青空にふる ー旧校舎西階段の魔法使いー



綺麗だと思った――。

この煌めく星を、自分のものにしたいと思った――。

学校の先生が弾くのとは全然違う。白と黒の八十八鍵、その上を飛び跳ねるように指が動いている。

生まれて初めて、感動に打ちのめされるという感情を知った。

思い出すだけで胸が苦しくなる。

言葉に尽くせない自分に歯噛みした。

耳の奥がジンと痛む。

視界がチカチカと点滅する。

テレビに映る同い年の男の子に触れようと手を伸ばした。伸ばしても届かない。少し埃被った液晶に触れてパチッと静電気が駆けた。跳ね除けられた手は、行き場を失い、宙を掻いてから親指を握り込んだ。親指が逃れるようにして、拳の中で中指を押し退け、薬指を擦り上げる。

しばらく起き上がれないまま、肩で息をした。

***

不自由とまでは言わないが、どちらかと言えば我慢することも多い家庭環境だった。

亡くなった母から貰った人受けの良い容姿に、父譲りの長身と長い手足。子供ながらに学んだ大人を喜ばせる人好きのする性格は、歳を重ねるごとにその巧妙さを増して、女子から向けられる圧倒的な好意は、中学2年のバレンタインに質量を持って積み上げられた。

「はよー」と声を掛けると、みんながおはようと返してくれる。

挨拶の仕込みを念入りに重ねるクラスメイト、(仮)に出来上がったグループに根を下ろそうと3割増しで楽しさを装う声、そわそわと落ち着きのない教室が、俺は好きだった。

誰が最初に自分に声を掛けてくるか。自分はただ名前を言って、あとは聞かれたことに答えるだけでいい。

それが当たり前の春の始まりのはずだった。



16歳の春、俺は初めて落ち着きのない教室の一部になった。



左斜め、2つ前の席に瀬尾の背中がある。濃い黒の襟足が、シャツの白と肌の白との境界線を曖昧にしている。

どうすればこの横顔を振り返らせることができるだろうか――。

その一点に、青春を捧げるつもりでこの高校に進学した。1年のクラス分け、神様は俺を見放した。だがそれでしょげて諦めるほど、この想いは弱くない。今まで以上に目立つように、思い通りにできるように1年掛けて立ち振る舞った。

2年のクラス分けに瀬尾の名前を見つけた時、考えるよりも早く体が動いた。踵を返して職員室に走る。1年生レギュラーの椅子は、この日この時の為に手に入れたと言っていい。普段はジャージの部活顧問も、始業式の日はスーツを着ていた。ルーズリーフに殴り書きした退部届を手渡すと何か言われた気がしたが、来た廊下を来る時よりも早く走った。

「早水駿。好きなのは肉料理全般とグミとラッドとバンプとデカい服。それとマンガ」

瀬尾は振り向きもしなかった。

「特技は歌うのと…」

「サッカーは?」と山田が梯子を渡してくれた。よくぞ言ったと心の中で握り拳を作り大きく山田に向けて突き出した。

「辞めた。さっき退部した」

「はぁ!?」と山田の大音量と共に教室中が騒ついている。

瀬尾が一瞥してくる。関心を持ったというよりは、周囲に合わせただけのようにも思えた。

「8年?か、そんくらいやって満足したし、他にやりたいことできたから」

やっと俺を見た――。

得体の知れないものを見るような、訝しむような視線に興奮した。ピアノの端に手を置いて小さな背を畳んでお辞儀をしてみせた瀬尾を見つけた夜と同じ興奮。

波紋が広がり続ける教室も、イジメを危惧して慌てふためく担任も、グラデーションされて輪郭のぼやけた背景にしか見えなかった。

自分を見据える瀬尾の姿だけがはっきりと映る。

邪魔なもの全て取っ払ったピアノの鍵盤のような、読めもしない記号と音符だらけの難解な譜面のような、濃い黒と薄い白で描かれた瀬尾のシルエットしか見えない。

「終しまいっ」と椅子にどっかりと腰を下ろす。

互いが互いを見続けているのに目が合う様子はなかった。

その後のことはよく覚えていない。記憶に残らないような些末な日常を、培ったコミュ力と愛想で乗り切り、始業式の日の短縮授業が終わるまでの間、止まらない焦燥感を抑え込むのに必死だった。

