青空にふる ー旧校舎西階段の魔法使いー

動画の再生数が増えるに連れて、早水と俺がニコイチとして扱われる度合いも増えていった。

レッドカーペットを歩いているスーパースターは早水の他にはなく、自分はポールロープの外側から手を伸ばすファンAか、よくてマネージャーくらいの共同作業者でしかなかった。

元来、スクールカーストの外側に置かれ、腫れ物に触るように扱ってきたクラスメイトの態度は、堰を切ったように軟化して、見知らぬ友人を増やしていった。

「俺も彼女ほしいー」

「山田も旧校舎行ってこいよ」

今日何度目かの山田の言葉に、テンプレと化した合いの手が返される。謳歌することを止めたら、青春が終わってしまうかのように、高校生の日常は沈黙を嫌う。

手持ち花火の七色の閃光のようだ。パチパチと跳ね合って、鮮やかで目が眩む。

早水は割と静かに会話を待つことが多い。

線香花火のようだなと思い当たる。

「瀬尾は?」と振られて視線を上げた。

「何が?」

「かーのーじょ、いるの?」

「いないよ」

聞こえていなかった訳ではないが、自分がこの手の話題を振られるという思考回路が抜け落ちていた。

高校生が当たり前に送る日常に、自分が溶け込んでいる姿を未だに想像できていない。普通であることをあれほど意識して生きてきながら、線引きした外側に置いていたことを思い知る。

「モテそうな顔なのにな」

「話し掛けるなオーラ出てるからな、柔らかいバージョンの」

唾液が気管支の変なところに潜り込む。噎せてゴホゴホと咳を繰り返す。

他人との間に一定の距離を確保しようとしてきたことが、これ程周知の事実だとは思っていなかった。

「喋ったらモテそうな瀬尾くんと、黙ったらモテる早水のコンビだよね」

斜め前の女子グループから茶々が入る。

「好きな人いないのー?」

「俺?」

「どう考えても瀬尾のターンじゃん」

「いないよ」

「初恋は?」

「めっちゃ聞くじゃん。よくわかんない……多分したことない」

「おいおい、俺ら高校生だぞ?」

周りの視線が痛かった。

みんなが言う通り、高校二年の半ばまでには、恋焦がれるとか、言葉にならないとか、どうしようもなく好きだといった感情は、経験に裏打たれたものになっていることが大概なんだろう。

「も少し潤いある高校生活送れよー」

「でも恋したって、付き合ったって、良いことばっかじゃないじゃん。それに瀬尾くん、最近楽しそうだし」

木下さんは確か彼氏がいる。朝昼帰りと、河村さん達のグループの話題は、オシャレと恋愛と下校途中の寄り道で大半が占められていて、いつもキラキラしている。彼氏持ちの中でも大学生の彼氏がいる木下さんは、一際大人びて見えた。

大人びた彼女が、伏し目がちに助け舟を出してくれる。

誰かに差し出した手は、誰かを掬い上げたい一方で、誰かに引いてもらいたいこともある。

「彼氏と何かあった?」

河村さんの声に、大きな溜め息を吐いてから、あっけらこんとした声で「聞いてよー」と木下さんが返す。

「年上って余裕あっていいなって思ってたけど、こっちばっか好きみたいで最近辛くなって来た」

好きなものを好きになり過ぎると辛くなるのかと心の中の手帳に書き記すように反芻した。

山田や河村さん達が口々にフォローの言葉を並べ立てる。全員が言い終えると、自然と沈黙が俺の方に流れてくる。

さぁ、どうぞ、と言わんばかりの雰囲気が居た堪れない。

「あの、恋愛のことは、よくわからないけど、言語化できない感情は、まだ感情じゃないって言うから、量とか質の問題じゃなくて、認知できるかどうかの問題で、なんて言うか、多分、うん、木下さんは大丈夫だと思う」

怪訝な視線がやや痛い。伝わらないもどかしさから逃げてしまいたい。

「木下は好きを知ってるから、彼氏の好きを見落とさない。だから大丈夫、だってさ」

早水の声が聴こえる。斜め後ろから波形は響いてくるのに、上からストンと降ってくるみたいに。

「そう言うこと?瀬尾くんそれっぽいこと言えるんじゃん。ちょっと好きかも」

「瀬尾に筋肉あったら私堕ちてかも」

「お前のタイプ、ボディビルダーじゃん。絶対瀬尾には無理無理。ってかマッチョの瀬尾は何かヤダわ」

早水が輪に入って、空気が変わった。

苦手な空気も、慣れてきた空気も、どんな場所でも息ができる。

女の子の表情は、千変万化。一日の内に、花が舞い飛んで、葉が枯れ落ちる。

ずっと足踏みして前に進めず、ヒビ割れる程に固く渇き切った自分の高校生活とはかくも異なる。

放課後まで続いた恋バナの波は、秋冬と続いていく、行事の群れに浮足だった青春の焦りなのかもしれない。

――俺とセットで扱われて、早水は嫌ではないのだろうか。

友達かどうかで悩んでいる自分と、恋に恋する山田や木下さんとでは、青春のレベルが違い過ぎる。まして早水となど、比べるべくもない……。

ニコイチとされて、片方が誇らしく思っているということは、即ちもう一方にとっては低く見られたと感じるか、良くてボランティア精神でしかないことの、この上ない証左だ。

早水の横顔を見ようとして、やめた。

***

5限目のチャイムから30分、この時間だけは音楽室に早水と俺の2人しかいない。

全国常連の合唱部ともなれば、発声より先に筋トレとストレッチ、軽いジョギングも欠かさない。隔週で譜読みをする日は更に30分延長される。

主旋律をハミングしながら、スマホを眺めたり、知っている曲だと自然と歌い出したり、早水は当たり前のようにそこにいる。

「瀬尾はピアニストになんの?」

「どうだろ。仕事として成り立つ人なんて稀だし。考えたことないな」

天才少年と呼ばれても、コンクールで入賞しても、ピアニストになりたいと思ったことは確かになかった。漠然とこのまま弾き続けていればそうなるんだろうかと思った程度の記憶しかない。

