子どもの頃、夏が近づくと決まって、父が今年はどこに行きたいかと聞いてきた。
暑いのは嫌いで、できれば外は避けたかった。でも、二学期が始まると、こんがりと焼けた肌を自慢し合い、どこに行った、何をした、カブトムシを何匹、クワガタを何匹、朝顔の蔦が何メートル伸びたか競い合わなければならない。虫取りや日焼けのトーナメントに参加しない以上、旅行のネタくらいは用意しておかなければ、夏休み明けの、いつも以上にテンション高い教室に溶け込むことができない。
だから決まって水族館を強請った。全国各地の、都市部の大きな水族館をメインに、隣県の小さな水族館をいくつか巡る我が家の風物詩。
そんな夏も中二で終わってしまった。
「夏休みどこ行く?」
夏休みを前に浮き足立ったクラスのあちらこちらで互いのスケジュール調整が行われる。誘われれば断りもしないけれど、特にこちらから声を掛けることはない。
去年まではそうだった。
しかし、今年は少し様相が異なる。
机の上には既にいくつかのプランが提示されていて、どれを選ぶかの権利を与えられている。行く行かないの選択肢は、そもそもなかった。
「もう俺考え過ぎて、一周回ってどれがいいかわかんなくなった。瀬尾、どれがいい」
ストリートピアノの動画は、今や十万再生を超え、その後、月一本のペースで撮った動画も伸び続けている。提示されたプランも恐らくは撮影関係で選ばれている。
「水族館にもピアノ置いてあるんだ」
「これにする?」
「こんな遠く、行けないだろ」
「どこかわかんの?」
「ここに、クラゲの大きい水槽、映ってるから……」
「よくわかるな」
「小さい頃、行ったことある」
「そっか」とだけ言って早水はそれ以上聞いてこなかった。
早水のすごいところは、決して俺の地雷を踏まないこと。
どう答えよう。
どう返そう。
嫌だな。
そう思う一歩前のところでピタッと足を止めて、踵を返す。
ダーっと走ってきた子どもが、他に興味を奪われて直角に曲がるみたいに、無意識に避けて行く。人に好かれる人間の危機察知能力というか、本能的な自衛力なのか。
「夜行バスとかなら行けないこともないけどな」
「早水は?これがいいの?」
「思い付くやつ全部書いたからなー。全部やりたい」
「お前の夏休み何日あるんだよ」
「最低でも三ヶ月は欲しい。時間足りねぇよな」
光の速さだけが普遍だとアインシュタインは言う。
熱々のストーブに手を乗せた1分間より、好きな子と過ごす1時間の方が短いって話は、相対性のフックトークだと聞いたことがある。
早水の夏休みはあっという間で、俺の夏休みは、短くも長くもない。流石に平日よりは幾分か早いかもしれない。
「海とかお祭りの会場にもあるんだな」
「は?ないだろ」
「え?」
「祭りは邪魔だし、海は、サビんじゃね?あー、海沿いのサービスエリアみたいなとこにはあったな。」
「じゃぁこれは?」
やりたいことリストの3つ目と6つ目を指差す。
「普通に海行って、祭りも行きたい。あー、花火観たいよな」
去年の夏、自分は何をして過ごしただろうかと思い返しても、思い当たることが何もない。課題も七月の内には粗方片付いてしまい、外に出ることも少なく、家の防音室でピアノを弾き、昼と夜に腹が空いたところで出掛ける。
『夏休み』という言葉がソワソワと背中を擽る。
「課題やってると1週間分くらいは潰れるもんなー」
「まとめてやるタイプ?」
「何もない日にまとめて。瀬尾は?」
「夏休みになるまでに大体、終わらせてる」
目的もないから前倒しているだけで、夏休みを効率よく楽しもうとか、何かやりたいことがあるわけではない。
やりたいことリストと一緒に渡された新発売のラテに口を付けると、コーヒーの味は全くしなくて、甘ったるい、砂糖と加糖練乳が競い合う味と、ほのかにカラメルの香りがした。
「はぁ?え、もう終わってんの」
「大体」
「いつやってんだよ。お前、寝てる?」
「授業中。一回やったとこの復習なら聞かなくていいから。心配されなくても、最近は割とちゃんと寝てるよ」
寝てるよだけでいいのに、余計なことを言ってしまった。早水の様子を窺うと、ビビったわーと言ってやっぱり地雷原は見事に回避していった。
「瀬尾って、割と不良だよな」
「何を以って?」
「授業聞かないで課題やってるし、音楽室もあれだろ、部活入ってる風に見せかけてるけど実際入ってないし。裏で高校生活謳歌してるタイプだな」
文字面だけを読めば確かにそう。前向きさの欠片もないが、優等生ぶって怒られない程度にやんちゃしているように見えなくもない。多分誰も俺をそうは見ないけれど、早水がそう思うなら悪い気分ではなかった。
