青空にふる ー旧校舎西階段の魔法使いー

白と黒ばかりの見慣れた部屋に光が溢れている。

窓から流れてくる風は、優しくカーテンを揺らす。

ベッドシーツに光が射して、眠る頃にはお日様の匂いがする。

楽譜と参考書が並ぶ本棚には小さな鉢に緑が並ぶ。

ガウディのグエル公園をモノクロームフィルムで撮ったとしても、鮮やかな色合いが透けて見えるように、単色の先に豊潤な空間が広がっているような気がした。

――早水は魔法使いみたいだ。

ふと我に返ると、味気ない部屋が何となく腹立たしく感じられた。

――カーテンが青ければいいのに。

部屋をどうにかしようと思ったことは初めてだった。

仮に思い立ってもどうしていいかわからないし、きっと思うだけでやってみようとは思わなかった。

心が動くとか、思いに駆られるとか、辞書通りだった言葉が、自分の中で実像を持つ。ぴったりと嵌まった凸レンズを通った光が、白い画用紙を焦がすように、空虚だった心を染め上げていく。

自分でも気付かぬ内に、カレンダーを見遣り、スマホに手を伸ばす。

お盆が何日からかはよく知らない。8月の13日付近の1週間。

あと1週間。

『明後日、空いてる?』

躊躇いなく早水にLINEを送った。

送った後で、あ、と自分の行動に思い当たって狼狽してしまう。

誰も見ていないのに、あたふたと視線を泳がせ、スマホが右から左、左から右に両手の間を行き来する。

ピコンッと滑稽な音が鳴る。

たじろいだ指の隙間から、スマホが零れ落ちる。

拾い上げようと手を伸ばしたところで、早水からの短い返事が目に入った。

『空けるよ』

空いてる、とは違うニュアンスが、妙に嬉しかった。

深読みかもしれないし、他に予定があっただけかもしれない。

それでも、自分が優先されたような、他の人より高い順位にいるような、優越感に脳髄が痺れるようだった。

『11時ルミネ前で』

それからの1日は早かった。

気ばかりが急いて、心ここに在らず。勝手に変わるはずもない部屋を見ては、まだるっこしい感情に歯噛みした。



「何買うの?」

「カーテン、とか」

「カーテン?」

「模様替え、しようかと思って」

「いいじゃん」

何で?と聞かれると思って用意した言葉は無駄になった。

「イメージは?柄は?何色?」

「……青系、かな。無地か、グラデーションくらいがいいかなと思ってる」

「瀬尾っぽくていいじゃん」

瀬尾っぽいという言葉に得心がいかなかった。

――青色は空の色だ。

――早水の色だ。

――白黒の自分とは違う。

「雑貨は?瀬尾の部屋広そうだし、オシャレにすんの楽しそうでいいな」

「いくら掛かんのかな」

「わかんねー。夏と冬に布団カバー変えるくらいしかしたことないわ」

「それは衣替え」

何も返して来ない早水に視線を向けると、渋い顔をしたまま肩パンを食らった。

「ツッコまれたからって殴るなよ」

「うるせー」

駅からの短い道のりは、兎に角日差しが強くて、吸った空気まで、腹の中を焼いていくようだった。

額から頬に伝う汗も、照り返しで熱くなった靴底も、不思議と苦痛ではなかった。

一生歩いていられる。

道すがらたまに開いた店のドアから漏れてくる冷たい空気に惹かれて、右に左に蛇行しながら歩く。

入ったことのないインテリアの店の外観は、既に彩りに溢れていて気後れしてしまう。

「あちー。着いたぁ」

立ち止まってしまうより、半歩早く、自動ドアの先に早水が切り込んで行く。その背中を追って店に入ると、全身を包むエアコンの冷気に、呼吸が軽くなった。

「涼しい……」

「もうここから出たくない。ここで暮らす」

大袈裟に項垂れながら前を歩く早水に、出禁になるぞと声を掛けると、二度と出ないからもう入ることもないと訳のわからない論法で返してきた。

展示用のソファに座ってみたり、機能性を無視したオシャレ家具の値段に驚いてみたり、寄り道を繰り返してようやくカーテンのコーナーにたどり着く。

店内の一番奥、角のL字部分に、色や素材ごとに並べられてカーテンの空が広がった。

「すげーな」と言って俺より先に早水がその中に飛び込んだ。

色味ごとに区切られて、上下に並んだカーテンは、虹より細かくて、昔、祖父母が買ってくれた2段重ねの色鉛筆セットのようだった。

「青、すげーいっぱいあるぞ」

声がする方を向くと、青の濃淡を背に早水が両手をいっぱいに広げている。

「瀬尾の欲しい青、どれ?」

――どこまでも続く青がいい。

――早水を透過して、カーテンを選べたらいいのに。

濃淡と早水を見比べる。

どの色もよく似合う。

濃いよりは薄く、淡いよりは涼やか。

空の高いところじゃなくて、空の奥のほう。

ゆっくりとなぞるように青の列を指が進む。