「じゃぁなんでそんなに上手いんだよ」

早水の言葉選びが好きだ。上手いのに勿体ない、なんで弾くのか、その一歩先で、褒めて、肯定して、諭してくれる。

――天才だから。

尊大な心が肥大する。

――両親が望んだから。

自己防衛と卑怯者な心。

「聴いてくれる人が、いるから」

あの頃、上手にピアノが弾けたのは、両親に聴いて貰いたかったから。

今、上手にピアノが弾けているのなら、それは早水が聴いてくれるから。

「それ一生上手いってことじゃん。それもうピアニストで良くね?」

「そうなのかな……」

「ピアニストってさ、面白いよな。何万曲ってある中から、これとこれ弾きます、来てね、って。バンドとかアイドルはさ、最新曲とかアルバムとかでまぁ大体何やるかは知ってるけど、聴いたことない曲とか、タイトルじゃ全然わかんない曲とかあるだろ」

「勉強してから来る人もいるよ。奏者にも十八番はあるし。ショパンが好き、ショスタコーヴィチが好きだからってパターンも。でも確かに言われてみると、押し付けがましい部分もあるかもしれない」

「どんな曲弾いて上げてたんだ?お父さん、お母さんとか、友達とか」

不思議な気持ちになった。

理性と本能が乖離する。

話したくない話題のはずが、息をするように言葉が溢れてくる。

話したくないのと話したいの、どっちが理性で、どっちが本能かも曖昧だ。

「母さんはクラシック。でも結構選曲が渋くて、モーツァルトとかブラームスも好きだったけど、瀧廉太郎の『憾み』って曲が一番好きだった」

「ウラミ?めちゃくちゃ暗そうだな。絶対聴いたことない」

「明るくはないかな。でも、恨み辛みのウラミじゃなくて、りっしんべんに、感情のカンで、『憾み』。もっと生きたかった、もっと作曲したかった、もっと演奏したかった、なんて恵まれた人生だったんだろう、って曲」

「同じ発音なのに、こっちは成仏してそうだな」

「成仏してそうか……」

早水らしいと思った。

考えてみれば、憾みも8分の6拍子だ。

臨終の際の、暗く重厚な和音も、連なる内に耳に優しく、最後のオクターブが駆け上がって、駆け降りる頃には、あぁ良かった、と、早水なら思うんだろう。

「お父さんは?なんか、柔らかい感じの人だったよな」

「そうかな。まぁ、厳しいって感じではないけど。あ、不良に憧れてるよ」

「何だそれ?」

「父さん、ヤンキー漫画とかアクション映画が好きなんだけど、本人は絵に描いたような真面目人間だから。仕事が忙しい人だけど、金曜だけは早く帰って来て、ピアノのリクエストするんだ。母さんと違ってポップスとかロック。しかも弾いてる横で歌うの」

「お父さん面白いな。何歌うの?」

指先が懐かしい和音を優しく撫でる。

クラシックとも、アニソンやボカロとも違う朴訥とした音。歌う代わりに右手がメロディを刻む。

「知ってる?絶頂期に亡くなったシンガーソングライターで……」

早水が歌っている。父さんが歌う高音がハズレたのとは違う。原曲の感情を揺さ振るような激しい歌声ではないけれど、澄んだ空に歌い上げるような声。

「知ってる。うちの親父も好き。15歳より前から聴いてたって何故か自慢してる。この曲、タイトルなんだっけ?」

「勿忘草」

「それだ!」

上半身のバネで早水が立ち上がる。

アカペラで続きを歌い始めると、俺に向かって弾けと両手で合図を送ってきた。従うことが当たり前のように、自然と両手が鍵盤に向かう。視線は早水に向け、右足でリズムを刻んだ。

2小節待ってから、早水のテンポに合わせて伴奏すると、ピアノから少し離れて楽しげに、俺だけにワンマンショーを見せてくれた。

早水の視線の先にはいつも青空が広がっている。それなら今、俺は、その空の一部になることができているだろうか。

――晴れ渡る空に、小さな雲があっても、神様どうかお許しください。

「あ、瀬尾のカーテンじゃん」

歌い終えて満足げにスマホで原曲の動画を探していたはずの早水から、思い掛けない言葉を投げられた。

「ほら、これ、勿忘草だって」

床からよじ登るようにピアノに手を掛けて差し出してきたスマホの画面には、鮮やかな青色の小さな花が映っていた。

8月のあの暑い日から、朝、目が覚めることを楽しみにさせてくれる色。

「初めて見た。こういう花なんだ……」

「解説に依りますと、3月から6月にかけて高原で咲く。んじゃぁ観られるの大分先だなぁ。花、あー……」

スマホの向こう側で、早水の視線が少し下がったように見えた。覗き込もうとしたところで、画面をフリックする指に釣られてしまう。垣間見た表情は少し曇っていたように思えた。