「人聞き悪いな」
「お、瀬尾やってんな、って思うだろ。みんな聞いたら喜ぶぞ。話し掛けようにも掴みどころないし、雲みたいな?」
一面を覆うような雲は嫌だ。
澄んだ青色の空に、ポツンと一つだけ浮かんだ雲なら嬉しい。
確か、セレストブルー。
神様がいる空。
「いいよ。あんまり話し掛けられても何話していいかわかんないし」
「俺だけいれば十分か」
「自意識過剰。自己肯定感どうなってんの」
――早水だけでいい。
――早水だけが聴いてくれればいい。
やりたいことリストは放課後までに◯△×の印で評価されて、走り書きで日付や建物の名前、橋の真ん中とか歌詞の一部が書き込まれると、さながら宝の地図か暗号文のようになっていた。
全部は無理としても、いくつかは本当にやるんだろうか。計画倒れで終わるか、早水が飽きて別のことを始めるかもしれない。
――足るを知れ。
自戒しろ。自重しろ。自分にどれだけ言い聞かせても、イレギュラーなことが「当たり前」として続いてしまうと期待する。
「瀬尾ー、音楽室行かねぇの?」
声を掛けるか迷っていると、してもいない約束がしてあったみたいに、青空の広がる方から降ってくる。
もたつく俺の鞄を持って、さっさと教室を出て行く。
合唱部でもなければ、原先生から許可を得ているわけでもない。早水の言葉を借りれば、部活を辞めたっきり帰宅部なのに放課後入り浸っているのは、割と不良なのに、そこにいるのが当たり前のように居場所を使ってしまう。隣をポンポンと叩いて「何してんの、座れよ」と言えば、俺の席まで出来上がる。
魔法使い。
そしてスーパースター。
俺がピアノの前に座ると、指揮台に座るか窓に凭れながら俺の演奏を聴いて、聴いたことがある曲は鼻歌混じりに、知っている曲なら歌い出す。割と大声で。その声が好きで、途中から伴奏にシフトすると俺の顔を見て大きく口角を上げる。
今日は、何を弾こう。
特に思い付かないから、きらきら星をスローテンポで弾いてみる。弾いている内に弾きたい曲が浮かぶから、弾きたい曲に行き当たるまで、テンポを変えたり、アレンジして探るには丁度いい。
ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ……。
最初の8小節を弾いたところで、隣に気配を感じる。
「これは知ってる」
そう言って俺の肩をぐいぐい押して左に寄せると、空いた隙間に捩じ込んできた。
男2人で座るには横長の椅子も狭くて、ずり落ちないように早水の左手が俺の背中を通して反対側の角に置かれた。
習い立ての子どもみたいに、人差し指と中指、時々親指を使って、ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ……と弾き始める。
綺麗に水平に引かれた幅広の二重から、色素が薄く茶色掛かったビー玉みたいな瞳がキラキラと輝いている。
「俺、右しか知らない」
左を弾けと催促されて、いつもより狭い鍵盤に、小さく遠慮がちに両手を添える。
同じフレーズを繰り返す早水に合わせて伴奏すると、嬉しそうに音が大きくなる。
指示記号なんて全くない。
あったとしても見もしない。
早水だけを見て、早水に合わせて、パターンを変える。
途中「ソ、ソ、ファ、ファ、ミ、ミ、レ……」と呟いてみると、何度か音を外しながら16小節まで弾けるようになった。
繰り返しなのは変わらないけれど、主題を一周できると俺の伴奏にも幅が広がる。
遊び心で、早水の腕を潜って高音に手を伸ばすと、「やるじゃん」と言って少し腰を浮かせて場所を作ってくれる。
延々と同じ主題でアレンジを繰り返す。
開けっぱなしのドアから入ってきた女子部員のキャッキャした笑い声と拍手で我に返る。
もう少し弾いていたかったなと思っていると、早水が立ち上がって、どうもどうもと手を挙げた。
夏の音楽室、隣り合って演奏するには蒸し暑く、淡々と伴奏を熟すだけだった1年の夏から、初めて汗を掻いた気がする。
座ったまま、得意げなスーパースターを見上げていると、俺の手を掴んで立ち上がり、そのまま同じように頭上高くに挙げさせられた。
拍手が大きくなった。
ついでに送られるお情けの拍手も、早水のおこぼれなら誇らしい。
青空に浮かぶ雲になりたい。
吸い込まれるようなセレストブルーを引き立たせる白のコントラストになりたい。
――俺は、早水のようになりたい。
夏の暑さに浮かされたみたいに、ぼんやりとした意識の端で子どもの頃に憧れた特撮ヒーローを思い出した。