青から藍色に、藍色から水色に近付くに連れて、早く早くと急く気持ちとは裏腹に、指先は慎重に一つ一つ吟味していく。

トクンと胸が高鳴る。

指先が動きを止める。

左右のカーテンを掻き分けて、たどり着いた色見本を引き抜くと、モノクロームフィルムの先にあった綺麗な空が広がった。

動きを止めた俺を背後から覗き込むようにして、早水が顔を出す。

「気に入った?」

「空みたい」

「青って、空の方か」

「何だと思った?」

俺の思う青は空の色で、空色は早水の色だ。なら、早水が思う青は何の青だろうか。

「海」

「海の、青?何で?」

「瀬尾は海っぽい」

眉根に皺が寄る。

海の雄大さも、波打ち際の荒々しさも、自分は持ち合わせていない。

「暗い色ってこと?」

「なんで深海まで潜ってんだよ。まぁでも、それも含めて海かな。深くて、広くて、ピアノ一つで全部、浚ってく感じすんじゃん」

「そうかな。……じゃぁ、もう少し海っぽいのにしようか」

「空のにしろよ」

「……似合わなくない?海だし」

「海は空に似合うじゃん。海に空が合わさったら最強じゃね?」

最強かはわからない。それでも早水がいれば膝を折って項垂れることは、きっとない。

誰も聴いていないピアノをいつまでも、指が動かなくなるまで、心臓が止まるまで、ずっと弾いていられる気がする。

「じゃぁこれにする。早水の方が似合いそうだけど」

「ペガサスだな」

「はぁ?」

「空に、駿だし」

自分の顔を指差して得意げな早水を鼻で笑った。

「はいはい、言ってろ」

軽口を返しながら、早水なら空も飛べそうだと思ってまた笑った。

採寸されたカーテンは思ったよりも大きく両手で持つにもかなり嵩張った。高校生の慣れない買い物を察してくれた優しい店員が、自宅配送もできると教えてくれたが、どうしても手元に置いておきたかったので、ありがとうございますと添えて断った。

――家に帰ったら直ぐにカーテンを掛け替えよう。早水みたいな空色を広げよう。

初めの頃は俺の欲しい物を探して回った雑貨巡りも、後半になるに連れて、早水が自室に置きたい物にすり変わっていった。

コルクボードなんかを買ったところで、飾るような写真も予定表もない。小さな鉢のサボテンは、月1回水遣りすれば枯れないらしい。

使い道のないもの。

余計なもの。

雑多に積まれたあれこれが嫌いな性分だった。

ソリストを夢見る小さな演奏家は、時に情熱的に、時に繊細に、時に陶然として名演する自分を想像するが、俺の夢はソリストでも、オケの奏者でもなかった。

求められるから弾き、褒められたいから練習した。

コンクールで求められるのは、技術と、譜面を読む力。偉大な作曲家の天才的な採譜を音にする力。

俺の欲したものは、その先にあるはずだった。

結果、残ったのは『普通』に馴染めない偏屈で空虚な心だけだった。

「結局、うちまで付き合わせてごめん」

「いいよ、楽しかったし。いい買い物できた?」

「うん。ありがと」

「どういたしまして」

「あがって、く?何か飲み物出すよ」

「瀬尾一人じゃカーテン付けられなさそうだしな」

「それくらいできる」

鍵を開けて買い物袋を両手で抱えながら、背中で扉を押し開けると、輝度の高い大きな革靴がリーガルのショーウィンドウのように綺麗に踵を揃えて並んでいた。

「響佑」

リビングから聞き慣れた穏やかな声が低く響く。

「おかえり。買い物…か」

当たり障りのない定型文みたいな問いが、見知らぬ青年を見留めたところで動きと共に尻すぼみに静止した。

「はじめまして。早水駿です」

物怖じしない早水に救われたのは、俺だけではなかった。

「お友達か。ゆっくりしていってね」

「今日、早いね」

「出張前に着替えを取りに来たのと、あとママにね」

「そっか。気を付けてね」

「2人で何買いに行ってたんだ?お小遣い足りたか?」

「そんな高いものじゃないから。カーテンとか、部屋のもの」

「部屋のもの……」

不思議そうに息子を見る不器用な父親に、また早水が救いの手を差し伸べる。

「空色の、カッコいいやつ、買いました」

「……そうか。模様替えか。いいじゃないか。うん、いいね。駿くん、響佑と仲良くしてやってね」

時計と、息子と、その友人を3拍子を刻むように逡巡する父親を見ながら、少し懐かしい気持ちを思い出した。

「夕飯に、色々買っておいたから。2人で食べなさい。パパ、出なきゃいけないから、おもてなしできなくてごめんね」

自分をパパと呼び、高校生の息子たちを小4くらいの子ども達にするように扱う父親の姿が気恥ずかしく、わかったから、と素っ気なく返す。隣で微笑ましそうにヘラついている早水の姿が腹立たしく思えた。

