンチへ近づく。
 きらきらの目の穴から覗くと、今にも泣き出しそうな葵が、戻ってきたらしい悠生に背中を向けているところだった。

「葵! なぁー、待てって。なんで急にキレてんだよ」
「もういい、気分じゃなくなった。一人で帰る」

 葵がキッと悠生を睨みつける。一瞬ひるんだ悠生だったけど、慌てて追いかけて手首を掴んだ。

「お前、マジで気分屋すぎるって。前から思ってたけど、お前のそういうとこ――」
「そもそも悠生が悪いんじゃん! ナンパされて嬉しそうにして、俺のことそっちのけで……」
「えっ? ……いや、待って。あれ、ナンパじゃなくて」
「言い訳とか、みっともないし聞きたくない」

 葵が本当に立ち去ろうとするのを見て、俺は慌てて割り込んだ。コイツも本当に頑固だから、悠生が追いかけて来るって分かってても、ガチでゲートを出てバス停まで歩いて行く位のことはするのが目に見えている。

 うさ太の体でおちゃらけたステップを踏み、通せんぼするように葵の前に立ちはだかった。

「……え、なに、このうさ太……動きキレキレでキモいんだけど」

 葵がドン引きして固まっている。それとは対照的に、周囲の子供たちが『うさ太だ!』と指をさして歓声をあげ始めた。
 俺はダンスを止め、葵の肩をトントンと叩くと、お城の向こうにある観覧車を力いっぱい指差す。

(行け! あれに乗れって、仲・直・り! そんでもって告白されて来い!!)

 葵の腕に悠生の腕を強引に絡めて、精一杯のアピールを叩き込んだ。

「俺たちに、観覧車に乗れって言ってんの……?」
「……た、多分」

 困惑する葵と眉を寄せる悠生に、ベンチに置きっぱなしのトレーを押し付ける。
 『さっさと行け!』と言わんばかりに超高速でバイバーイと小刻みに手を振ると、二人は顔を見合わせ、気まずそうに俯いた。

「葵、ごめん。さっきの……中学の同級生だったから、話が長引いて」

 悠生が眉を下げる。ただの知り合いだったと分かり、俺は心底ホッとした。それはきっと葵も同じだろう。唇をまごつかせながら、ようやく口を開く。

「……知らなかった。俺の方こそ、ごめん……」
「今から並んで、一緒に乗ろう。イルミが点灯する瞬間は、葵と一緒に観覧車の中から見たいって思ってたから」

 提案じゃなく、言い切る形で悠生が葵の手を引く。黙って頷く葵の横顔は、いつもの強気な雰囲気ではなく、目を細めていて本当に嬉しそうだった。

(やっとかよ……! 今日、告ってくっついてなかったら、タダじゃおかねぇぞ!)

 二人が歩き出す背中を、俺はうさ太の大きな顔の中でそっと見送る。
 小さくため息をつこうとすると、『うさ太~!』という元気な声が聞こえ、子どもたちがパタパタとこちらへ走ってきた。

 あ、やべぇ。と思った瞬間、青いスタッフジャンパー姿の蓮が、激突しそうになっている子どもたちをそっと両手を広げてストップをかけ、俺の方を振り返って言った。

「プレハブまで迎えに行ったのに居ないから……めっちゃ探しましたよ! 今日のハイタッチ会の場所、あっちです」

 子供たちに聞こえないように、出来るだけ小さな声で近づいて話す蓮。若干、キレ気味に俺の手を握ってエスコートし始める。
 お城の前まで連れて行かれる間、俺は小さく縮こまることしかできなかった。

(蓮、ごめん。マジで申し訳ないと思ってる。でも、葵と悠生の恋の危機を救ったんだよ。こればっかりは勘弁してくれ……!)