下校時間と共に瀬尾に声を掛けるつもりだったのに、この学校において、俺が部活を辞めるということは、思っていたよりも珍事であり、大事だった。クラスメイトに囲まれ、先輩が駆け付け、5分、10分と時間を取られてしまった。

逃げるようにして旧校舎に身を隠してやり過ごす。

誰かが書き込んだ悪戯、旧校舎西階段の魔法使いに、何度祈ったかわからない。



もしも願いが叶うなら――

愛してくれなくてもいい

その代わり――

俺以外の誰からも愛されないで

それも叶わないのなら――

誰一人、俺より瀬尾を愛さないで



旧校舎西階段を登った音楽室からは、新校舎側の音楽室が見える。

演奏の合間、下界を見下ろす天使のように、こちらを見ている気がしたこともあったけど、俺を見たという確信はなかった。

でも今日、ようやくこっちを向かせられた。

廊下側のドアが開く。

遠くても分かるくらいか細い四肢と真っ黒な髪。

音楽室に走った。

上階からピアノの音が降りてくる。

3階まで一息に駆け上がる。サッカーで馴らした体も、流石に悲鳴を上げた。

大きく深呼吸をして、制服の袖で滲んだ汗を拭う。気まぐれに音楽室を覗いたみたいに、何気なく、さり気ない声を心掛けた。

「何弾いてんの」

瀬尾の手がピタッと止まる。末広の二重がこちらを見留める。

今度は目が合った。

音が止まるのに合わせて、時間まで止まったみたいに、一瞬が、10秒も20秒も続いているような感覚だった。

「タイトルわかんない。なんか、有名な映画のやつ」

「瀬尾も好きなの?」

「ごめん、これしか知らないから」

「何で謝ってんだよ」

自惚れてもいいですか――。

瀬尾が自分に興味を持ったと思いたかった。興味を持ったから、この曲を選んだ。そう思いたかった。

「続けろよ。俺、聴いてるから」

斜め掛けしたスポーツバックを脱ぎ捨て、置きっぱなしにされた指揮台に腰を下ろす。両手を後ろに突いて、天井を仰ぎ見た。

弾いてくれるだろうか。

祈った。瀬尾の世界に自分が入り込む余地がありますように。

ピアノが聴こえる。止まったところの少し前に戻って、曲が始まった。

胸の鼓動が、ヘヴィメタルやゲームのバトルシーンみたいに早い。折角弾いてくれているのに、浸れる気がしない。泳いでしまう視線を、天井の掛けたタイルの一点に集中させる。メロディに乗せて、歌詞を読み上げてみると、ようやく心が穏やかになった。

「早水……?」

圧倒的な多幸感。イった後みたいに頭の中に火花が散って、少し喉の奥がイガラっぽいような感覚が残る。

曲が終わっていることも、瀬尾が自分を見ていることにも、しばらくの間気付けなかった。瀬尾の声に慌てて天井から視線を移すと、身じろぎ一つせずにいた首から頭へと血が巡ってクラクラした。

「悪い。お前、すげーな」

「言う程のもんじゃない」

「いや、すごいよ」

「だから、そんな大した……」

「俺がすごいって言うんだから、すごいんだよ」

どこから目線で物を言っているんだろうか。

瀬尾の口にグミを放り込んで、逃げろと声を上げると、瀬尾は後をついてきた。真面目なやつかと思っていたが、割と流されやすいやつだった。

「明日は」

「明日?」

「お前が好きな曲、聴かせて」

返事は聞かずに先に屋上を後にした。

足早に階段を降りながら、ブレザーのポケットに入れたイヤフォンを出して、耳に捩じ込む。そっと手のひらを耳に押し当てると、まだ掛けてもいないのに、聴こえた気がした。ピアノインストバージョンで。

それから毎日、放課後を音楽室で過ごした。

2人で、という感じはない。瀬尾の世界に毎日勝手に割り込んで、少しずつ自分の荷物を増やして、自分のテリトリーを広げて、居て当然のように振る舞った。

「何で毎日付き合ってくれんの」

嬉しかった。あの日、瀬尾の世界に居住権を得た。

俺はここに居ていい――?