いつもはガチャンとしまる無機質で重いドアが、今日はカチャンくらいに聴こえた。

「瀬尾のお父さん、面白いな」

「友達連れてきたからパニくってたんだよ」

「友達少ない自覚あったんだな」

「うるさい」

ツカツカと2階にある自室に向かう足取りは些か軽いように思えた。白黒ばかりの部屋も、一筆も描かれていない真っ新なキャンバスのようで、今日ばかりは愛おしい。

買ってきたものを床に広げると、ぶち撒けた玩具箱のようで心が躍った。

古いカーテンをフックから外すと、オレンジがミラーレースの節目から射し込む。こんなに明るい部屋だったろうか。空気まで静かに色を変え始める。シャッとレースが開かれると、西陽に照らされた早水の目元が深いシルエットになる。

「……綺麗だ」

「だなー。最近夕日なんてちゃんと観てなかったわ」

「誰ぞ、彼は」

「何て?」

「たそがれ。夕日で顔が見えなくなるやつ」

「あー、で、それが?」

脈絡薄く話し始めた俺の言葉を早水は待っている。

小さく息を吸う。

「コンクールでさ、ステージに立つと客席の人が見えるんだよ。服とか、大人か子どもか。目とか口とか、何となくわかる。でも誰かはわかんないんだ」

「ライブだと、顔見えてるぞー、って言うけどな」

「多分、照明が違う」

「クラシック用のライトとかあんの?」

「色とか明るさじゃなくて、多分、照らされてるのは俺じゃなくて、ピアノなんだよ。弾いてる人も光の外側にいるから、見えなくなるんだと思う」

夕日に手を翳すと、覆う影が一層濃くなった。

「よく見えないのに、両親がどこに座ってるかはすぐ分かった。あそこにピアノを届けようって思って弾いてた」

早水は相槌を返すだけで他に言葉はない。静かに夕日に染まったまま、じっと俺の横顔を眺めている。

「ガラコンで倒れてから、2人とも、特に母さんは、俺に無理させたって後悔してる。そんなことないのに。あの日から、聴かせる人がいなくなった」

翳した手で沈んでいく夕陽を掴むように握り拳を作る。親指を内側に入れてギュッと力を込めると、反対に肩から肘の力が抜けて膝の上に落ちた。

「弾く意味がなくなったと思った」

「それでも弾いてるじゃん」

「それしかないから」

口を衝いて出た言葉に、嘘だ、と自分でも気付いた。 

「そうじゃなくて……」

膝の上で小刻みに震える手を、早水の手が掴む。驚いて視線を上げると、間近に早水の顔があった。丁度、西陽が横から射し込み、照らされた顔は、ハイライトのオレンジに染まっていて、また別の空に見えた。