 心の中で必死に言い訳を並べながら、蓮の背中をじっと見つめる。
 クリスマス仕様にデコレーションされたお城の周りには、すでに親子連れが長い列をなして、うさ太の登場を今か今かと待ちわびていた。

「今日はいつもの倍並んでます。『時間制限なしで全員終わるまで』って園長に無茶言われてますけど……しんどい時は、無理しないでください。ベンチに座って写真撮影だけにする形にもできるんで。すぐに俺がフォローに入りますから」

 無駄のない、的確な説明にコクコクと頷く。その直後、場内にうさ太のハイタッチ会開始を告げるアナウンスが響き渡ると、右からも左からも、人が集まり始めた。

「それでは、ただいまからハイタッチ会を始めさせて頂きます。お子さんと手を繋いで、カメラのご準備をお願いします。終了後は、速やかに左側へお進みください!」

 予想以上の混雑ぶりに、行列整理のアルバイトが増員されている。
 流れるドリームランドのテーマソングに包まれながら、俺は次々と訪れる人たちとハイタッチを交わした。
 一人ずつ触れ合う手の中に、ときどき茶化しに来た高校生や、楽しそうに笑う大人の大きな手も混じる。
 けれど、俺の頭は着ぐるみのなかで聞いていた蓮の気持ちや、ふたりで撮ったショート動画。お化け屋敷での沈黙や、おんぶしてくれたことを思い返していた。

(……この後はもう、蓮が何考えてんのか……聞けなくなるんだもんな)

 今、隣で必死に行列を捌いている蓮の横顔を思い浮かべるだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
 こんなに近くにいるのに、どうしても埋まらない距離がある。そのもどかしさが、着ぐるみの内側にこもる熱気よりもずっと深く、胸の奥を苦しくさせていた。

 ドリームランドは冬季閉業に入って、春になれば、俺たちは高三だ。
 今より遊ぶ時間は減るし、勉強に追われる日々になる。進路はまだ決めていないけれど、蓮は志望校に向けて本格的に動き出すはずだ。

(模試受けて、受験勉強して……そうしてあっという間に、また次の季節が来る。そしたら、俺たち……)

 ぼんやりとした不安が、胸のあたりにどうしようもない焦りを生む。
 たとえ蓮がこのまま友達でいてくれたとしても、大学が離れてしまったら。住む場所が変わったら。
 今のような、他愛のない距離感で接することも、きっとなくなってしまう。

『うさ太、バイバイ!』

 そんな寂しさを打ち消すような小さな女の子の声で現実に引き戻されて、その子に精一杯のハイタッチとありったけのハグをして、大きく手を振った。
 やがてスタッフたちの『お疲れ様でした』という声が響き、アルバイトたちがそれぞれの持ち場へと戻っていく。
 最後まで残っていた蓮が、立ち尽くす俺のもふもふの手を、やさしく握った。

「さすが中野さんっすね、今日はお疲れ様でした」

 蓮に導かれるまま、お城の裏側へと続く裏ルートへ向かう。
 すると、陽がすっかり落ちた園内にイルミネーションの点灯を告げるアナウンスが流れ、BGMの音量がふっと絞られる。静かになった園内に、イルミネーションの点灯を告げるカウントダウンが始まった。

『ただいまより、クリスマスイルミネーションの点灯を行います! カウントダウン、十秒前〜!』

 お城の向こうでゆっくりと回る観覧車へ、ふと視線を移す。
 ピンクの装飾がされた一台を見つけて、俺は心の中で祈った。あのゴンドラに、葵と悠生が乗れていますように、と。

 カウントダウンが残りわずかになるまで、蓮はどこか落ち着かない様子で周囲を見回し、まるで光の向こう側にいる誰かを探しているような瞳をしている。
 その視線が、目の前にいる俺を求めているのだと悟った瞬間。心臓が痛いほどの速さで脈打ち始めた。

(俺、ここに居るのに……)

 すぐ隣にいるのに、どうしようもないもどかしさ。喉の奥がヒリヒリと熱くなって、泣きそうになる。

「……三、二、一」

 パッ、と魔法のように辺り一帯が光に包まれた。
 ドリームランドの端から端まで、カラフルな電飾が夜の闇を塗り替えていく。冬の夜空に溶け出したかのような光の海。
 うさ太の狭い視界越しでもその美しさに息を呑んだけれど、そのとき一番に思ったのは、やっぱり蓮のことだった。

(これ……うさ太じゃなくて、素のまんまんの俺で……蓮と一緒に見たかったな)