「何?」

「あー、いや、えっと、名前の由来は、騎士が恋人に贈ろうとしたところ、採り損ねて事故で死んでしまう間際に」

「私を忘れないでって言い残して川岸に投げたんだろ?」

「何だ、知ってたか」

意外とセンチメンタルなところがあるんだなと思った。感受性が豊かだから、昔の人の感情にまで聡いんだろう。

言葉の意味や由来を理解しても、経験に基づかなければ、それは感情ではない。

カプリチオーソ、気まぐれに。

――放課後の早水のように。

ジョコーソ、おどけて。

――休み時間の早水のように。

今日、覚えたのは、カンタービレ、歌うように。

「早水、歌ったら?動画、次の」

「はぁ?お前、バカ言うな。何の罰ゲームだよ」

「俺より早水の方が向いてると思うけど、音楽」

「天才とカラオケ上手いねレベルを一緒にすんな。場違い過ぎてネタにもなんないだろ」

それでも早水の歌をまだ聴きたくて、ラッドやバンプの曲を勝手に弾くといつの間にか鼻歌が始まり、サビに入る頃にはまた気持ちよさそうに歌ってくれた。

合唱部が準備運動を終えて音楽室に入って来ると、早水は慣れた様子で隅っこに椅子を置いて口遊むこともなく、課題曲の練習に耳を傾けた。

通しで歌った後、早水が拍手を送ると部員は勿論、顧問の先生も達成感を滲ませる。アンサンブルが上手く行っていないと、早水は決して拍手は送らなかったから、一種のバロメータになっている。

帰り道、駅前のファミレスに立ち寄る。

いつからか、6時前に合唱部が終わる日は、一緒に夕飯を食べるのが当たり前になった。この時間に帰っても家族はまだ帰っていない。自分に至っては時間に関わらず、どこかで済ますしかないから、早水が付き合ってくれることはありがたかった。

同じハンバーグセットでも、300グラム、ライス大盛り。自分の倍近い量が、淡々と口の中に吸い込まれていく様を見ているのは爽快だった。食べ切れない分を、フォークに刺して差し出してみると、物の見事に食い付いてくる。

「ほんとよく食うよな」

「はいしゃらひいんらよ」

「代謝がいいんだな」

両手で大きな丸が作られる。当たったらしい。

4人掛けのテーブルに向かい合って座り、残りのスペースにはスケジュール帳とタブレットが置かれている。

次の撮影場所や曲の候補を話し合う。

「学祭実行委員がさ、あ、その内一人は河村な。後夜祭で演奏しないかって言ってるけど、どうする?」

「あれって全部バンドだろ?ピアノ弾かれてもノリが合わないんじゃないの」

「そこは俺たち、人気急上昇中の新人ユーチューバーだから」

「後夜祭だと俺しか割食わないだろ」

「無理にはいいけど、俺、カホンくらいなら叩くよ」

「初耳だな。ってか歌えばいいじゃん」

「編集だけだとあれかなと思って、ちょっと練習した。ドラムの方が派手だし色々できっけど、主役はやっぱ瀬尾だから」

――後夜祭には場違いでも、早水の世界で主役になれるのなら。

「……早水は?出て欲しいの?」

「お、出て欲しい!是非是非」

サルの玩具のように両肩から両肘、両手と均等に手を叩く。

困り顔を作って、既に決まっていた答えを口にする。

「いいよ。ダダ滑ったら早水が責任取れよ」

「おっけー。撮影と貢ぎ物を条件に河村に返事しとく」

食べ終えて駅に向かうと、昼間晴れ渡っていた空は、ビルの合間からも星が覗き、月の輪郭は綺麗な放物線を描き出している。

スーパースターの世界では、端役の場違いさも経験値不足も、望月の欠けたること。

俺は早水のようになりたい。

***

教室の壁際に、段ボールとベニヤ板の森が茂っている。隣のクラスではおどろおどろしい形相の妖怪たちが肩を寄せ合って床に寝かされていた。

変わり映えしない授業の方が異質であるように、校舎のそこかしこが浮き足立っている。

青春とは縁遠かった1年の時は、みんなが感じているのとは違う落ち着かなさを自分だけが感じて、座りが悪かった。隠れキリシタンのように広い校舎のどこにも居場所がなかった記憶が、口の中に苦いものを広げた。

今年になっても、押し寄せる青春の波に乗って無闇にハシャいで見せるようなことはなかったけれど、確かに自分の居場所が教室にある。

非協力的だと思われまいとやるべきことを必死で探すよりも早く、やるべきことが降ってくる。

何やればいい?と早水が教室の真ん中に打ち上げると、

ペンキでこげ茶色作って。

お前らスーパー行って段ボール貰ってきて。

これ2人で半分に畳んで折り目で切って。

あれよあれよと仕事が与えられる。

全体像はイマイチ見えていなくても、言われるがままに手伝って、日が沈む頃になると、あれはカフェのカップボードだったのかと感心した。

部活組は2日に1回、自由参加のステージ組は3日に1回、クラスの手伝いはお休み。土曜日は班ごとに集まって作業が続いた。

早水との後夜祭の打ち合わせは、1日30分。いつもの合唱部と、3年の希望で「海の上のピアニスト」を1曲演奏することになった吹奏楽部の練習までの時間。

「練習大変じゃない?」

「大変だよ。誰かが結局全部オファー受けて来るから」

「わりぃわりぃ。後夜祭出るってなったら原ちゃんから吹奏楽部でピアニスト探してるって言われたから、うちの瀬尾は如何ですかって、つい」

「原先生、絶対わざと早水の方に言ったよ。合唱部と吹奏楽部、転換必要なのに間に1組しかいないもん」

当日の瀬尾先生のスケジュールですが、と早水が何も書かれていない生徒手帳をめくりながら茶化してくる。

合唱部2曲、吹奏楽部1曲、後夜祭に2曲。練習だけじゃなく、当日はクラスのカフェ営業とステージのリハと本番がある。

――どうしてこうなった。

他の誰より、過密な学園祭を迎えようとしている。自分から何をするわけでもなく、早水の隣にいるだけで、思い描いていたよりも100倍、1000倍、高校生らしい高校生になっていく。

