蓮くんの好きぴは着ぐるみのなか

 日曜日の朝。バス停で蓮と合流し、一緒にスタッフ専用ゲートをくぐる。
 上着のポケットに手を突っ込み、肩をすくめながら交わす会話は、冬休みの課題についてだ。

「悠生が、蓮と葵の回答をすりあわせてハイブリッドの答案を作るって息巻いてた」
「あいつマジで一回シバきたい。四月から一回も自力で頑張ってねーじゃん」
「数Ⅱで八点とって、三者面談が地獄だったって」

 笑うたびに、白い息が冬の冷たい空気に溶けていく。スタッフルームまであと少しというところで、明るい声に呼び止められた。

「あ、ちょうどいいところに。おはよう! 藤崎くん、真紘くん」

 園長がロゴ入りキャップを脱ぎながら、軽く手をあげて笑いかけて来る。
 蓮に続いて俺も会釈をすると、園長は手に持っていたバインダーを蓮に預け、困ったような苦笑いを浮かべた。

「藤崎くん、申し訳ないんだけど。ミステリーハウスの朝点検、真紘くんと一緒に頼めるかな? 担当の子が一人、急に欠勤になっちゃって」
「はい。いつも通りの手順でいいですか?」
「うん、ちゃちゃっと宜しくね!」

 嵐のように去っていく園長。
 俺がぽかんとその後ろ姿を見送っていると、蓮がバインダーをこちらに向けた。

「着替えたら、一緒に点検行くぞ」
「えっ! ちょっと待って、ミステリーハウスって……あのお化け屋敷?」
「そう。あそこは全部、機械式だから。客を入れる前に異常がないか毎朝点検してんだよ」
「点検ってどんな感じ? 電気つけて、仕掛けが丸わかりの状態で回るの?」
「客と同じ目線で動いてるか確認するから……電気はついてないけど」

 そう言う蓮が、チラリとこちらに視線を向けてきた。

(うわ……マジか。俺、そういうのめちゃくちゃ苦手なんだけど……!)

 蓮は葵とホラゲーを実況プレイするほどの耐性持ちだ。お化け屋敷の点検なんて朝飯前だろう。
 対する俺は、ここのお化け屋敷に入ったことすら一度もない、心霊系一切お断り体質だ。

「……それ、他の人に代わってもらえたりしないのかな」
「さあ。園長が直々に指名したんだから、みんな手が離せないんだろ」

 絶妙にそれっぽい理由をつけているけれど、これ、絶対「暗闇で俺に抱きつかれたい」とか下心全開で思ってんだろ。
 そういう時だけ抜け目ねーのな……と内心で毒づきつつも、期待に満ちた蓮の横顔が、悔しいけれどちょっとだけ可愛く見えてしまう。

「……え、真紘。まさかビビってんの?」
「なにゆーてるの。んなわけないじゃん」
「若干、顔強張ってるけど……」
「うるせぇ、こっち見んなし」

 蓮の余裕が癪に障って、俺は軽くその脇腹に肘打ちを食らわせた。

 俺は女子じゃない。抱きつかない。抱きつきませんとも。
 絶対、絶対に、何があっても。


 □■□■


 いつもは俺が担当することのない、お城の下のトンネルを抜けた先。
 野外ステージと絶叫マシンの間にひっそりと佇む、洋風の屋敷。バインダーを片手に、お揃いの激ダサ指定ブルゾンを羽織った俺と蓮は、その入口に立っていた。

「あ、藤崎くん。今日もよろしくね」

 受付で札勘をしていたパートさんの声に、蓮が慣れた様子で応じる。やっぱり蓮にとって、ここを点検するのはいつものことらしい。
 俺は入口に飾られた蜘蛛の巣とドクロの禍々しい装飾を見上げ、隣の蓮に小声で言った。

「あの……お化けが出てくるところとか、来る前に教えてくれたりしないッスかね」
「え、嫌だ。俺、真紘がビビるとこ見たいし」
「はあ!? マジで鬼! 怖すぎたらお前を置いて走って逃げるからな!」
「別にいいよ。真紘が一人で出口まで歩けるなら、だけど」

 普段はあんなに優しいくせに、こういう時だけむちゃくちゃドSになる。
 言葉の裏にある野心を見透かしているからこそ、こっちも意地でも甘えたくないという変な対抗心が湧いてくる。
 蓮は真っ黒な遮光カーテンをひょいと開け、迷いなく暗闇へと足を踏み入れた。
 数十年変わっていないという内装はレトロだけど、古いからといって怖さが半減するわけじゃない。むしろ独特の不気味さが増している。
 しきりに左右を警戒する俺に、蓮が足を止めて振り返った。