「楽しいから」

もっと伝えたいことはたくさんあったのに、どう言葉を尽くしても伝えきれない気がした。それなら、伝わることだけを、簡潔に、間違いなく伝えようと思った。

「聴いてると、幸せな気持ちになる」

欲を掻いてはいけない。足るを知れ。

心がアラートを鳴らすのに、止められなかった。

瀬尾はすごいんだと、知らしめたかった。

その瀬尾の世界に自分は居るんだと言って回りたかった。

たまご焼きのたまごサンドが好き。

甘い飲み物はほんとは嫌い。

自己主張とか自己表現が苦手で、いつも気を張って生きてる。

俺だけの瀬尾が増えていく。

でも、結果的にストリートピアノは失敗だったと思う。

一つは、瀬尾を好奇の目に晒したこと。

もう一つは、瀬尾の世界が広がったこと。

瀬尾を傷つける好奇の目は、責任を持ってリカバリーしてみせた。確信はないが、自信はあった。人が集まる場所で、自分が望めば100点は無理でも80点くらいの成果は出せる。案の定、3年の嫌がらせは完全に潰した上で、学園祭の主役は俺と瀬尾になった。

俺は本物のクリエイターじゃない。一瞬の派手さ、高校生が青春を謳歌する姿、人受けの良い俺の顔と性格なら、瀬尾を木陰に隠すことくらいなら容易いと知っていた。

残る後悔は、やっと手に入れた特等席が、瀬尾の世界の広がりと一緒に、本当に特別なのか自信がなくなったこと。

こればかりはどうしようもない。瀬尾は天才なんだ。知ってしまえば誰もが手に入れたくなる。あの夜から覚めない恋煩いの渦に飲まれ続ける自分と同じように、誰もが放っておくことなどできなくなる。

もしも願いが叶うなら――。

立てた誓いも守りきれない、堪え性のない、欲深な自分を恨んだ。

「早水はさ、魔法使いなの?」

不意に掛けられた瀬尾の言葉に、心の中を見透かされたのかと思った。無駄なスペックと余裕ぶった振る舞いの奥にひた隠しにしている、瀬尾への劣情。

カッコ悪い俺を見破られたんじゃないかと、背筋が凍った。

「早水はすごい」

魔法でもなんでもない。正直アンチが消えようが消えまいがどっちでも良かった。むしろ、瀬尾の味方が俺しか存在しない世界になったら、どれだけ幸せか。

瀬尾の世界に俺しかいなければ、俺以外誰からも愛されないし、俺が一番瀬尾を好きでいられる。

愛されなくてもいい――。

「早水が好きだよ。早水は俺の憧れ。俺は早水みたいになれたらいいなって、ずっと思ってた」

俺の青春の全てを捧げてでも手に入れたかった世界は、どうしようもないくらい残酷だった。

月明かりに照らされた瀬尾は、いつにも増して白と白の境界が曖昧で、自発光と透明感で消えてしまうんじゃないかと思えた。

吸い込まれるように、俺は瀬尾にキスをした。

振り払われるでも、罵声を浴びせられるでもなく、瀬尾は「どうしたの?」とキスもセックスも、愛も恋も知らないちっちゃな子どもみたいに問い掛けてきた。

「瀬尾の好きは、俺のとは違う……」

 絞り出すような、か細い声。

 体育館のステージに声帯ごと忘れてきたみたいに掠れて聞こえる。

 俺の声か?