 イルミネーションの淡い光が、蓮の横顔を繊細に照らし出している。その瞳の奥には、行き場を失った光と影が混ざり合って、静かに揺れていた。
 プレハブ小屋の前に辿り着くと、蓮は不意に足を止め、深く被っていた制帽を一度外して、ふう、と小さく溜息をつく。

「中野さん、今日まで……ありがとうございました」

 軽くお辞儀をする蓮の背中は、いつもよりずっと小さく見えた。
 顔を上げた蓮は、照れを隠すように指先で鼻の頭を掻き、自嘲気味に苦笑を浮かべている。

「クリスマス、一緒に過ごす約束してたんですけど、ダメになってしまって。……今日が絶好のチャンスだって分かってても……やっぱ告って嫌われんのが、俺は怖くて。友達のフリし続けようっていう、ズルい自分のまま、結局変われませんでした」

 蓮は眉をハの字に下げて、悲しげに笑った。諦めたふりをして、本当はまだ何も手放せていない、そんな痛々しい表情。
 俺は着ぐるみの中で、もふもふした手をぎゅっと握りしめ、爪が食い込むほど拳を固めた。

「この景色も本当は、二人で一緒に見たかったんですけどね」

 暗闇の中、光り輝くメリーゴーランドや観覧車。
 蓮が本当に俺と来たかった場所は、街中のイルミネーションなんかじゃなくて、このドリームランドだったという本音を、また「うさ太」の視界の中で突きつけられる。そして、同じことを感じていたことも。

「……次の春からは学年も上がりますし、俺も受験でバイトは入れないと思うんです。だから、本当に今日が最後です。今まで、本当にお世話になりました」

 蓮が深々とお辞儀して、去ろうとする。その背中が遠くなるのが怖くて、俺は咄嗟にその手首を掴んだ。
 あたたかい毛皮に覆われているはずの指先が、氷のように冷たくなっていく。
 蓮を励ましたい、応援してやりたい。そんな綺麗な言葉だけじゃ片付けられない「何か」が、俺を突き動かしていた。

「中野さん……?」

 困惑する蓮の手首を掴んだまま、俺はその足を引きずるようにしてプレハブ小屋の中へと引っ張り込んだ。
 乱暴に閉まったドアの音が、狭い室内に響く。
 着ぐるみの中にこもる、ハァハァという自分の荒い息づかい。視界がじわっと滲む。

(なんでこんな肝心な時に、泣きそうになってんだよ……ちゃんと向き合わなきゃいけないのに……!)

 俺は蓮を繋ぎとめていた手をそっと離し、意を決して、両手で「うさ太」の大きな頭部を持ち上げた。

 首元から、冬の冷たい空気が流れ込む。代わりに、中にこもっていた俺の熱気が白い蒸気になって逃げていく。
 お腹の前でうさ太の頭を抱え、俺は蓮をまっすぐに見つめた。
 蓮の切れ長の瞳が、零れそうなくらい大きく見開かれる。すぐに『えっ』という声が唇から漏れて、俺はきゅっと唇を結んだまま、目を逸らすことが出来ない。

「……いや、なんで真紘がうさ太の中に入ってんの。中野さんは?」
「……ごめん。俺も園長に『誰にも言っちゃダメだ』って言われてて、ずっと言えなくて――」

 蓮の動揺は、想像していたものを遥かに超えていた。困惑を誤魔化すように、ひきつった笑みを浮かべている。
 けれど、その瞳には欠片ほどの余裕もなかった。
 驚かせるだけじゃなくて、悲しませて、嫌な思いをさせたかもしれない。そんな最悪の予想が頭の中を駆け巡る。

「マジでビビったんだけど。……今日だけ代役立てたってこと? 俺……なんも知らされてないんだけど」

 その一言が、鋭く胸に刺さる。心の中で何度も『ごめん』を繰り返した。
 今日だけじゃない。
 ずっと前から、知らないふりをしてお前の隣にいた。
 学校にいる時も、何食わぬ顔で隣で笑いながら。

「……違うんだ」

 押し寄せる罪悪感に押し潰されそうになりながらも、俺は自分の言葉で、震える声で本当のことを告げた。

「面接に来た時、中野さんが春まで休むって電話が来てて……園長に、ピンチヒッターしてくれって頼まれて……」
「……じゃあ、もう……十月の後半から真紘がずっと、中野さんの代わりにうさ太の中にいたってこと?」