毎週土曜日、早水は学園祭の準備の帰りに内に来るようになった。

勿忘草の色だと言ったカーテンが張られた自室で、ガラスのローテーブルに向かい合いながら、後夜祭の曲や演出を話す。実際は15分もしない内に脱線して、雑談ばかりに花が咲いて、休み時間のおしゃべりを再放送してしまう。

これじゃダメだと2人で防音室で練習することにしてみても、ドラマだ、アニソンだと候補を挙げる内に早水が歌い出して収拾が付かなくなる。

楽しいばかりが重なっていく中、穏やかだった水面に石が投げ込まれた。

「何で2年がトリなんだ」と3年の出演者からクレームが入り、河村さんが謝りに来た。

「出られるだけで十分だから。それに、そもそもトリって、俺たち聞いてなかったから、順番は全然」

「瀬尾の後に出ようって度胸に恐れ入るわ」

珍しくぶっきらぼうに言い捨てる早水を見ていると、サッカー部でも1年レギュラーというのはやっぱり揉めたんだろうかと勘繰ってしまう。

「ほんとごめん。でも出演時間は15分のまま!絶対にするから」

「河村は悪くねぇじゃん。先輩後輩とかそういう……」

「ちょっと早水黙って。え、15分あるの?2曲しか考えてなかったんだけど」

河村さんがタイムスケジュールを見せながら、ラスト2組は15分ずつ、曲目は2曲か3曲、MCで繋いでもいいのだと、繰り返しになりますがと言わんばかりに捲し立てるように説明すると、嵐のように次の打ち合わせへと去って行った。

何曲か繋げてメドレーにしようかと思案する目端に、見慣れない不機嫌な早水が散らついて、視線を奪われる。

今日の早水はどこか幼い。ウエストサイドストーリーのメイキングで見た不機嫌なバーンスタインくらい、誰から構わず八つ当たりするみたいに子ども染みていて、でもそれがまた格別にスーパースターらしく見えた。

クレーマーの3年生もいい仕事をしてくれた。

「予定より1曲増えたんだから、早水が選んでよ。しゃべりで繋いでくれてもいいし」

眉根の幅が広がる。への字を更に歪に曲げた口角は、いつものように引き上がって、揚々と声を上げた。

「よし!じゃぁ曲考えるぞ!ぜってぇ3年潰す。瀬尾の本気思い知れ」

「結局俺かよ。早水も出たらいいのに」

「いい。俺は一番良いとこから観る仕事がある」

「撮るの?」

「撮る。けど、それはまぁ河村に頼んである」

客席にいるのだろうかと心に靄がかかる。

アイドルやミュージシャンのライブとは違う。奏者から見える客席は、確かに人がいるとわかるのに、降り注ぐ光が広く濃い影を作る。子どもの頃、客席にいる両親だけが、自発光で燦々と輝いて、そこにだけ音が届けばいいと心が軽くなった。

黄昏より深い影の中、俺は早水を見つけられるだろうか。

あの日のガラコンの風景が、スッと広がる。2人を見つけられなかった客席。誰も彼も目元を影が覆い隠して、口元だけは微笑みを讃えている。届けたい人に届かない音楽の途方もない遼遠さに息ができなかった。

「袖から特等席で観てるよ」

暗転した中、不意に聴こえたチューニング音だけでファンの五感全てをステージに持っていくみたいに、早水が言った。

「……袖は特等席って言わないだろ」

「いいんだよ。聴くんじゃなくて、観るんだ」

小さい頃、もらい損ねた言葉を今になってまた俺に与えてくれる。

俺のスーパースター。

稀代のマエストロ、ヒーロー戦隊のレッド、匿名の天才画家、古典芸能の革命児。

この並びに『早水駿』はある。

「仕上げ切れなかったら、MCでよろしく、スーパースター」

「スターは瀬尾だろ」

「早水のチャンネルだろ。主演は早水、俺は助演」

「それならエンドロールは主演の俺で始まって、瀬尾がトメだな」

2人しかいないのに、と声が揃うと、張り合うみたいに大声で笑った。

「出演が俺、瀬尾の順で、脚本、演出、あと編集、監督、プロデュースが俺……」

「それだと俺が楽みたいに聞こえる不思議は何なんだよ」

「多忙な俺は腹減ったー。帰り何食う?昨日バーガーだったし、今日はラーメンかなー。ファミレスでもいいけど」

「麺なら、うどんがいいな」

「……うどん?」

夕飯のメニューに唸っていた早水がはたと動きを止めて聞き返した。

うどんを知らないことはないだろうから、気分ではなかったか、あるいは。

「駅ビルに入ってる、チェーンの、天ぷらとかトッピングできるやつ」

「おぅ、いいな。いい、めっちゃいい。大盛りでも50円しか変わんないし」

やっぱり渋い蕎麦屋みたいなのを想像したんだろう。チェーン店やファストフードを食べていると、そういうの食べるんだねと何度も言われてきた。

大盛りとトッピングに惹かれたのか、早水は満足そうに「うどんかぁ」と繰り返しながら駅まで歩いた。

大盛りの冷やしぶっかけに、天ぷら3つとお稲荷さん1つ。吸い込まれていくみたいに口の中に消えていくのは、やはり爽快だった。

帰り道まで「うどんかぁ」と口にする早水に、明日もここにするかと聞くと、「明日は違うとこ選んで」と目尻を下げてヘラヘラと笑った。

改札を入って、互いのホームに分かれると「また明日!」と大きな声が後ろから飛んできた。眉を顰める疲れたサラリーマンや、微笑ましそうに口元を押さえるおばさま方、大声の主の顔を見てコソコソと戯れ合う女の子。行き交う人混みで声を返す勇気はない。代わりに手を掲げて左右に振った。