「俺は、高校3年間、もっと前から、ずっとお前が好きなのに、瀬尾の好きと、同じわけない」

言葉を紡ぐ度に、喉の奥が軋む。

言い終わらない内から、目頭が熱くて、あぁ、俺泣くんだ、と思った。

俺は、瀬尾から逃げ出した。

パタパタと塩ビ材の階段を蹴る音が遥か後方で聞こえた。

逃げていると言うより、どこかは知らないけれど、決められた場所に制限時間内に辿り着かないと、瀬尾との全部を失ってしまうような切迫感で、只管に走った。

どこ走ったかなんてほとんど覚えてない。

ハンバーガー屋は通った。

電車には乗った気がする。

流石にモールまでは行ってないと思うけど、どうしてか暗い吹き抜けにピアノを見た記憶がある。

「打ち上げか?遅過ぎるけど、まぁ学園祭だしな」

玄関先で少し怒りたそうな父親の声を聞いたところで我に返った。

「疲れたー」と心の底から声に出して伸びをして、シャワーを浴びて速攻でベッドに潜った。

我慢しきれずにしてしまった告白は、告白にはなれず、拒否られればいっそ無理矢理にでもとさえ思った最低のキスは、キスになれなかった。

週明け、ギクシャクした距離感も、どういうつもりだったのかと問い詰められることもなく、土日をスキップで飛ばして金曜の続きをループしているような1週間。

変わったことと言えば、瀬尾がいつもより少しだけ、笑う時の口角が高く、口数が多く、15%増しくらいで俺の隣にいる時間が長くなった。

そう思いたいだけかもしれないけど――。

放課後、真っ直ぐ音楽室に向かっていた足取りは、鞄を背負ったところで一度振り返って、窓際の俺を見る動作を挟むようになった。

駆け寄ってはいけない。

ループ世界の住人のように、「おぅ」と手を挙げてから、ゆっくりと席を立つ。

瀬尾が当たり前に認められてしまう遠くない将来、インタビューや回顧録、青春を語るあらゆる場面で、俺を思い出せばいい。俺以外、思い出す思い出もない青春になればいい。分厚い鉄板みたいな1ページになればいい。

重ければ重いほどいい。

瀬尾との毎日は楽しくて、嬉しくて、苦しくなる。

望みどおりに隣にいても、辛くなる。

思い描いたとおりに進むほど、息ができない。

練習で1時間走り通せても、気を張り続けるヒリつくような試合中は、息が浅くなる。吸い切れなかった酸素を求めて、また浅い息をする。

3年に上がってもクラスが同じだったことは素直に嬉しかった。一人でいることの多かった瀬尾が、友達の輪に入っている。このご時世の先生達からすれば、俺と瀬尾を離すメリットはないってことだろう。

あと1年、俺の息は続くのか。

夏休みには水族館にあるピアノを弾きに旅行をした。

秋には後夜祭のトリを飾り、名実共に主役になった。

毎週末、俺が瀬尾を連れ出して遊ぶ。

時々、瀬尾が俺に空いているかと聞いてくる。

「空けるよ」と返すと、多分返信を待っていた瀬尾の行きたい場所が直ぐに送られる。

楽譜を買うとか、春物のコートが欲しいとか、駅の向こうにコーヒーショップができたとか、誘われる度に期待が膨らむ。

学園祭が終わる頃には、運動部も文化部もみんな、5限までの授業を終えると足早に塾や図書館に向かうようになった。昼休みでさえ、読みもしない英単語カードを机の片隅に置いて弁当箱を開いている。