夏休みが始まると直ぐ、「明日、駅に1時でいい?」と聞いていない予定が入った。
身構えていたことがバカみたいに、早水が飽きることはなく、2日に1回くらいのペースで顔を合わせた。俺のカレンダーは真っ白なまま、早水のカレンダーにだけ俺の分まで予定が書き込まれているらしい。
カフェで課題をする。
タワレコで次弾く曲を探す。
早水のタブレットで人気の動画を観る。
苦手な人混みも、後ろをついて歩けばいいと思うと少し気が楽だったし、気を張らないで済む分、街並みに目を取られて、気付いた早水が「入ってみるか」と手を引いてくれた。入ってみた店が思っていたのと違っても「まぁ、こんなもんだろ」とガチャガチャのアタリ・ハズレくらいのノリで店を出ることができる。
2人でいると、早水は思っていたよりしゃべらなくて、思い出したように話題を振って、満足するとまた静かになる。短いセンテンスで区切って、俺のカデンツァが始まるのを待つみたいに。
待ってはくれても、止めることは許されない。幼稚園バスに揺られて、いつもと違う景色が流れる窓を見ていると期待感と不安感の間で行ったり来たりした遠足の日のような感覚。
「バイトしない?」
唯一許可を取られたのは8月初めの月曜日。
「何で?」
「何でって、お前暑いの苦手じゃん」
「え、あぁ……うん?」
「な?」
いつ、どこで、何のバイトかよりも、何でと問うた俺が悪いのか。早水の思考が、一足飛びどころか2段飛ばし、3段飛ばしで跳躍している。
早水の顔をどれだけ見ても答えが出て来ない。いつも通り予定を入れようと思ったが、外だと暑いから、それでいて時間が掛かるから、バイトする。多分そうだ。
怪訝な顔が諦観の面持ちに変わりかけたところで、一個だけ思い付いた。
「……花火?」
「当たり!」
まだ全然飲み込めていない。花火とバイトが繋がらない。それより何より、クイズのようになってしまっている自覚があったことに驚いた。
「レストランでピアノを弾いてくれませんかってバイト。バイトってか、祝・初案件」
「案件って何」
「動画見た人が、客寄せパンダに俺らを使いたいって話」
ベイサイドの花火大会、オシャレなお店で演奏会。俺が弾いて、早水はホールの手伝いをするらしい。
「早水がやりたいならいいよ」
「何だよ。瀬尾は楽しみじゃないの?海で花火でお祭りだろ。しかも涼しいし。最高じゃん」
楽しそうにしていることが、俺には楽しい。早水のやりたいことリストは勝手に俺のやりたいことリストにされていて、でも、それも強ち間違いではなかった。
「俺も楽しみにしてるよ」
生まれて初めてのアルバイトは、確かに楽しかった。
2人で店のウエイター服に袖を通しながらも、ゲスト扱い。2人だけウィングカラーの比翼を着せられ、色違いのアスコットタイを充てがわれた。
店のウェルカムボードには「せお・はやみミニリサイタル」と書き足されていて、襟足を触られるようなくすぐったいような、気持ちいいような、昂揚感があった。
動画の曲を1曲披露すると、コース料理のサーブが始まった。シュッとした姿の早水は、どこの席でも女性客から声を掛けられると、ここぞとばかりにチャンネル登録させていく。最初はナンパでもしているのかと思いもしたが、スマホを出しているのはお客さんばかりで、最終的には連れの彼氏も旦那さんも、スマホを取り出すから、そういうことかとピアノを弾きながらでもわかった。
メインが運ばれて店内が一息付いたところで、窓の外も店の中も、花火が打ち上がるのを待って静かになる。誰かがひそひそ声で話し始めると、みんなが釣られる。
デクレッシェンドにデクレッシェンドを重ねて、小さく邪魔にならないように、演奏を終えると、音を出さないように、壊れたお猿さんの人形みたいに拍手を取るポーズを送ってくれた。
花火が上がる。
暗い空に明るい光が射す。
ピアノに向いていた視線が一斉に窓の外に奪われる。
大玉が、ドン、ドンと1発ずつ。
「始まった、始まった」
椅子の半分に跨るように、早水が俺の隣についた。
横長の椅子を縦に座ると夜空の花火よりも、後ろの青空が気になって仕方なかった。
高いところから観る花火は、綺麗にまん丸で、こぼれ落ちる火花が消えていく端がどこなのか、いつもより気になってしまう。
記憶の中の花火よりもずっとエモーショナルな光景は、作り物みたいで、だとしたらやはり早水は魔法使いなんだと思った。
「綺麗だなー」
「そうだね」
「ずっと観てられるなー」
「そうだね」