天高く翳したつもりでも、きっと顔の高さ。もしかしたら肩口くらいで小刻みに振っただけかもしれないが、返ってきた手振りは側転するくらい大きくて、恥ずかしさが3割、嬉しさが6割、残り1割を早水の隣にいることの誇らしさが占めていた。

家に帰ったら、寝る前に1曲弾こう。

――Longing

***

翌週に投稿した動画はいつもと同じ調子で再生数を伸ばしていった。いつもと違ったのは、少しだけ荒れたコメント欄。

日常にYouTubeが組み込まれている人達にはよくある展開で、俺にとっても、出る杭は打たれるものだと知っているから、多少荒れようとも有名税だと思えたはずだった。匿名コメントなら何とでも言える。

『2位のくせに』

デイリーランキングの話じゃない。

俺の話だ。

1位を獲れなかった悔しさは、微塵もない。

2位を獲ったという嬉しさも、同様になかった。

コンクールに参加することも、何位になるかも、当時の俺にとっては手段であって、目的はどれだけ褒めてもらえるか。

『頑張ったな』

『偉いな』

『上手だったよ』

そう言って撫でてくれる手だけが欲しかった。

後悔があるとすれば、ガラコンで倒れたことであって、2位だったことではない。もし無事に終えていたなら、1位なら、もっと褒められただろうかと悔しがる未来があったのかもしれないけれど。

子どもに無理をさせたという自責の念が、両親を捕らえて、俺を撫でてくれる柔らかな手の温もりを奪った。

「匿名の皆さんは、批判の方向性が検討外れなんだよ……」

月曜の朝はただでさえ気鬱なのに、今日は雨まで降っている。スマホをポケットに仕舞う。

玄関で傘を取り、誰もいないリビングに向かって「行ってきます」と声を掛ける。

外に出ると、思っていたよりも雨は弱く、雨だれの音がポツポツと地面を跳ねていた。

繰り返す雨音をラのフラットに置き換えたショパンは、やはり天才だ。

傘を開くと、爽やかな青色が広がる。味気ない男物の傘には珍しく、表と裏で色味が違っていて気に入っている。

沈みがちな雨の日も、教室のスーパースターに会えば、いつもの平凡で特別な日常に戻る。

それまでの通学時間、傘の内側に広がる小さな青色で気持ちを繋いでおく。

週末には学園祭。

批判も恐らく今週いっぱい。

匿名で書かれていても内容から誰が、もしくは何の目的で書いたくらいは想像がつく。

青空に浮かぶのは薄く白い雲でいい。

濃いグレーの、いかにもに俄か雨を連れてきそうな分厚い雲は要らない。

いつもの平凡で特別な日常は続く。

学園祭の当日は朝7時半集合。いつもより1時間早い。

今日はよく晴れている。邪魔な雲もない。

テキストもノートも要らない日。軽い鞄に打ち上げ用にお菓子ばかり詰め込んだクラスメイトに対し、念のためと詰め込んだ楽譜がいつもより3割増で鞄を重くしている。

「それじゃ、A、B、C班はローテーション確認してもらって、順次休憩取ってください。部活とステージ組はそれぞれ入れる時間で接客中心に入ってください」

委員長のよく通る声で1日が始まる。

開場から1時間はクラスの手伝い。コスプレするわけでもなく、制服のままのカフェ営業は「外部の人って制服見たいんじゃね?」の早水の提案に、瞬時に銭勘定をした河村さんの鶴の一声であっという間に決まった。

衣装の代わりに内装とメニューに予算を回した結果、割と見栄えのするそれっぽいものが出来上がった。

慣れない愛想笑いに少し疲労感を覚えつつ、合唱とブラバンのリハのために体育館に向かう。楽譜を3冊、鞄から取り出してセットリスト順に並べ替えていると、横から早水の顔が覗いた。

「サボり?」

「ちげーよ。リハ前の激励だわ。まだ時間あるなら何か飲んでけよ。俺、コーラ」

「自分も飲むのかよ。俺も……あ、やっぱコーヒー、冷たいの」

「コーヒーな」

落書きが施された紙コップと一緒に、ガムシロとミルクが添えられる。開けずにブラックのまま口にすると、自分を見ている早水に気がつく。

「何?」

「ガムシロ使わねぇの?にげーじゃん」

「飲み物が甘いの、好きじゃない」

「そうなの?え、あー、そうかそうか。コーヒーか」

繰り返されるのを怪訝に思って、何だよ、と聞いてみても、大人だなとはぐらかされたまま、早水は手伝いに戻って行った。

ガムシロとミルクのポーションを指先で弄びながら、譜面に目を通す。

入賞した合唱コンの課題曲とは別に、3年生が歌う。10月の結果が、先輩たちの青春をひと月長くした。練習でも垣間見る潤んだ瞳が、青春の1ページの角に指を掛けた寂しさが滲んで切ない。