「怖いなら、服……掴んでもいいけど」
「あぁ!? 掴むわけねーだろ!」

 その言い方が、なんだかルンルンと楽しげで癪に触る。突っぱねて、ずんずん進む蓮の背中に向かって、絶対にしがみつかねぇぞと念を送る……が、その決意は秒で砕け散った。
 蓮が通り過ぎた直後、反対側の仕掛けがガコンッ!と作動。青白い光の中にフランケンシュタインが現れ、赤く光る眼とバッチリ目が合ってしまった。

「ぎゃあああああああ!!!!」

 全力で蓮のブルゾンをひっ掴む。蓮は吹き出し、俺のリアクションを完全に小馬鹿にしてツボっていた。
 目をつぶって歩こうとしたが、足元がおぼつかなくて蓮の踵を蹴ってしまう。

「痛ぇんだけど」
「うっせーな! 早く行けよ、ちんたら歩いてんじゃねーよ!」
「いや、点検のポイント見てんの。ほら、この草陰とかに消火器が隠してあって……」
「ゴチャゴチャうるさい! いーから進めよ!」

 さらに追い打ちをかけるように、ドアがギィ……と開き、中から目を見開いた巨大な魔女が登場。俺はもう、ミステリーハウス全体に響き渡るような大声を上げ続けた。

「れん、れん、蓮! やだぁぁああああ!!」
「いや、動作チェックだから。ちゃんと見ないと……」

 早く行けと背中を押しても、蓮はどこ吹く風で、青や赤のライト下で呑気にバインダーの紙にチェックマークをいれている。相変わらず無表情のだけど、今まで見たことないくらい、めっちゃ目だけはイキイキしてるのが分かる。
 半泣きで出口を熱望していると、悲鳴や雷のBGMが轟く中、蓮がふと立ち止まって俺を見下ろした。

「そんなに怖いなら、真紘が俺の前に来れば?」
「は? 前!? なんでだよ、お前バカ!? そんなん、もっと怖くなるに決まってんだろうが!!」

 全力で拒否しまくる、その時だった。
 蓮が俺の背後に回ると、そっと両腕を俺の肩の前へ回してきた。
 背後から包み込むような、見事なバックハグ。

「ちょ、おまっ。蓮、何して……」
「これなら、怖くないと思う」

 低く落ち着いた声が、耳元に直接落ちてくる。首筋にかかる吐息。背中に押し付けられた胸板の厚みや体格差に、頭が真っ白になった。
 お化けへの恐怖とは違う、ドッドッドッという激しい鼓動が全身を支配する。胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、ヒリヒリとした熱が広がっていく。

(くっそ! 俺じゃなくてお前が抱きつくパターンかよ! ああぁぁ、もう! いきなし攻めてくんな!)

 背中から伝わってくる蓮の心音まで、俺の心臓と同期しているみたいで――それがなんだか、たまらなく居心地が悪い。
 こんなんされたら、いくら親友としての顔を保っていたとしてもさすがにトボけるのはもう限界すぎる。
 俺、そんな天然キャラでもないし。蓮も強気で分からせたいって気持ちしか感じない。

「あの……歩きにくいんですけど」
「俺はそうでもない。真紘が小さいから」
「ざけんな、もう一回言ったらミゾオチに肘入れんぞ」

 俺の言葉なんてまるで気にしないみたいに、蓮はさらに腕の力を強め、自分の方へ引き寄せた。耳に触れる唇の距離が、さっきよりもずっと近くなる。
 やめろ、マジで。こんな暗闇でいきなしイケ散らかしてんじゃねーよ。

「ほら、あと少しだから。頑張れよ」
「……がんばるも何も、そもそも蓮一人で入れば済む話だったじゃん……!」
「残念。点検は二人一組って決まってんの」

 必死で蓮のアプローチをかわそうとするけれど、一歩、また一歩と進むたび、蓮は確信犯的に腕の力を強めてくる。
 まるで「いい加減に気づけよ」と、言葉にできない想いで急かされているみたいだ。

(なんなんだよ、急にフルスロットル出しやがって……! スカした顔のわりにあんなヘタレみたいに悩んで、うさぎのオッサンに相談してたくせに!)