 俺が小さく頷くと、プレハブの中に重苦しい沈黙が流れた。蓮は、見たこともないほど傷ついた表情で口を固く閉ざしている。
 それから自分を必死に落ち着かせるように長い息を吐くと、力なくその場にしゃがみこんだ。頭をガシガシとかきむしり、俯く。
 
 俺がバイトをすると言い出した二ヶ月前からの出来事を遡っているのか、それとも、俺の嘘に激しく苛立っているのか分からない。

「……マジか……」

 ポツリと、消え入りそうな声で蓮が呟いた。その一言は、今の俺にとってどんな怒声よりも重くて、苦しくて。

「ずっと、蓮に黙ったままでいようって思ってた。でも、俺……蓮が今日で辞めちゃうのとか、中野さんとこうしてお別れすることまで、ちゃんと考えてなくて」

 必死に説明しようとすればするほど、言い訳がましくなる。けど、自分がどんな気持ちで、何を考えていたか正直に話すことが、蓮への誠意の示し方だと思った。

「さっきの聞いてたら、本物の中野さんに挨拶しないまま、蓮がバイトを卒業することになっちゃうって思ったら……」

 俯いたまま、額を手で押さえて目元を隠す蓮を見下ろす。言葉の続きより先に、目尻から溜まっていた涙がぽろっと零れ落ちた。

 あ、やばい。
 そう思った時にはもう遅かった。
 一度決壊した感情は、とめどなく目の奥から湧き上がって、熱い雫となって頬を伝う。

「このままでいるのは……やっぱダメだと思ったし、それに……っ」

 涙声に気づいて、蓮はゆっくりと顔を上げた。
 そこには、さっきの驚きとは違う、苦しそうな切ない表情が浮かんでいる。

「……俺がお前のこと、相談してんの……どんな気持ちで聞いてたわけ?」
「そ、れは……」
「気持ち悪いって思った? こんなこと考えて自分の隣にいるなんてって、ドン引きしたんじゃねーの」
「ち、違う! そんなふうに思ったことない」
「じゃあ、どう思ったんだよ」

 その核心に迫る言葉に、俺はうさ太のモフモフした手で涙を拭い、正面に座り込んだ。
 この「頭」を外して、涙でグズグズのみっともない顔を冷たい空気に晒してでも、蓮に届けたい想いがある。

「ぶっちゃけ……びっくりはしたよ。普段からクールで何考えてるのか分かんないなって感じてたし、まさか俺のこと好きとか……思っても見なかったし。……でも、うさ太の前では、こんなに俺のこと考えてたり、大切に想ってくれてるんだって分かって。全然、気持ち悪いとかじゃなくてむしろ……蓮のこと、意識するようになっちゃって……」

 呼吸がうまくできない。吐き出した言葉と一緒に、心臓の鼓動まで口から飛び出しそうだった。

「……だから、さっき蓮は自分のことをズルいって言ったけど、ホントにズルいのは俺の方なんだよ。こんな形で蓮の気持ちを聞いて、アプローチさせて。全部知ってんのに……知らないふりして、隣に居て……こんなの卑怯だって自分でも、ずっと思ってて……。でも、中野さんのフリはしなきゃいけないし、俺バカだからこんな風にしか出来なくて……ごめん。ホントごめん……っ」

 吐き出した本音が、プレハブ小屋の薄暗い空気の中に溶けて消えていく。
 蓮は、見開いた瞳に涙を滲ませた俺を、まるで自分まで痛みに耐えているように眉を下げてじっと見つめていた。

「俺のこと、嫌いにならないで。蓮とは、ずっと離れたくない。でも、もう、友達として見れなくなってる自分がいて、苦しい……」

 ピンクのうさぎの着ぐるみを着たまま、顔は涙でぐちゃぐちゃ。汗でぺったり張り付いた髪。自分の間抜けすぎる格好を自覚して、消えてしまいたくなる。
 けれど、子供みたいに嗚咽を漏らす俺の肩を蓮はそっと抱き寄せて、自分の肩口に俺の顔をのせた。