大人が書いた歌詞は、随分先の未来から物を言い、まだ君たちにはわからないだろうけど、と前置きする。

50年生きた人の3年間と、まだ18年しか生きていない先輩たちの3年間では分母が違う。『まだ』わからないのではなく、そもそも『違う』んだろう。

それがどんなか、わかりかけてすらいない。

来年にはそうなれるんだろうか。

グラウンドで汗を掻くのも、見事に揃った和声も、足元から震えるような管楽器の音色も、ひたすら青空ばかり追い求める高校生活も、青春であっていいはずだ。

リハに向かうため、カップから手を離すと「いってらっしゃい」と綺麗な走り書きの文字が目に入った。

捨てるのが勿体なくて、手近にあった付箋に、瀬尾と名前を書いて隅に置いた。

「行ってきます」

いい演奏ができそうだと思った。

体育館に近付くに連れて、ブォーというユーフォニウムの音が響いてくる。鉄骨でできた蒲鉾状の建物全体が大きなジュークボックスのように音を奏でている。

左右中央と演台が並べられたステージで本番と変わらない伸びやかな合唱が披露される。裏方や実行委員の人たちが大きな拍手を送る。手応えを感じているみんなの顔は晴れやかだった。

吹奏楽の軽快な出だしは、作業中の人たちの手を止める。自然と手や足がリズムを刻み、体育館の外でも足を止める人が増えた様子だった。

リハを終えてクラスに戻ると、前室に置いておいたはずの紙コップは既になかった。

「ただのゴミだもんな……」

自嘲気味に呟いて鞄を置くと、紙コップがあった場所に1枚、黄色の紙切れを見つけた。

『コーヒー1杯無料』の券に「おかえり。飲んだら至急ヘルプ」と殴り書きで書かれていた。

相当に忙しいらしい。コーヒーを飲んでいる暇はなさそうだ。

無料券を折れ曲がらないように生徒手帳に挟んで大事にしまい、教室へと向かった。

2時間ぶっ通しで働いて、またステージへ向かい、夕方に教室に戻る。

他のクラスを見て回ったり、早水と喋る時間なんて全くなかったけれど、教室に戻る度に一番に見つけて手を振ってくれる。ステージの時間になると、合唱を聴きに来るようには見えないグループが、ピアノの屋根越しにも直ぐに見つけられる場所に陣取っていた。

一曲一曲、演奏が終わる度に大きな拍手が贈られる。

袖に履けると肩を組んで、抱き合って、泣き合っていた。

青春だなと他人事のように感じてしまう自分が、少し憎らしい。もう少し、感傷の切れ端を分けてもらいたかったが、転換が終わり、またステージに戻された。

しんみりとした空気を一気に吹き飛ばすサクソフォンの音。貰い涙を溜めたままの客席が大いに沸いた。体育館の天井を突き破って広がる音の波紋のように、体育館を囲んで人の輪が出来ていた。

音に乗って学園祭の喧騒も一緒に、どこか遠くに飛んで行ってしまったみたいに、達成感と喪失感をない混ぜにして、みんなの背や表情に晴れやかな哀愁を漂わせている。

学園祭初心者の俺から言わせれば、校舎のそこかしこに散らばった銀テープやカラフルな紙片は、青春を彩るラメ入りのグロスのようで、本屋のレジ横で見る青文字の雑誌くらい、近くて遠い華やかな世界だった。

「月曜日、授業できるくらいでいいからなー」と担任の声も幾分か感傷に絆されている。

「おーつかれ」と真後ろから声がすると同時に、ズンと背中に重いものが覆い被さる。

最初に早水が抱き付いて、更に左右後ろと山田達が伸し掛かる。

「潰れる!潰れるっ!」

押し返そうと後ろに手をやって、誰のか分からない肩を叩いても誰も離れようとはせず、壊れたスピーカーみたいに好き勝手に今日の感想が溢れ出した。

「瀬尾はやっぱ……」

背中を覆う早水の声が一番近くで聞こえてこそばゆい。きっと褒めてくれたんだろう言葉は、くすぐったさと周りの騒がしさで上手く聞き取れず、耳元を通り過ぎて宙に消えた。

「後夜祭だよー」

女子の声が遠くから聞こえる。

漸く解放された刹那、「ヤバい、急げ」と早水に二の腕を引かれてよろめきながら、3度目の体育館へと連行された。遠のく教室から、声援が追い掛けてくると、今になって自分も青春の1ページに写っているのだと実感することができた。

それに反して、後夜祭の出演者控え室の空気は重く、刺々しかった。トリを譲っても不満があるのが見てとれる3年生は挨拶をしてもシカトを決め込んでいた。唯一サッカー部の元部長だけは早水と俺に話し掛けてくれた。

だが、それもまた気に食わなかったのだろう。

「出ないやつまでここ来てんじゃねぇよ」

宙に吐き捨てるように投げられた言葉は、放物線を描いて俺たちに直撃した。眉間に濃い皺を寄せ、今にも喧嘩を買ってしまいそうな早水を、先輩が宥め、肩を押してグッと席に留めてくれる。

「早水、カメラの準備あるだろ?河村さんとも最終チェックしてきて」

「ここにお前置いていけないだろ」

「先輩の隣に居させてもらうから。いいですか?」

「おぅ。早水、お前は問題起こしそうだからさっさと準備してこい」

「俺は悪く……」

「悪くないけど、それでも、だ」

大丈夫だからと先輩が俺の肩に手を添える。それでも一層眉から目元の彫りを深くする早水を、急かすように手で祓うと、渋面を作ったまま鼻息荒く唸り声を上げ、体重の倍はある足音を立てて出て行った。

