青空にふる ー旧校舎西階段の魔法使いー

月曜日の朝は気が重い。正確に言えば、日曜の夕方過ぎ辺りから、下降線を辿る気圧グラフみたいに、ずっしりと後頭部から耳裏のリンパ腺を通って肩まで続く鈍痛のような気怠さがある。

祝日のない1週間は、当たり前に5日間連続して学校があり、周りに合わせて笑ったり相槌を打ったり、何回かに1回は自分から話題を振らないといけない。

神童と持て囃された頃から学校が苦手だ。両親に心配をかけるのも、先生から気を遣われるのも嫌で、馴染めない学校で愛想笑いを続けた。

そんな月曜日の空気が、今は少しだけ軽い。

朝焼けがカーテンをオレンジに染めるのを見届けることがなくなった。

リラックス効果があると聞いて買ったアロマキャンドルが2日で溶け切るようなこともない。

顔を洗って鏡を見る度に映り込んでいた死人のような顔も、幾分か高校生らしい生気を帯びている。

心が躍るとまではいかないが、苦しくない。

呼吸をするのが楽だ。

――学校にはスーパースターがいる。

――窓際を見れば、青空が無限に広がっている。

小学校低学年の一時期、大好きだったテレビアニメが楽しみで、月曜日が大嫌いだけど大好きだったあの感覚に似ている。

教室の手前で8分休符を打つ。立ち止まったようには見られないように、気鬱なリズムを少し崩すために。

「おはよう」

ざっと教室を見渡して、誰にともなく挨拶をしてから、真っ直ぐに机に向かう。

「おはよー」

「瀬尾、おはよ」

「はよー」

今日は幾分か返ってくる声が多い。うっすとか、よぉとか、短い相槌とは違う。

1限の数学が音楽か美術辺りと入れ替えになったのだろうか。それにしては向けられる視線の種類に違和感があった。

鞄を置いて筆記用具やテキストを机の中に決まった順番に並べていく。多分、小学校のお道具箱の並びが未だに尾を引いている。

整理が終わるのを待っていたのか、山田達が俺を取り囲んだ。

「瀬尾ぉ、お前ほんとピアノすごいんだな」

「俺も生で聴きたかったー」

「あれってモールんとこ?」

矢継ぎ早に声が振ってくる。

あの日、クラスの誰かもあの場にいたのだろうと当たりを付ける。

「そう、モールの広場。物珍しいから目に付いただけだよ」

当たり障りのないように、ひけらかすことなく、一問一答、話が広がることのないように。

「いやいやいや、物珍しいだけで10000再生もいかないっしょ」

――イチマンサイセイ。

世界史の中国文化、生物の細胞分野、漢文だろうか。文字列が聞き知った単語に変換されない。

「イチマンサイセイ?」

「急にカタコトかよ」

「え、何?動画?」

反復した言葉に山田達が一斉に笑った。

「ほら、10000再生突破してんじゃん」

眼前に差し出されたスマホの画面には、確かに土曜日の夕方、ピアノを弾く瀬尾の姿が映し出されていた。

「俺?」

「他に誰がいんだよ」

「え、何、ほんとに知らなかったの?」

「このチャンネル、瀬尾のじゃないの?」

自分でなければ他に思い当たる人物は一人しかいない。ピアノから見て右斜め上、モールの2階のバルコニー。画角からして犯人は早水で間違いない。

考えている間に山田達からノリと勢いで詰め寄られる。ただでさえパニックになっている頭の中が、過負荷でショートしそうになる。

わからないことはわからない。

知らないことは知らない。それでも何か返さなければ。

息が苦しくなる。

「おはよー」

山田達とは違う、揚々とした声。

あれほどあった好奇の視線も五月雨式に繰り出される質問も、一瞬にして凪いでいった。最優先事項のように、クラス中が我先にとおはようを返す。

――魔法みたいだ。

教室の空気全部を変えてしまう。レッドカーペットを歩き、両脇から焚かれるフラッシュライトに手を振るハリウッドスターのように早水の前に道ができる。

普段であれば、スターを横目に羨望を向けるだけだったが、今日ばかりはそうも言っていられなかった。

「早水!」

「おぅ、おはよー」

立ち上がった俺の頭にポンと早水の手が乗る。即座に払い除けると、山田からスマホを取り上げ、早水の目の前に突き出した。どういうことだと問うより早く、早水に腕を掴まれる。