「カーテン、買っただろ。変えたいとか、変わりたいじゃなくて、瀬尾は、変わったんだよ。自分の世界を変えたんだよ。すげーじゃん」

早水の筋張った手が、俺の髪を撫でる。

わしゃわしゃと乱雑に。

それでも慈しみ深く。

「俺はピアニストでも芸術家でもないけど、自分の世界を綺麗にしよう、豊かにしようってのは、良いことだと思うぞ」

髪から肩へと流れ、俺の細い体が引き寄せられる。

乱れた髪に早水が顔を寄せる。

フッとくすぐったいような感触が通り過ぎた。

「俺は聴くよ」

首筋から脊髄を通って耳裏まで熱くなる。

「客席でも、学校でも、デパートの広場でも聴くから、好きに弾け」

軽く肩を叩くと、早水は大きく伸びをした。新しいカーテンを両手に広げて留め具を器用に挿して行く。

オレンジと青の間で、早水はやはりどこまでも続く空だった。

昂揚して口走ってしまった、無間地獄みたいな禅問答を、それは解決済みだと遠くに放ってくれる。

――早水は魔法使いで、スーパースターだ。

――こんな人に、俺もなりたい。

呆けたままの俺に、早水が檄を飛ばす。

「ボーッとすんな。お前の部屋の模様替えだろ。終わらせて早く飯食お」

お前の部屋の模様替えだと言いながら、早水は事細かに配置を決めた。

コルクボードは机からもベッドからも見える場所に。

サボテンの鉢は光が当たる場所に。

部屋中が空色に染まっていく様が心地よかった。

大きな画用紙に、2段重ねの新品の色鉛筆から、好きな色を1本選んで最初の一筆を入れた時のような清逸さがあった。

部屋が整うと早水が1枚写真を撮って見せてくる。

「ビフォー……かーらーの、アフター」

模様替えの前と後、部屋がゆっくりと変わるショートムービー。

「いつの間に」

「入った時に撮って、あとはアプリで加工した」

ベッドや机は動いていない。確かに自分の部屋だと分かるのに、明らかに変わった部屋に自然と指が動いた。

太ももの上で、タン、タッ、タンと指が跳ねる。

暗く静かな部屋に、オレンジと青の光が差し込む。

ゆったりとした走り出しから、小刻みに装飾音が増える。

右手のアルペジオが始まると、一気に華やぐ。

美しい高音のトリルと軽やかな左手の3拍子。

美しき青きドナウ。

――早水がくれる世界は、いつも甘美だ。

――些細なことが、どこまでも豊かにしてくれる。

蝶の羽ばたきが世界の果てで嵐を巻き起こすような微かで、圧倒的な変容。

2人で囲んだ夕食も、いつか俺の音楽を照らすかも知れない。

早水が選んだパスタがフェットチーネでなく、リガトーニだったら、明日弾く演奏は変わるかも知れない。

瞬き一つ、見逃したくない。

「そういえばさ、たそがれで思い出したんだけど」

前置きすると、次の皿に伸ばしながら、何ぃ?と合いの手が返ってきた。

「旧校舎の魔法使い、俺、見たことあるんだ」

「え」とこちらを凝視して、早水の手が止まる。驚いた顔を見て、俺は少し得意になった。

「一年の時かな、音楽室でピアノ弾いてると旧校舎の東階段に人影があってさ」

「顔は?」

「顔はわかんない。放課後だから丁度西日で逆光線。誰ぞ、彼、って」

「へぇ、すげぇじゃん」

「ほんとに何でも叶えてくれるのかな」

「知らない。イタズラだろ?SNSのコメントだって、あれっきりだし」

もう少し食い付きがいいかと思ったのに、反応が鈍い。そうか、早水は恋愛成就を願われる側だからか、と思い当たり、モテるのも大変そうだと苦笑いした。

「そうかもな。でも、俺には大切なオーディエンスだったかな。いつも、最後まで聴いてくれるし」

くだらない話をしながら、家で食べる温かい食卓を久方ぶりに堪能した。冷蔵庫に買い溜められた惣菜は高校生2人の、主に早水の腹の中に消え、気持ちいいくらいの食べっぷりに、時折指差して笑った。何故それが一口で入るのか、食べたものはどこに消えるのか。

「遅くなったし、そろそろ帰るかな」

「泊まってけば?」

早水のあっちこっち動き回って、少し下方で止まる。

8分休符。

直ぐにヘラヘラ笑いに変わった。

「早くピアノ弾きたいんだろ?」

「別にいつでも弾けるし、それに早水いても弾けるよ」

「顔にってか、指先に出てるって。ずっと動いてんじゃん。何弾いてんのか知らんけど。かっこいいじゃん、変わった自分と向き合うとか、アーティスト感?」

「からかうなよ」

今朝までは、変わりたいと思っていた。

早水に言われて、もう変わっていたのだ気付いた。

そして今、自分がどう変わったか知りたいでいる。

早水はいつも自分の半歩先を歩いて、道を示してくれる。自分が気付くよりも早く、答えを教えてくれる。西暦が2000年を超えても未だに神様が増え続けるのは、こういう出会いがあるからなのだろう。

「ありがとう。今日は、そうする。眠くなるまで弾いてみる」

「いい曲見つけたなら、また動画撮るからな」

カッコ付けて逆手に鞄を背負う見慣れた姿が、民衆を導く自由の女神のようだった。

早水を見送った後、ゆっくりとしまったドアの音は、重厚だが、重苦しさはなかった。続く華々しいフレーズのための布石。力強く、それでいて色彩豊かに。

家の中を走ったのはいつ以来だろう。もしかしたら初めてかもしれない。

防音室までの短い階段を駆け下り、電気とエアコンのスイッチを、壁を殴るようにして点けた。乱暴にピアノを開いて臙脂のフェルトを投げ捨てる。

深く息を吸って、ゆっくりと吐く。

思考が澄んでいる。

青空が広がる。

両手の重厚なオクターブが防音室に響く。

スーパースターに捧げる英雄ポロネーズ。