ドアの向こうに消える背中を見送ると、自分で促したことなど忘れて、控室に捨て置かれたような寂寥感を覚えてしまう。

一組、また一組と出番が来る。

重苦しい空気を嫌厭してか、出番が終わってから控室に戻る人は少なく、戻っても荷物を取ると早々に出て行ってしまった。

例の3年がトリ、その前が俺たち、当然のことながら、早水の先輩は俺より前に出番が来て、控室を出て行ってしまう。最後まで心配して、ちょっかい出すなよと向こうに釘を刺していってくれる姿は、爽やかでヒーロー然としていて、どこか早水に似た雰囲気が垣間見えた。この先輩といざこざがあって部活を辞めたようには思えなかった。多分他に何か理由があったのだろうと俺は気にも留めなかった。

「早水の小遣い稼ぎに利用されて可哀想にな」

先輩の演奏に耳を傾ける間もなく、せせら笑いに巻き込まれる。

「あれだけ再生数あれば結構稼いでんだろ?お前の取り分いくらよ。出てんのお前だけなのに半々か?」

練習の片手間に煽っているつもりなんだろう。組んだ足の上で続けられる速弾きは、ピッチに均整がない。カプリチオーソとは違う。熱狂にバイブス上がったギタリストのソロとも違う。

煽りの片手間にギターを弾いている。

――早水はきっとこれに怒ったんだ。

「先輩は、何のために楽器弾いてるんですか」

「はぁ?」

「俺は褒められたくて弾いてます。趣味でも、仕事でも、別に何でもいい」

「それでいいとかお前、キモいな。じゃぁ全部あいつがガメてんのかよ」

「早水は、そんなことしない。収益化もしてない。稼ぎたいだけなら、俺を巻き込まなくても成功してる」

――だって早水だから。

「煽るのに必死過ぎて、さっきから聴くに堪えませんよ、それ。ちゃんとやってください、トリなんですから」

パイプ椅子に置き去りにされたピックを掴んで親指で弾く。

部屋から空気がなくなったみたいに息ができない。

空気抵抗を失くしたピックは真っ直ぐ飛んで、3年の胸元に当たって落ちた。

乾いた小さな音が立って、空気がちゃんとあったことを知る。

視線が床のピックに向けられている間に、逃げるように控室を出る。こんなんでちゃんと演奏が出来るのかと心配になるくらい、指先が痺れている。

指先を抱え込むように握り拳を作ると、震えているんだと漸く気付いた。

ステージ袖まで早歩きを続けると、自分よりも落ち着かない様子の早水の姿が目に飛び込んできた。

「大丈夫だったか?」と慌てふためき、肩を揺さぶられると、自ずから震えは止まりスッと平静さが戻ってくる。

「ちょっと、かましてきた……心拍数が、ヤバい……」

「はぁ?え?」

16ビートで心臓が鳴る。

大きく息を吸って、胸の鼓動を無視して息を吐く。

背筋を伸ばして、譜面を手に真っ直ぐにピアノに向かって歩き出す。

リサイタルやコンクールと違って舞台のセンターにないから、歩く距離が少し長い。

何年振りだろう。

昔を思い出すように、ピアノの端に手を置いて、一緒に礼をした。

一斉に大きな拍手が送られる。

同時にダンっと鈍い音がして、視界が真っ暗になる。

キャッという女子の声と、停電?という声を皮切りに体育館がガヤガヤと騒ぎ出す。

アンプやシンセを使ってもヒューズが飛ばなかった体育館。何があったかは察しが付いた。

早水を見つけようと袖の方を向いても、暗幕の張られた体育館は夜よりも深く、自分がどこに立っているのかさえわからなくなる。左手が触れるピアノだけが、支えだった。

スマホの光で薄ぼんやりと映し出された客席に並ぶ顔は余計に不安を駆り立てる。

暗闇の中、息が苦しい。

黒に黒を重ねるように、意識を暗転してしまいそうになる。

這うようにしてピアノの椅子に戻る。

走る靴音と擦れた暗幕から埃っぽい香りが漂ってすぐ、ふっと目元を温かいものが覆う。

「瀬尾、弾け」

早水の手。

この暗がりの中、どうやって来たのかはわからない。

それでも俺を見つけてくれた。

「暗くない。俺が目隠ししてるだけ」

背中に感じる光は、確かに俺を照らしてくれる。

気持ちは急速に安寧を取り戻して、指先で見えない鍵盤を、オクターブ分撫でる。

刹那、瞼の裏には白と黒の八十八鍵と、何をするでもなく聴いている早水の横顔が浮かぶ。

3曲のセットリスト。

1曲目は、モールで弾いた初めてのストリートピアノ、きらきら星のアレンジ。

「行け!」

ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ……。

誰でも聴いたことのある音階に客席も実行委員も先生も、ピタッと音を止めた。

習いたての子どもの発表会みたいな単音から、指を増やし、装飾を増やし、テンポを上げ、変調する。

ワンフレーズずつ、曲調を変える度に拍手や指笛が暗闇の中から送られた。

弾き終えて嘆息する。

覆われた手の隙間から、薄らと光が射し込む。

子どもの頃、ぐっすり眠ることができた頃、目覚ましよりも早く起きられた時の、カーテンから射し込む朝日のよう柔らかな光だった。

昂揚感と幸福感に微睡みかけたところでハッと我に返って頭を動かすと、後ろにいるはずの早水の声が前と後ろ、もっと遠くから聞こえた。

「どうだ!瀬尾すごいだろ!」