青春の消費期限が真後ろまで迫っている。

部活の手伝いもなくなったが、原ちゃんのお気に入り効果を前面に押し出し、部活までの30分、俺と瀬尾だけの音楽室はまだ続いていた。

「瀬尾、クリスマスは何してんの?」

「バッハ聴きに行く」

俺は?と出掛けた言葉を飲み込んで、

足るを知れ――。

自分が掛けた分の愛がそのまま返ってくると思ってはいけない。

瀬尾の好きと俺の好きはベクトルが違う。

まして瀬尾の場合、X、YどころかZ軸でズレている。

息が続かないまま走るのも限界が近い。

よく走った。

あとは、ゴールテープを切って、フェイドアウトするだけ。

息が苦しい。

いや、多分、胸だ。

瀬尾の世界の第2幕の登場人物。3幕以降の出番はないから。

エンドロールの名前順も、主演でもトメでもないから。

脚本家がどうやっても俺の他には隣に立つ人物を描けないように、瀬尾の人生の小さなケロイドみたいに残ればいい。

2年に代替わりした合唱部が筋トレを終えて部屋に入ってくると「お疲れ様。お邪魔しました」と足早に出て行く。

キラキラした視線を送られる瀬尾の背中は、何年後かの遠いステージを観るようで、耳たぶの裏がキュッと締め付けられるような鈍い痛みを覚えた。

今日も、階段を上がる。

今日で、最後の階段を上がる。

待ち遠しい思いで、上を向いて踏み締める階段と、狂おしい思いで、下を向いてさえ踏み外しそうな階段は、同じ段数には思えない。

走っているわけでもないのに空気が重い。

息が上がる。

「何弾いてんの」

長い睫毛が目元を覆う。ゆっくりと開かれて、末広の二重が俺に向けられる。

「Longing」

「いい曲。なんか、瀬尾っぽい」

「ほんと?ニューエイジってあんまり聴いたことなかったけど、いいなって思うようになった」

「変わったんだ?」

「早水のせいだよ」

右手だけの手遊びがBGMになる。

切ないような曲なのに、瀬尾はとても楽しそうで、ここではない場所に行ってしまうみたいで不安になる。

「Longingってどういう意味?」

連れ戻そうと声を張る。

告るだけ告って、全部終わりにしたいのに、チグハグな自分に嫌気がさす。

「あこがれ」

たった4文字で、人は希望を与えられる。

たった4文字で、人は希望を失える。

心が折れる音は、バキっでも、ガラガラでもなく、血が滲むまで爪を立てなきゃ涙を抑えられないくらい、繊細で美しいメロディーだった。

「……受験だし、更新休止のお知らせ出そうと思うんだけど、どう?」

「あ……そうか。そっか、受験か。俺もそれでいいよ」

伏し目になると、一層睫毛が長い。

少しでも淋しさを感じてくれればいい。

休止のまま自然消滅するチャンネルを、いつの間にか過去の人になる俺を、時々思い出せばいい。懐かしさでも、切なさでも、小さな痕を残せたらそれでいい。

「やっぱり、撮ってもいい?防音室なら、カメラ固定でできると思うんだ」

「撮って、どうすんの」

「気晴らしになるし、高校生活の思い出は、多い方がいいかなって」

思い出が欲しいんじゃない――。

思い出になりたいんだ――。

ただの友達で終わっては、本当に終わってしまうから、スピンオフが描かれるような第2幕の登場人物になりたいのに。

同窓会で「あぁ、久し振り。今何してるの?」なんて聞かれる有象無象になりたくないのに。

「わかった。じゃぁ、IDとパス送っとく」

「ありがと。早水ん家の鍵みたい」

スマホでログインして、「入れた」と嬉しそうな姿に、彼女に合鍵、と一瞬過ぎってしまう。

頭が痛い。

オートで再生される妄想を打ち消すために、別のことを想像する。下手すると別映像にまで瀬尾が出て来て、イタチごっこになる。



『休止のお知らせ。受験生なんでしばらくお休まします。※息抜きで無編集の動画は上がるかも』



瀬尾との苦楽ない混ぜにした日常が続く。



『勉強の合間に◯◯◯』



◯に曲名。テロップも色彩調整もない無編集の動画。

白くて、細くて、長い指が画面の中で鍵盤を駆ける。

予約投稿を掛けると、瀬尾は俺に「予約した」とだけLINEする。休止中だっていうのに、律儀に投稿がない日、「今日はおやすみ」って。

ここから毎週土曜日の朝10時まで、この動画は俺だけのもの。

子犬が小さなボールを追いかけてあちこち走り回るみたいな指先に、触れてみたくて手を伸ばす。

パチッと冬の火花が指先を走る。

中学の瀬尾と学園祭の夜の瀬尾の映像が置き換わる。もう止まらなかった。

金曜夜の充足感。瀬尾への罪悪感。土曜朝の背徳感。世界中への優越感。

カメラを止めようとこちらに近付く瀬尾に問い掛ける。

「お前には、わかんないよな。痛々しい思い出じゃないんだよ、俺がなりたいのは。瀬尾に似合うような、綺麗で、切なくて、輝いてるやつになりたい」

瀬尾は、こんな恋はきっとしない。

白と黒の世界で、残酷なほど綺麗な音を響かせるためだけに生きている。

画面の下端で、細い指先がバイバイと手を振った。