 一瞬、悔しさで下唇を噛んで気を抜いた、その時だった。
 ガコンッ! と巨大な機械音が響き、真横からボロボロのゾンビの首が飛び出した。

「ぎゃっ!? キモいきもいきもい! 無理無理無理!!」

 心臓が跳ね上がり、逃げ場を求めて蓮の胸板に激突する。それを蓮の腕が、待っていましたと言わんばかりにがっしりと受け止めた。
 服越しに伝わる筋張った腕の感触や、自分より一回り大きい手のひらの熱。そのすべてに、いちいち意識が持っていかれる。
 お化けも怖い。けれど、この状況で容赦なくアピってくる蓮と、それを「男」として猛烈に意識してしまっている自分の方が、何倍も怖い。いろんな意味でホラーだ。

「え、真紘……泣いてる?」
「うざ……マジで無理なんだってば……っ」

 ずび、と鼻をすすり、情けなくも目尻から涙が一粒こぼれ落ちる。
 すると、俺のガチ泣きに若干ビビったのか、蓮が『無理させてごめんな』と、とんでもなく甘い声で囁いた。無駄にイケボ。無駄にカッコイイ顔面。おどろおどろしいBGMの中で、ときめいてる俺もマジでどうかしてる。

(もう、どっちのせいでバックバクになってんのか分かんねぇよ! なにこれ、吊り橋効果ってやつ……!?)

 内心でキレ散らかしながらも、前に回された蓮の腕を、俺は命綱のようにぎゅっと握りしめていた。
 俺がしがみつくたびに、蓮がそれに応えるようにグッ……と力を込めてくる。
 息も絶え絶えになりながら、一歩ずつ這うように進むと、ようやく暗闇の向こうに出口の光が見えてきた。

「着いたよ」
「……しぬかとおもった」

 それが限界だった。それ以上は、喉の奥で言葉がほどけてくれない。なのに、言葉とは裏腹に、蓮は背後から回した腕を緩めなかった。むしろ、わずかに力を込めたまま、足を止める。

「……蓮?」

 どう考えても、親友同士のやり取りにしては不自然な長さの沈黙だった。
 出口のカーテンがかすかに揺れて、その隙間から外の光が細く差し込んでいる。
 さっきまで騒いでいたお化けはもういないのに、耳の奥はずっとうるさい。リズムなんて無視したみたいに、心臓が早く、強く、鳴り続けている。

 『もう離していいよ』の一言が言えない。言えなくはないのに、言おうとしない自分がいる。
 いま振り向いたら、蓮は、どんな顔で俺を見るんだろう。
 俺は、どんな顔で、蓮を見ればいいんだろう。

(あぁ、もう無理なんだけど、もーやだ……こんなの、マジで分からせに来てんじゃねぇよ……)

 どんな言い訳を並べたって、誤魔化しきれる気がしない。
 これまでは「親友だから」という便利な言葉で、全部に蓋をしてこられた。でも――

「……お疲れ。俺、あとバインダー事務所に置いてくるから。……またあとでな」

 その言葉と同時に、蓮の腕の力がゆっくりと緩む。ちらりと見えた横顔が、一瞬だけ苦しそうに歪んだ気がした。
 けれど次の瞬間には、もういつもの無表情に戻っている。何事もなかったみたいに、感情を押し込めた顔。
 帽子を深くかぶり直して、零れそうになったものを隠したいように見えた。

 蓮がまた、なかったことにするなら。俺はまたいつものフリするしかない。なのに、「親友」の顔で隣に立つ方法を、いま思い出せない。
 茶化し方も、何気ない返事の仕方も、なにひとつ浮かんでこない。だって、親友なら絶対に望んじゃいけないことを、体の奥がこんなにもうるさく叫んでいる。

(……早く、俺のこと『好き』って言えよ……もはや焦らしじゃん。こっちは全部分かってんだよ、バーーカ!)

 蓮が親友に戻れても、戻れていない自分がいる。
 壊れていく「昨日」よりも、蓮と向き合う「明日」を期待してしまっている自分がいる。

 出口の光へ向かっていく、蓮の背中。さっきよりずっと、眩しくて、遠い。手を伸ばせば届く距離のはずなのに――
 今すぐ駆け寄って、その服の裾を掴みたい衝動が、胸の奥で暴れている。
 なのに、足は床に縫い付けられたみたいに、一歩も動かなかった。


 □■□■


 あのあとに残ってる仕事が、着ぐるみで良かった。
 だって、蓮への気持ちを考えすぎて、笑顔ひとつ作れないまま、モヤモヤした気持ちで幼児コーナーに立つなんて無理だし。

 いつも通りに着ぐるみのハイタッチ会は終了。頭を外しながらふぅっと溜息をついて、ちら、とシフト表を見る。
 蓮と上がりの時間も一緒で、どんな顔して会ったらいいかなんて考えていると、ふいに、背筋に寒気が走った。
 着ぐるみの中でかいた大量の汗と、更衣室に吹き込む冬の冷たい空気の急激な温度差。
 けど、それ以上にくらくらする眩暈と込み上げるような吐き気を憶えて、嫌な予感がした。

(うわ、なにこれ……脱水気味になってる……?)