線香花火が儚げで好きだと言う人がいるけれど、終わってしまうことの切なさは、打ち上げようと手に待とうと変わらない。春には、世の中にたえてさくらの、夏には、かれはてんのちをば知らで、と千年詠んだくらいだ。
人より少しだけ、音に感傷的な分、打ち上げ花の方が淋しいような気がする。
「パラパラって光が降ってくるやつ、何て名前なんだろ。筆で空に線を引くみたいで綺麗だった」
赤、緑、黄色、光は重ねるほど見えなくなって、あとはとけてくだけ。
「え、ごめん。どのやつ?大玉?」
「最後のやつ。全然、ずっと観てられてないじゃん」
「観てた、観てた、ずっと観てたって」
「はいはい。ほら、仕事」
膝をポンと叩いて促すと、緩めていた襟元を正して早水が客席に馴染んでいく。
ピアノに向き直る時、椅子についた左手に人肌の温かさを感じて、早水と一緒に花火を観たんだなと実感した。
知る限りの花火と名の付く曲を、寂しくないようにサビばかりを掻き集めて贈り届ける。店を出るお客さん達は皆一様に俺たちに握手を求め、楽しかったと贈り返してくれた。
普段よりも早いらしい店じまいを少しだけ手伝うと、キッチンから労いの料理がテーブルいっぱいに並べられ、窓際の席でお店の人たちが小さな打ち上げを開いてくれる。
花火の代わりに、空の上の方には星が瞬いて、下の方では一層強くビルや遊園地の光が煌々と覗いている。
知らない人たちと囲む夕食は、人見知りと緊張と矢継ぎ早の質問で吐きそうになった。耳の奥がガヤガヤとうるさくて、目がぐるんぐるん回っている。悪意のある言葉なんて一つもないのに、それでも人が多いところは苦手だ。
何も答えられずにフリーズしていると、目の前が真っ暗になった。
気を失ったのかと思いもしたが、目元が温かい。
ところどころ薄らと光が滲んで、あぁ、手だ、と思い当たった。
「眠いなら寝とけ」
視界を奪われ、薄明かりの世界で、5.1サラウンドのように早水の声が俺を包む。察してくれたのか、それとも本当に眠そうに見えたのか、どちらにしても救われた。
「寝ちゃうの勿体なければ、外でも見とけば」
そう言って少し顔を傾かせられた後で開かれた世界は、光源が滲んで一緒くたにされ、曖昧な境界からじんわりと柔らかな光の渦を見せてくれた。星空とも夜景ともつかない、ほんの数秒間だけの景色。
あっという間に終わってしまう夢のような時間。横目に見る打ち上げの様子も、自分にはまるで現実感がなくて、隣の早水との間には分厚いアクリルガラスが敷かれているような気がする。
『こっちのお魚は、あっちの水槽には行かないの?』
いつかの夏休み、手を引く両親に聞いた記憶がある。
狭い水槽で可哀想だとか、みんな一緒の方がいいだとか、そういう気持ちで聞いたわけではなかったが、可愛らしい子どもの発想と流された。
淡水と海水、捕食者と被食者、動きを見るか模様や形を見るか、あっちとこっちできっと違うんだと子ども心に理由を付けた。
楽しげに話している早水の手が俺の膝に置かれて初めて、アクリルガラスなんてなくて、自分もこの中にいるんだと気付かされる。
終盤になると漸く耳が慣れて、まともな受け答えができるようになった。早水は相変わらず愛想良く、俺が返せない球も一緒に片っ端から打ち返していく。イワシの群れを掻き分け、愛嬌良く水槽の淵まで軽やかに泳いでくるハート柄のマンタみたいに。
帰り際、タッパーに詰められた大量の料理と共に、店長さんから店のロゴの入った封筒を渡された。
「振込みより味があるでしょ」と言われて中を覗くと、聞いていたより少し多いバイト代が入っていた。
「初めてのギャラだな」
「違うよ。2回目」
「え?」
「ビー玉、もらった。」
早水が嬉しそうに笑う。
俺も釣られて目尻が下がる。
早水が俺の手を握って大きく万歳をしてから、深々とお辞儀をした。ワンテンポ遅れて俺も頭を下げる。
「ありがとうございました」
揚々とした声に合わせて拍手が起きる。鞄とタッパーが入った紙袋を持った手が重さで軋む。
エレベーターに乗って1のボタンを押すと、終わったのだと実感した。
「これ、いつまで繋いでるの」
早水に握られた手を持ち上げると、お、とだけ発して手が離れた。エレベーターが開くと少し生暖かい潮風が吹いてきて、急に現実に引き戻される。
「お疲れー。またな」
またバイトするのか、また会うのか、また演奏するのか、何も教えてはくれないけれど、改札を潜って互いのホームに分かれるとき、またなと言われると安心できる。
次がある。
もし、次が永遠に来ないんだとしても、次が来るまで永遠に待てばいい。
待つ理由がある。