早水が煽ると、また大きな拍手と指笛が鳴った。手が離されたところで、覆っていたのは片手だったと知った。

――早水の手、デカいんだな

「……いつから?」

「割と最初の方。あとで配信観ろ」

「最悪……」

片手にマイクを持ったまま、早水が中央に移動する。

「えー、2曲目、カホン、この四角い箱ね、パーカッションで参加する予定でしたが」

――なんだろう。

「歌います。後夜祭、トリは俺たちじゃないけど、今夜の主役は、せお・はやみ!」

早水が歌う。

自分勝手もいいとこだ。

練習してきたのはピアノソロなのに。

急に伴奏にしろって。

主役は、早水と俺。

優しい魔法に、逃げ場を塞がれ、笑うしかなかった。

「セトリ変えんなよ」

「曲は一緒だろ」

あぁ、もっと掻き乱して欲しい。

ウィンナワルツみたいに、艶やかに華やかに、俺だけにわかるように、高校3年間の2拍目を、微かに、でも絶対的に、容赦なく乱して欲しい。

2曲目はアニソンと映画曲のメドレー。

人気のアニメと定番曲に、ここ数年話題になった曲ばかりを集めて、学園祭を、高校生活を楽しむことだけをコンセプトに組み合わせた。

両手をダランと垂れ下げて、肩の力を抜く。

大丈夫。

音楽室でしょっちゅう歌い出すから、伴奏版も初めてじゃない。

全部早水のせいだ。

譜面台に手を伸ばして、楽譜の真ん中を指で摘む。

「知らないからな」と早水をひと睨みしてやってから、譜面を頭上高く放り投げた。

製本されていない手書きの楽譜が宙を舞う。

熱気を逃そうと開けられた窓から吹き抜ける風に乗って、ゆっくりと俺の周りを飛んでいる。

グリッサンドで鍵盤を駆け上がる。

早水がマイクを手に客席を煽る。

よく通る声。

ステージを縦横無尽に歩き回りながら、息切れもせずに歌い続ける。

グラウンドを駆ける姿も、こんなだったんだろうか。1年の早水を知らないことが残念に思えてしまう。

1年の俺を見たら、何て言うだろう。気にも留めてもらえないか。

何曲かは2番や大サビの歌詞に置き換わり、好きなように歌い上げた。

割れんばかりの喝采。

早水を呼ぶ歓声。

「あいつ、すげーな」と聞こえる度に俺の方が誇らしくなる。

――早水はすごい。

――魔法みたいだ。

停電のことも、嫌な3年のことも、暗がりに早水を見つけられず不安になったことも、全部、上書きするみたいに、今、この場にあるものを片っ端から攫っていった。

迷わず俺も拍手を送った。

「何でお前が拍手してんだよ」

早水がマイクを通して大笑いすると、会場も一緒になって笑う。

俺にも拍手と歓声が送られる。

足元に散らばった五線譜に、法悦に浸っていた自分に恥ずかしくなる。

早水がブレザーを脱いで、ネクタイの結び目を更に緩くしながら近付いてくる。

ヘッドロックするみたいに肩を組み、客席に視線を促される。まだ、拍手が続いている。

袖から一瞬フラッシュが焚かれ、河村さんが手を振っているのが見えた。

早水はブレザーを置いてセンターラインに戻っていく。

深く、息を吸って、吐く。

俺たちの学園祭のエンドロール。

ドラムもエレキもいないから、切なくなり過ぎないように、早水に似合うように、俺も隣に立てるように、ビルの向こうの空が青空であるように。

早水が歌う。

空に抜けるような声。

原曲と比べれば焦燥感も切迫感も足りないけれど、早水だけの勿忘草が咲いている。

言語化できない感情は感情とは言えないのなら、早水は知っているんだろう。愛とか、恋とか。

愛だの恋だのを知らない俺には、きっとこんな風には弾けない。

それでも早水の歌を聴いていると、恋に恋するくらいの感情が俺の中にも微かに刻まれていく。

ピアノが得意で良かったと、初めて思った。

この曲の間、誰より近くで、狂おしい程に歌うスーパースターから、目を離さずにいられるのだから。

歌詞が変わった。

会場の誰も気にしていない。

俺だけが気付いた。俺だけが気付けた。歌の名前を教えたのは俺だから。

今日の主役は、早水と俺だ。

演奏者だけが盛り上がるのは三流、観客も盛り上がって二流、観客の熱狂の中、冷静で居られるのが一流だと、かの大指揮者カラヤンは言った。

一流になんかなれなくていい。早水の前では、ただ熱狂していたい。

ステージを終えた時は、いつも達成感があった。

今日は、喪失感と寂寥感が襲った。気を抜くと泣いてしまう。

早水は駆け寄ると、俺を頭から抱き締めて揉みくちゃにすると、そのまま手を引いてセンターラインに引き摺り出した。

「ありがとうございましたっ!」

「あ、りがとう、ございました……」

初めて、ピアノ以外とステージで礼をした。

目を閉じると、客席から送られた拍手の残響が聴こえる。

「この後、音楽室でちょっとだけ遊んで帰ります」と暗に誘導した早水は、売られた喧嘩は片っ端から買って執拗に叩きのめすタイプなのだと知った。

音楽室は元より、音が聴こえるからと旧校舎の特別教室が縦に連なる西階段も、生徒で溢れていた。

――今日はあっちの魔法使いは休業だな。

原先生が許可した、と言っても、他の先生たちが怒っていたのを見るに、独断で、ほとんど言ったもん勝ちだったんだろう、30分の間、リクエストに応えながら、俺が弾いて、早水は時々歌った。