 更衣室に置いてある自分のリュックを取って、あとは帰るだけだ。でも、ゆっくりしか歩けない。
 楽しそうに笑ってすれ違うお客さんの邪魔にならないように、隅の方を移動しながら、なんとかスタッフルームのドアを開いた時だった。

「……真紘?」

 着替えを終えたらしい蓮が、怪訝そうに俺を見たのも束の間。すぐさま駆け寄ってきて、俺の顔色を覗き込むなり『大丈夫かよ』と、隠しきれない焦りをみせた。

「んー……ちょっと疲れたっていうか。少し休めば大丈夫だと思う」
「……水、買ってくる。そのまま動くなよ」

 こんな姿、蓮に見せたことない。ていうか、普段が元気すぎてそもそもガチの体調不良になったことがない。高校生になって初めてだ。
 蓮はスタッフルームの扉を勢いよく開け放ち、走って自販機の方へ向かって行った。心配をかけてしまったことへの申し訳なさと、自分のポンコツぶりで嫌になる。

(冬の着ぐるみ、ナメてたわ。あったけーとか思ってたけど……夢中すぎて、水分補給すんの忘れてた……)

 他のスタッフたちが『お疲れ~』と声をかけて通り過ぎていくたび、バレないように必死で取り繕った笑顔を貼り付ける。
 ぞろぞろと帰路につく人波が途切れたのと入れ違いで、蓮が戻ってきた。その手には、水とポカリのペットボトルがしっかりと握られている。

「横になる? すげーしんどそうだな」
「いーや……一度横になったら、もう起き上がれなくなりそ。このままでいいや」

 力なく首を振ると、蓮は『わかった』と言って手際よく水のボトルを開けてくれた。震える俺の手を、蓮の大きな手がそっと添えて支える。冷たい水が喉を通るけれど、吐き気のせいで一口飲み込むのがやっとだった。

「……わざわざ買ってきてくれたのに、ゴメン。これ以上飲んだら吐きそう……たぶん」
「いいよ、無理すんな」

 その時、ふと視界に入った壁の時計が、次のバスの時刻を過ぎている。思わず『あ……』と声を漏らした俺の視線を追い、蓮は状況を察したようだった。
 ロッカーから俺と自分のリュックを無言で取り出すと、迷いのない足取りで俺のそばに歩み寄る。

「真紘の母さんに迎えに来てもらうのは、無理そう?」
「あー……うん。今日も夜まで仕事だし……」

 ポツリとこぼした言葉に、蓮が眉を少しだけ寄せた気がした。
 うちは母子家庭で、母さんが一日仕事を休めば、その分だけ生活にダイレクトに響く。それが分かっているから、どれだけ体調が悪くても、できるだけ迷惑はかけたくない。
 無理をしたことを怒られるのが怖いんじゃない。心配そうな母さんの顔を見るのが、何より一番胸に刺さって嫌なんだ。

「じゃあ、俺が家まで送る。決まりな」
「……いやいや、有り得ねーって。どんだけ優しいの」

 だって、俺の家はバスに揺られ、さらに地下鉄を乗り継いで、そこから少し歩いた場所にある。要するにメッチャ遠いのだ。
 それでも蓮は、おでこにそっと手を当てて熱を確かめると、有無を言わせぬ口調で力強く言い放つ。

「俺がそうしたいだけだから。……今日の休憩の時、昼飯は食えた?」

 その問いに、食欲がなくてコンビニのおにぎりを半分も残したことを思い出す。
 蓮は俺が小さく首を振るのを見ると、リュックから塩分補給のタブレットを取り出し、一つ俺の手のひらにそっと乗せてくれた。

「これ、着ぐるみのアテンドしてるベテランさんがぶっ倒れそうになった時から、ずっと持ち歩いてるやつ。……何も食わないよりはマシだと思うから、口に入れて」

 言われるがままタブレットを口に含むと、レモンの酸味がゆっくりと口の中に広がっていく。蓮は汗で襟足に張り付いた俺の髪を見て取ると、何も言わずにタオルで優しく拭い、肩にそっと掛けてくれた。