またなと言われたのだから。
次は何を弾こう。
暑いのは嫌いで、できれば外は避けたかった。でも、二学期が始まると、こんがりと焼けた肌を自慢し合い、どこに行った、何をした、カブトムシを何匹、クワガタを何匹、朝顔の蔦が何メートル伸びたか競い合わなければならない。虫取りや日焼けのトーナメントに参加しない以上、旅行のネタくらいは用意しておかなければ、夏休み明けの、いつも以上にテンション高い教室に溶け込むことができない。
だから決まって水族館を強請った。全国各地の、都市部の大きな水族館をメインに、隣県の小さな水族館をいくつか巡る我が家の風物詩。
そんな夏も中二で終わってしまった。
「夏休みどこ行く?」
夏休みを前に浮き足立ったクラスのあちらこちらで互いのスケジュール調整が行われる。誘われれば断りもしないけれど、特にこちらから声を掛けることはない。
去年まではそうだった。
しかし、今年は少し様相が異なる。
机の上には既にいくつかのプランが提示されていて、どれを選ぶかの権利を与えられている。行く行かないの選択肢は、そもそもなかった。
「もう俺考え過ぎて、一周回ってどれがいいかわかんなくなった。瀬尾、どれがいい」
ストリートピアノの動画は、今や十万再生を超え、その後、月一本のペースで撮った動画も伸び続けている。提示されたプランも恐らくは撮影関係で選ばれている。
「水族館にもピアノ置いてあるんだ」
「これにする?」
「こんな遠く、行けないだろ」
「どこかわかんの?」
「ここに、クラゲの大きい水槽、映ってるから……」
「よくわかるな」
「小さい頃、行ったことある」
「そっか」とだけ言って早水はそれ以上聞いてこなかった。
早水のすごいところは、決して俺の地雷を踏まないこと。
どう答えよう。
どう返そう。
嫌だな。
そう思う一歩前のところでピタッと足を止めて、踵を返す。
ダーっと走ってきた子どもが、他に興味を奪われて直角に曲がるみたいに、無意識に避けて行く。人に好かれる人間の危機察知能力というか、本能的な自衛力なのか。
「夜行バスとかなら行けないこともないけどな」
「早水は?これがいいの?」
「思い付くやつ全部書いたからなー。全部やりたい」
「お前の夏休み何日あるんだよ」
「最低でも三ヶ月は欲しい。時間足りねぇよな」
光の速さだけが普遍だとアインシュタインは言う。
熱々のストーブに手を乗せた1分間より、好きな子と過ごす1時間の方が短いって話は、相対性のフックトークだと聞いたことがある。
早水の夏休みはあっという間で、俺の夏休みは、短くも長くもない。流石に平日よりは幾分か早いかもしれない。
「海とかお祭りの会場にもあるんだな」
「は?ないだろ」
「え?」
「祭りは邪魔だし、海は、サビんじゃね?あー、海沿いのサービスエリアみたいなとこにはあったな。」
「じゃぁこれは?」
やりたいことリストの3つ目と6つ目を指差す。
「普通に海行って、祭りも行きたい。あー、花火観たいよな」
去年の夏、自分は何をして過ごしただろうかと思い返しても、思い当たることが何もない。課題も七月の内には粗方片付いてしまい、外に出ることも少なく、家の防音室でピアノを弾き、昼と夜に腹が空いたところで出掛ける。
『夏休み』という言葉がソワソワと背中を擽る。
「課題やってると1週間分くらいは潰れるもんなー」
「まとめてやるタイプ?」
「何もない日にまとめて。瀬尾は?」
「夏休みになるまでに大体、終わらせてる」
目的もないから前倒しているだけで、夏休みを効率よく楽しもうとか、何かやりたいことがあるわけではない。
やりたいことリストと一緒に渡された新発売のラテに口を付けると、コーヒーの味は全くしなくて、甘ったるい、砂糖と加糖練乳が競い合う味と、ほのかにカラメルの香りがした。
「はぁ?え、もう終わってんの」
「大体」
「いつやってんだよ。お前、寝てる?」
「授業中。一回やったとこの復習なら聞かなくていいから。心配されなくても、最近は割とちゃんと寝てるよ」
寝てるよだけでいいのに、余計なことを言ってしまった。早水の様子を窺うと、ビビったわーと言ってやっぱり地雷原は見事に回避していった。
「瀬尾って、割と不良だよな」
「何を以って?」
「授業聞かないで課題やってるし、音楽室もあれだろ、部活入ってる風に見せかけてるけど実際入ってないし。裏で高校生活謳歌してるタイプだな」
文字面だけを読めば確かにそう。前向きさの欠片もないが、優等生ぶって怒られない程度にやんちゃしているように見えなくもない。多分誰も俺をそうは見ないけれど、早水がそう思うなら悪い気分ではなかった。