「え……っ、蓮? ちょ、離せって……俺、今、めっちゃ汗臭いし」

 感情が爆発していたはずなのに、急な密着に一気に我に返って恥ずかしくなった。
 焦って蓮の背中を叩いて、床についた手で後ずさる。けれど、蓮はさっきより腕に力を込めて、俺の耳元で静かに言った。

「嫌だったらごめん。でも……真紘の泣いてる顔は、一番俺がお前にさせたくない顔なんだわ」

 なにも、言い返せない。
 蓮が俺の頭に添えた手のひらが、痛いほど俺を大切に想っていることを伝えてくるみたいに感じる。

「もう、俺の気持ち、全部分かってんだろ。こんなことして、本当はバカみたいに緊張してるのも。それでも……これだけは譲れない。真紘が泣いてたら、全力で何とかしてやりたいって思うんだよ、俺は」

 顔を少しだけ離して、正面からまっすぐ言い切られて、また視界が歪んだ。

 今のが、蓮の真ん中にある感情。
 好きになってほしいとか、振り向かせたいとか、そんな自分の欲よりも、もっと奥深くにある根っこみたいなもの。
 俺が自分らしく笑っていられることが、蓮にとっては自分自身の幸せと同じくらい、大事なことなんだ。

「やば……どんだけ愛されてんの? 俺」
「しかも、ここまで俺に言わすんだから。すげーんだよ、真紘は」

 俺は鼻をすすりながら、視線を蓮のブルゾンのファスナーあたりに落とす。
 着ぐるみの中でずっと抱えて、膨らんで。破裂しそうになっていた願いを、打ち明けるなら今だと思った。

「……点灯の瞬間、確かに蓮の隣にいたけど。これ外して、『そのまんま』の俺で、蓮の隣にいたいなって思った」

 余裕のなさそうな蓮の顔を、少しだけ強気に、けれど熱くなった顔を誤魔化しきれずに見上げる。蓮はいつものように迷う仕草も見せず、じっと俺を見つめ返してくる。

「それって……俺、浮かれてもいいやつ?」
「……っ、バカ。なんで頭いいくせに、いちいち確認すんだよ。どう考えてもそういう状況だろうが!」

 もっと自信持てよ、と。うさ太じゃない、素の自分の心に浮かんだ言葉をそのままぶつける。
 蓮は嬉しさと混乱が混ざったような顔をして、感情を処理しきれないのをやり過ごすように額を掻く。それから、おずおずと俺を覗き込んで言った。

「じゃあ……着替え終わったら、二人で観覧車乗る、とか。どうすか」
「……いいっすね」

 わざと普段のふざけた口調を真似る。けれど中身は全然違った。お互いに、マジで照れているのを隠すための言い方だ。

「……俺、スタッフルームで着替えて、ベンチのとこで待ってるから」
「わ、わかった。すぐ行くから、待ってて」

 立ち上がった瞬間、さっきまでの張り詰めた熱量はふっと和らぎ、代わりに意識しっぱなしの甘酸っぱい空気が流れ始める。
 お互いがお互いを好き合っていて、でもまだ決定打だけがない時って、こんなに照れくさいものなんだ。全部全部、初めてすぎてこしょばゆい。

「真紘」
「ん?」

 蓮がドアノブに手を掛けて、振り返る。
 差し込むライトアップと外灯の逆光で、顔は影になっていたけれど、微かに見える蓮の表情は本当に嬉しそうで――それでいて、何かを覚悟したような強い瞳をしていた。

「ゆっくりでいいから」

 ぽんぽん、と優しく二回、頭を撫でられる。
 俺の反応を待たずに扉を閉めて出て行ったその背中を見送りながら、俺は立ち尽くした。
 もう、その一言でわかってしまう。蓮がこのあと、何をしようとしているのか。
 うさ太の頭を床に置き、汗を拭うのも忘れて自分の胸に手を当てる。
 トク、トク、と、かつてないほど速いリズムを刻む鼓動。

 それは、蓮がずっと俺の隣で鳴らしていた音と同じなんだと気付いた瞬間、俺は逃げるように鏡に向かって、乱れた髪をガシガシと整え始めた。