(やば……そりゃ心配するよな、俺、蓮と過ごしてから具合悪くなったことねーし……でも、俺の前で良いとこ見せたい、みたいな下心は全然ないとこが……なんつーか……)

 しばらくして、『立てるか?』と聞いてくれた蓮の肩に寄りかかるようにして、ゆっくりとバス停までの道を歩く。
 バスが到着すると、蓮は一番後ろの二人掛けの席を確保し、俺を窓側に座らせてくれた。バスの揺れが体に響かないか、心配そうに顔を覗き込んでくる。

「着くまで、無理しなくていいから。俺に寄りかかって寝てろ」
「あー、ごめん。実は割とマジでしんどいやつだったりする」

 弱々しい俺の言葉に、蓮はそっと俺の頭を自分の肩の方へと引き寄せた。誰かに見られたら、なんてことを考える余裕はもうどこにもない。
 ただ、その腕に額を預け、全身の力を預ける。蓮は俺の肩にしっかりと腕を回し、バスの激しい揺れを少しでも和らげるように、そっと支えてくれていた。

「……さっき清掃ん時にすれ違っただろ。あん時に気づいてやればよかった。ごめんな」

 バスの走行音に消え入りそうな、低く震える声。ぎゅっと、蓮の腕が俺の肩に深く力を込めた。
 違う。蓮は何も悪くない。中野さんが倒れた時みたいに、自分を責めないでほしいのに。猛烈な後悔を感じる。

(俺……なんかバイト始めてからずっと、蓮にこういう顔させてばっかな気がする……)

 着ぐるみの中じゃなくて、今こうして肌の温もりさえ伝わる距離にいるんだから、本当は伝えたい気持ちをちゃんと言葉にすべきだ。
 でも、顔を上げる体力も、言葉を紡ぐ余裕もない。けれど俺は、左隣で俺を支える蓮のダウンの裾を、力の入らない指先でぎゅっと握りしめた。

「……真紘?」

 蓮のせいじゃないのに。俺の家まで付き合わせて、本当にごめん。ここから自分の家に戻るのだって、相当時間がかかるはずだ。
 バイトで疲れているはずなのに、やっぱりどうしようもなく優しい。元気になったら、言葉でも何でもいい、ちゃんと『ありがとう』を伝えないと。

 俺がぶるりと寒気に震えると、蓮は迷いなく首に巻いていた自分のマフラーを解いた。それから、俺の首元から唇までを覆うように、ぐるぐると丁寧に巻き付けていく。

「……いいって、心配しすぎ……蓮が寒くなんじゃん」
「俺は平気。身体あっためとけ」

 その声はどこまでも優しくて。マフラーに残る蓮の体温は、俺の頬を優しく包み込んでくれる。俺はもう、蓮の腕に頭を預けたまま、抗うのをやめた。

 蓮は俺の明るさを好きだって言った。
 でも、対する俺が蓮に感じているのは、少し違う。もっと温かい何かだった。
 空回りして、弱って、どうしようもない時でも。ただそこにいて、背中や肩をこうして静かに支えてくれる。語りかけるようなその優しさに触れるたび、張り詰めていた心はふわりとほどけていく。

(……下手なアプローチより、こっちのがむっちゃ効いてるんですけど……)

 その後も、バスに揺られて、地下鉄に乗り継いで。最寄駅の改札を抜け、家まであと少しという所に来ると、蓮は目の前で突然しゃがみこんだ。

「え……なに、」
「いいから。乗れ」
「はぁ? それのが無理。んなことできるわけねーだろ」
「バカ、なにカッコつけてんだよ。いいから早くしろって」
「カッコつけてんのは蓮の方だろ」

 大真面目な顔をして、蓮がおんぶすると言い張っている。人通りがゼロなわけじゃない。男子高校生がおんぶなんて、どんな羞恥プレイだよ。ツッコミたい気持ちは山々だけど、正直、今の俺には抗う体力が残ってない。

「お、おぶってる時に……ゲロったら最悪じゃん」
「マジで何言ってんの。真紘がそれ以上具合悪くなるほうが、俺にとっては最悪だし」
「いやいやいや、ゲロまみれんなる方が無理じゃん普通に。てか、これ蓮が気に入ってる上着だし」