「人聞き悪いな」
「お、瀬尾やってんな、って思うだろ。みんな聞いたら喜ぶぞ。話し掛けようにも掴みどころないし、雲みたいな?」
一面を覆うような雲は嫌だ。
澄んだ青色の空に、ポツンと一つだけ浮かんだ雲なら嬉しい。
確か、セレストブルー。
神様がいる空。
「いいよ。あんまり話し掛けられても何話していいかわかんないし」
「俺だけいれば十分か」
「自意識過剰。自己肯定感どうなってんの」
――早水だけでいい。
――早水だけが聴いてくれればいい。
やりたいことリストは放課後までに◯△×の印で評価されて、走り書きで日付や建物の名前、橋の真ん中とか歌詞の一部が書き込まれると、さながら宝の地図か暗号文のようになっていた。
全部は無理としても、いくつかは本当にやるんだろうか。計画倒れで終わるか、早水が飽きて別のことを始めるかもしれない。
――足るを知れ。
自戒しろ。自重しろ。自分にどれだけ言い聞かせても、イレギュラーなことが「当たり前」として続いてしまうと期待する。
「瀬尾ー、音楽室行かねぇの?」
声を掛けるか迷っていると、してもいない約束がしてあったみたいに、青空の広がる方から降ってくる。
もたつく俺の鞄を持って、さっさと教室を出て行く。
合唱部でもなければ、原先生から許可を得ているわけでもない。早水の言葉を借りれば、部活を辞めたっきり帰宅部なのに放課後入り浸っているのは、割と不良なのに、そこにいるのが当たり前のように居場所を使ってしまう。隣をポンポンと叩いて「何してんの、座れよ」と言えば、俺の席まで出来上がる。
魔法使い。
そしてスーパースター。
俺がピアノの前に座ると、指揮台に座るか窓に凭れながら俺の演奏を聴いて、聴いたことがある曲は鼻歌混じりに、知っている曲なら歌い出す。割と大声で。その声が好きで、途中から伴奏にシフトすると俺の顔を見て大きく口角を上げる。
今日は、何を弾こう。
特に思い付かないから、きらきら星をスローテンポで弾いてみる。弾いている内に弾きたい曲が浮かぶから、弾きたい曲に行き当たるまで、テンポを変えたり、アレンジして探るには丁度いい。
ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ……。
最初の8小節を弾いたところで、隣に気配を感じる。
「これは知ってる」
そう言って俺の肩をぐいぐい押して左に寄せると、空いた隙間に捩じ込んできた。
男2人で座るには横長の椅子も狭くて、ずり落ちないように早水の左手が俺の背中を通して反対側の角に置かれた。
習い立ての子どもみたいに、人差し指と中指、時々親指を使って、ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ……と弾き始める。
綺麗に水平に引かれた幅広の二重から、色素が薄く茶色掛かったビー玉みたいな瞳がキラキラと輝いている。
「俺、右しか知らない」
左を弾けと催促されて、いつもより狭い鍵盤に、小さく遠慮がちに両手を添える。
同じフレーズを繰り返す早水に合わせて伴奏すると、嬉しそうに音が大きくなる。
指示記号なんて全くない。
あったとしても見もしない。
早水だけを見て、早水に合わせて、パターンを変える。
途中「ソ、ソ、ファ、ファ、ミ、ミ、レ……」と呟いてみると、何度か音を外しながら16小節まで弾けるようになった。
繰り返しなのは変わらないけれど、主題を一周できると俺の伴奏にも幅が広がる。
遊び心で、早水の腕を潜って高音に手を伸ばすと、「やるじゃん」と言って少し腰を浮かせて場所を作ってくれる。
延々と同じ主題でアレンジを繰り返す。
開けっぱなしのドアから入ってきた女子部員のキャッキャした笑い声と拍手で我に返る。
もう少し弾いていたかったなと思っていると、早水が立ち上がって、どうもどうもと手を挙げた。
夏の音楽室、隣り合って演奏するには蒸し暑く、淡々と伴奏を熟すだけだった1年の夏から、初めて汗を掻いた気がする。
座ったまま、得意げなスーパースターを見上げていると、俺の手を掴んで立ち上がり、そのまま同じように頭上高くに挙げさせられた。
拍手が大きくなった。
ついでに送られるお情けの拍手も、早水のおこぼれなら誇らしい。
青空に浮かぶ雲になりたい。
吸い込まれるようなセレストブルーを引き立たせる白のコントラストになりたい。
――俺は、早水のようになりたい。
夏の暑さに浮かされたみたいに、ぼんやりとした意識の端で子どもの頃に憧れた特撮ヒーローを思い出した。