「観た?土曜の夜に上げたから、ほぼ1日で10000再生だぞ?お前ほんとすごいな」

頭を撫でくりまわす手から、身を捩って逃げると机の角に足をぶつけてよろめく。一層の非難を込めて早水を睨んでみたが、嬉しそうでどこか得意気な顔が返ってくるばかりだった。

「犯人、お前かよー」

「まぁ確かに友達騙してって書いてるか」

〝何も知らない友達に強引にピアノ弾かせたら天才だった〟

チャンネルアイコンには空色のクラックビー玉が使われ、『せお・はやみ』と書かれている。

「早水のやりたいことって動画投稿だったわけか」

――早水のやりたいこと。

その部分だけが反響して頭の中を埋め尽くす。

早水がサッカーを辞めてもやりたかったことの一部に、自分がいることが誇らしさが感じられた。広大なサバンナに、雨季の青々とした草木が生い茂る風景、ガゼルの群れに迷い込んでしまったニホンジカのようではあるが、悲壮感はない。早水の世界はどこまでも寛容だ。

「せめて事前に言えよ」

「言ったらタイトル詐欺になるだろ。なんとか表示法?に抵触する」

「景品表示法。それ以前にお前の肖像権への意識とネットリテラシーの低さどうにかしろ」

「はいはい、先生みたいだな」

消せとも止めろとも言わなかった。

言ってしまえばそこで終わってしまうような気がして、それと同時に、消さない限り、確かにあの日早水と一緒にいたという記憶が、記録として残る。勲章みたいに輝くビー玉のアイコンが、あの日貰った拍手を呼び起こしてくれる。

「悪かったって。また何か奢るから」

「そしてまた撮るのか」

「お、学習したじゃん。まぁ瀬尾がいいなら?」

「勝手に撮ったくせに」

「だから俺も学習したんじゃん」

始業のチャイムが鳴る。

いいよと返すことができなかった。窓際に去って行く背中を見送りながら、あの空に溶けてしまいたいと思った。

休み時間の度に動画の話題が繰り返される。返事をするチャンスはいくらでもあったように思えたが、どれも上手くいかなかった。早水の他に誰かがいる時に言うのは躊躇われた。

秘密にしたい訳でもない。動画を撮ることが気恥ずかしい訳でもない。

周りに人がいてもいいが、俺の「いいよ」が届くのは、早水が最初であって欲しかった。発した音が四方に拡散して最初に揺らす鼓膜は、早水のものであって欲しかった。

タイミングを掴めないまま、放課後を迎え、運悪く今日は吹奏楽部の手伝いが入っていた。

金管と木管の音が響く音楽室。

チューバの重低音が腹を揺らし、アルトサックスの軽快な音が頭の上を駆けていく。思い思いに練習する中、ピアノに向かって、均一に穴の空いた防音の天井を眺める。

――楽しかったな。

ブラスバンドの音が意識の外へフェイドアウトする。きらきら星が流れ始め、子ども達と早水が笑っている。

何年か振りに感じた充足感を思い出して身震いする。

――もう一度やりたい。

早水の後ろを歩いて行けば、本当にどこまでも行けそうな気がしてしまう。

――早水はスーパースターだ。

ブレザーのポケットからスマホを取り出す。メッセージの欄から早水の名前をタップする。

『忘れてた』

『動画、別にいいよ』

短い文章を、更に2回に分けて送る。

一日中悩んだことが馬鹿みたいにあっさりと終わってしまった。人生は意外と単純にできているのかもしれない。

数秒で付いた既読の文字と、直ぐに送られてきたガッツポーズするキャラスタンプに、口角が上がる。スマホを見つめながら、気恥ずかしさに下唇を指の甲で撫でる。

一人でに微笑んでいたせいか、それとも10000再生の動画のせいか、女子達がヒソヒソ話をしているがそれも気にならなかった。