 高一の冬、いっしょに選んで買ったブランドのちょっと高めのアウター。それを知ってるからこその一言だったのに、蓮は少しだけ苛立ったように眉を寄せて口元を歪めた。

「……まじで面倒くせぇな、じゃあはっきり言うわ。ゲロぶっかけられるより、お前がしんどいの横で黙って見てる方が無理だっつってんだよ。……分かれよ」

 蓮がそんな風に、荒っぽく俺を責め立てるのは初めてだった。なんなら最後の『分かれよ』は、ちょっとだけ低くて、ガチで怒ってるみたいな言い方。
 けど、それが本気で俺を心配してくれてるからだってことも、嫌なくらい伝わってくる。

「……さーせん」
「いや……ごめん、だからその……運ぶから。気にすんなって話」

 諦めて、自分のリュックを抱えたまま、その背中にしがみついた。
 蓮は俺のリュックを前側に回して抱え、俺をひょいっと背負って歩き出す。

「……元気になったら何でもする、何がいい? 『なんでもしてあげる券』プレゼントしますわ」
「何もしなくていい。ただお前が元気になればいいよ」
「ちょ、マジでタンマ。なにそれ、まじでイケメンすぎません? さすが藤崎蓮。顔も中身も男前すぎて大優勝。こんだけ荷物あんのに、へーぜんと歩くところも激メロすぎてもはや――」

 背中でぺちゃくちゃと誤魔化し続ける俺に、蓮が足を止めてはっきりと言った。

「喋んな」

 思わず息を呑む。
 至近距離すぎて、蓮がどんな顔をしてるのかは見えない。けど、ちょっと空気がピリついて、さすがの俺も黙り込む。

「お前、いっつもそう。人から心配されんの嫌で、誤魔化したい時はいつもの三倍くらい早口で『平気ですアピール』して。……そんなんしなくていいから。お前のそういうとこも全部分かってんだから、俺の前では普通に弱っとけよ」

 それは、今まで蓮が俺に向けたことのない言葉だった。
 俺の強がりを全部見抜かれていたなんて、いま言われるまで気づきもしなかった。
 たぶん、本人だって言うつもりはなかったんだろう。
 けど、俺があまりにも「いつもの俺」を演じようとするから、ここまで踏み込まないと黙らないって思ったんだ。

 あぁ、もう。全部お見通しとか。
 どんだけ俺のこと分かってんだよ。

 俺は黙り込んで、抱きつく腕にぎゅっと力を込めた。

(……やべ、めっちゃじんじんする……しんどいって、これ……)

 苦しくて、あったかくて。でも、どうしようもなく切ない。
 一歩踏み出すたびに伝わってくる、力強い筋肉の動き。分厚い上着越しでもはっきりとわかる、確かな体温。

 どれもこれもが愛おしくて、これ以上ないってくらい密着しているのに。親友相手に思っちゃいけないことが頭をよぎる。
 単に友達なら、今のこの状況に感謝して、『サンキュ』ってちょっと茶化して笑ってればいい。それだけでいいはずなのに。
 
(これ以上優しいこと言われたら、マジでやばい……泣きそうなんだけど)

 マフラーに顔を埋めて、蓮のうなじにそっと額を預けた。ドクドクと伝わってくる鼓動の速さが、自分のものなのか、蓮のものなのか、もう判別がつかない。
 優しくされるたびに、胸がぎゅーっとなって、上手く息ができなくなる。喉の奥まで出かかっている「ありがとう」の代わりに、心が「好きだ」って叫びたがっている。

 今まで積み重ねてきた他愛ない会話、呆れたような蓮の笑顔、二人で歩いた帰り道。
 これまでの全部がキラキラした破片になって、抑えきれないくらい胸の奥から込み上げてくる。

 これが、『恋』じゃなきゃ何なんだ。

 好きだけど、安心する。落ち着く。全部預けたくなる。
 蓮の肩に凭れるみたいに頭をのせて、目の前にあるお揃いのピアスがついた耳元に、いま俺がどんな気持ちでいるか、全部ぶちまけたくなる。

 体はこんなにどうしようもなく具合が悪いのに。
 肌寒い冬の空気も、燃えるような夕焼けも、見慣れたいつもの通学路も。
 視界に入る全部が、これまでにないくらい綺麗に見えるのは、間違いなく蓮が居るからだ。

(……俺……自分で思ってたより、蓮のことがめっちゃ好きっぽい……)

 蓮がぐっと力を込めて、身体を支え直す。
 それがまるでこの気持ちに対する答えみたいに思えて、俺は静かにまぶたを閉じた。