夏休みが始まると直ぐ、「明日、駅に1時でいい?」と聞いていない予定が入った。
身構えていたことがバカみたいに、早水が飽きることはなく、2日に1回くらいのペースで顔を合わせた。俺のカレンダーは真っ白なまま、早水のカレンダーにだけ俺の分まで予定が書き込まれているらしい。
カフェで課題をする。
タワレコで次弾く曲を探す。
早水のタブレットで人気の動画を観る。
苦手な人混みも、後ろをついて歩けばいいと思うと少し気が楽だったし、気を張らないで済む分、街並みに目を取られて、気付いた早水が「入ってみるか」と手を引いてくれた。入ってみた店が思っていたのと違っても「まぁ、こんなもんだろ」とガチャガチャのアタリ・ハズレくらいのノリで店を出ることができる。
2人でいると、早水は思っていたよりしゃべらなくて、思い出したように話題を振って、満足するとまた静かになる。短いセンテンスで区切って、俺のカデンツァが始まるのを待つみたいに。
待ってはくれても、止めることは許されない。幼稚園バスに揺られて、いつもと違う景色が流れる窓を見ていると期待感と不安感の間で行ったり来たりした遠足の日のような感覚。
「バイトしない?」
唯一許可を取られたのは8月初めの月曜日。
「何で?」
「何でって、お前暑いの苦手じゃん」
「え、あぁ……うん?」
「な?」
いつ、どこで、何のバイトかよりも、何でと問うた俺が悪いのか。早水の思考が、一足飛びどころか2段飛ばし、3段飛ばしで跳躍している。
早水の顔をどれだけ見ても答えが出て来ない。いつも通り予定を入れようと思ったが、外だと暑いから、それでいて時間が掛かるから、バイトする。多分そうだ。
怪訝な顔が諦観の面持ちに変わりかけたところで、一個だけ思い付いた。
「……花火?」
「当たり!」
まだ全然飲み込めていない。花火とバイトが繋がらない。それより何より、クイズのようになってしまっている自覚があったことに驚いた。
「レストランでピアノを弾いてくれませんかってバイト。バイトってか、祝・初案件」
「案件って何」
「動画見た人が、客寄せパンダに俺らを使いたいって話」
ベイサイドの花火大会、オシャレなお店で演奏会。俺が弾いて、早水はホールの手伝いをするらしい。
「早水がやりたいならいいよ」
「何だよ。瀬尾は楽しみじゃないの?海で花火でお祭りだろ。しかも涼しいし。最高じゃん」
楽しそうにしていることが、俺には楽しい。早水のやりたいことリストは勝手に俺のやりたいことリストにされていて、でも、それも強ち間違いではなかった。
「俺も楽しみにしてるよ」
生まれて初めてのアルバイトは、確かに楽しかった。
2人で店のウエイター服に袖を通しながらも、ゲスト扱い。2人だけウィングカラーの比翼を着せられ、色違いのアスコットタイを充てがわれた。
店のウェルカムボードには「せお・はやみミニリサイタル」と書き足されていて、襟足を触られるようなくすぐったいような、気持ちいいような、昂揚感があった。
動画の曲を1曲披露すると、コース料理のサーブが始まった。シュッとした姿の早水は、どこの席でも女性客から声を掛けられると、ここぞとばかりにチャンネル登録させていく。最初はナンパでもしているのかと思いもしたが、スマホを出しているのはお客さんばかりで、最終的には連れの彼氏も旦那さんも、スマホを取り出すから、そういうことかとピアノを弾きながらでもわかった。
メインが運ばれて店内が一息付いたところで、窓の外も店の中も、花火が打ち上がるのを待って静かになる。誰かがひそひそ声で話し始めると、みんなが釣られる。
デクレッシェンドにデクレッシェンドを重ねて、小さく邪魔にならないように、演奏を終えると、音を出さないように、壊れたお猿さんの人形みたいに拍手を取るポーズを送ってくれた。
花火が上がる。
暗い空に明るい光が射す。
ピアノに向いていた視線が一斉に窓の外に奪われる。
大玉が、ドン、ドンと1発ずつ。
「始まった、始まった」
椅子の半分に跨るように、早水が俺の隣についた。
横長の椅子を縦に座ると夜空の花火よりも、後ろの青空が気になって仕方なかった。
高いところから観る花火は、綺麗にまん丸で、こぼれ落ちる火花が消えていく端がどこなのか、いつもより気になってしまう。
記憶の中の花火よりもずっとエモーショナルな光景は、作り物みたいで、だとしたらやはり早水は魔法使いなんだと思った。
「綺麗だなー」
「そうだね」
「ずっと観てられるなー」
「そうだね」
線香花火が儚げで好きだと言う人がいるけれど、終わってしまうことの切なさは、打ち上げようと手に待とうと変わらない。春には、世の中にたえてさくらの、夏には、かれはてんのちをば知らで、と千年詠んだくらいだ。
人より少しだけ、音に感傷的な分、打ち上げ花の方が淋しいような気がする。
「パラパラって光が降ってくるやつ、何て名前なんだろ。筆で空に線を引くみたいで綺麗だった」
赤、緑、黄色、光は重ねるほど見えなくなって、あとはとけてくだけ。
「え、ごめん。どのやつ?大玉?」
「最後のやつ。全然、ずっと観てられてないじゃん」
「観てた、観てた、ずっと観てたって」
「はいはい。ほら、仕事」
膝をポンと叩いて促すと、緩めていた襟元を正して早水が客席に馴染んでいく。
ピアノに向き直る時、椅子についた左手に人肌の温かさを感じて、早水と一緒に花火を観たんだなと実感した。
知る限りの花火と名の付く曲を、寂しくないようにサビばかりを掻き集めて贈り届ける。店を出るお客さん達は皆一様に俺たちに握手を求め、楽しかったと贈り返してくれた。
普段よりも早いらしい店じまいを少しだけ手伝うと、キッチンから労いの料理がテーブルいっぱいに並べられ、窓際の席でお店の人たちが小さな打ち上げを開いてくれる。
花火の代わりに、空の上の方には星が瞬いて、下の方では一層強くビルや遊園地の光が煌々と覗いている。
知らない人たちと囲む夕食は、人見知りと緊張と矢継ぎ早の質問で吐きそうになった。耳の奥がガヤガヤとうるさくて、目がぐるんぐるん回っている。悪意のある言葉なんて一つもないのに、それでも人が多いところは苦手だ。
何も答えられずにフリーズしていると、目の前が真っ暗になった。
気を失ったのかと思いもしたが、目元が温かい。
ところどころ薄らと光が滲んで、あぁ、手だ、と思い当たった。
「眠いなら寝とけ」
視界を奪われ、薄明かりの世界で、5.1サラウンドのように早水の声が俺を包む。察してくれたのか、それとも本当に眠そうに見えたのか、どちらにしても救われた。
「寝ちゃうの勿体なければ、外でも見とけば」
そう言って少し顔を傾かせられた後で開かれた世界は、光源が滲んで一緒くたにされ、曖昧な境界からじんわりと柔らかな光の渦を見せてくれた。星空とも夜景ともつかない、ほんの数秒間だけの景色。
あっという間に終わってしまう夢のような時間。横目に見る打ち上げの様子も、自分にはまるで現実感がなくて、隣の早水との間には分厚いアクリルガラスが敷かれているような気がする。
『こっちのお魚は、あっちの水槽には行かないの?』
いつかの夏休み、手を引く両親に聞いた記憶がある。
狭い水槽で可哀想だとか、みんな一緒の方がいいだとか、そういう気持ちで聞いたわけではなかったが、可愛らしい子どもの発想と流された。
淡水と海水、捕食者と被食者、動きを見るか模様や形を見るか、あっちとこっちできっと違うんだと子ども心に理由を付けた。
楽しげに話している早水の手が俺の膝に置かれて初めて、アクリルガラスなんてなくて、自分もこの中にいるんだと気付かされる。
終盤になると漸く耳が慣れて、まともな受け答えができるようになった。早水は相変わらず愛想良く、俺が返せない球も一緒に片っ端から打ち返していく。イワシの群れを掻き分け、愛嬌良く水槽の淵まで軽やかに泳いでくるハート柄のマンタみたいに。
帰り際、タッパーに詰められた大量の料理と共に、店長さんから店のロゴの入った封筒を渡された。
「振込みより味があるでしょ」と言われて中を覗くと、聞いていたより少し多いバイト代が入っていた。
「初めてのギャラだな」
「違うよ。2回目」
「え?」
「ビー玉、もらった。」
早水が嬉しそうに笑う。
俺も釣られて目尻が下がる。
早水が俺の手を握って大きく万歳をしてから、深々とお辞儀をした。ワンテンポ遅れて俺も頭を下げる。
「ありがとうございました」
揚々とした声に合わせて拍手が起きる。鞄とタッパーが入った紙袋を持った手が重さで軋む。
エレベーターに乗って1のボタンを押すと、終わったのだと実感した。
「これ、いつまで繋いでるの」
早水に握られた手を持ち上げると、お、とだけ発して手が離れた。エレベーターが開くと少し生暖かい潮風が吹いてきて、急に現実に引き戻される。
「お疲れー。またな」
またバイトするのか、また会うのか、また演奏するのか、何も教えてはくれないけれど、改札を潜って互いのホームに分かれるとき、またなと言われると安心できる。
次がある。
もし、次が永遠に来ないんだとしても、次が来るまで永遠に待てばいい。
待つ理由がある。
またなと言われたのだから。
次は何を弾こう。
