青空にふる ー旧校舎西階段の魔法使いー

世界に鐘が鳴った。
福音か、警告音かはわからない。ただ、確かに、何かが変わる気配が漂っている。

朝起きて、学校に行って、帰って寝るだけの3拍子。それが1年、2年、3年と続く高校生活を想像していた。

2年の春から学校に来ることがいくらか楽しくなったように思えるのは、紛うことなく早水のお陰だ。

授業が終わると真っすぐ音楽室に向かう。俺が先に入ることもあれば、6限をサボったのか早水が先にいることもあった。

原先生が、暇なら合唱部入らないかと早水を誘うこともあったが、「興味ない」と言って聴くことに徹している。

「早水くんと瀬尾くんが仲いいの意外だった」

「これは仲いいの?」

「放課後いつも一緒じゃん」

「そうそう。お陰で今年は入部者多かったんだから」

話題の方向に目をやると、女子と話しているはずの早水と目が合った。何を言うでもなく、急に大きく手を振って寄越した。

「部活辞めて暇なんじゃない?」

「やっぱり部活で何かあったのかな。瀬尾くんは知ってる?」

ワイドショーみたいな聞き方に少し不快感を覚えた。当たり障りなくをモットーにしてきたはずが、早水のことになると心穏やかにやり過ごすことが些か難しい。

「知らない。直接聞いてみたら?」

話を切り上げ、譜面を閉じる。

終わったとも、帰るとも告げずに立ち上がると、「またな」と取り巻きに手を振る姿が見えた。

――これは、一緒に帰るのか?

鞄を引いてブレザーに袖を通し、ドアに向かって歩き出すと、横に並ぶように早水が歩調を合わせた。

「帰り、何食う?」

「あー……」

何が正解かわからなかった。そもそも帰りに何か食べて帰るような約束になっていただろうか。

多くはないが、帰りに寄り道することも、時折だが休みの日に出掛けることもある。それでも早水ほど脈絡のない付き合い方をしたことはなかった。

場面で、雰囲気的に、そういうことがどうしようもなく苦手だ。

――人生も楽譜のようだったらいいのに。

この人生を作曲した人の意図を知りたい。アニマート、カプリチオーソ、ドルチェ、コン・フォーコ、人生には指示記号が一つもない。

「早水が決めていいよ。特にない」

早水が言い出したことなのだから、こう言ってしまうのが無難だろうと当たりをつけた。

「じゃぁ駅前のバーガー屋。わかる?バス横の。クーポン持ってんだ」

正解だったと胸を撫で下ろす。気が抜けた拍子に表情が和らぐと「瀬尾もバーガーの気分だった?」と早水が満足げに歩く速度を早めた。

早水の正解を引けたことが何となく誇らしかった。

駅前の、と聞いても、ぼんやりとしか浮かんで来ない。ハリボテでも何の問題もなかったハンバーガーショップが、急に立体感を持って目の前に現れた。

「混んでんな。日本人が夜にバーガー食うなよ」

「それ、早水が言うの?」

「俺はいいんだよ。で、何にする?持ってくから、席取っといて」

無限の選択肢が与えられると、正解がわからない。

「ダブルチーズとてりやきと、卵も欲しいな。ポテト……は瀬尾も食う?Lでいい?」

早水が早口になったのを見て、混んでいることを気にしているのだと察した。

「Lでいいよ。俺もてりやきで。飲み物も同じのでいい」

耳に残った「てりやき」を頼むと千円札を早水に渡して、2階に上がる急勾配の階段を足早に登った。

お待たせと言って2人掛けのテーブルの上には、ハンバーガーが4つ、ポテトのLサイズが2つ、色合いからしてメロンソーダらしきドリンクが2つ乗せられた。

「Lって、それぞれかよ」

「シェアしたい派?」

「違う」と返した声が思ったより大きくなってしまい、体温が少しだけ上がった。軽く咳払いして、メロンソーダにストローを挿して飲んでみると、思っていたよりも遥かに甘かった。

「食べ過ぎじゃない?」

「普通だろ。女子でも2個は食うよ」

「早水の前では食べなさそうだけど」

早水の前でもハンバーガーを2つ平らげたという女子は彼女だろうかと思いを巡らせてみるが、自分とは違う世界の話であって、思い当たる女子も浮かんで来なかった。

――この状況は何なんだ。

サッカーを辞めて気まぐれに染めた髪、まだ焼けたままの肌、並行に引かれた幅広の二重。外側も内側もまるで違う2人が小さなテーブルを挟んで向かい合っていることが異質で仕方がなかった。

「何かついてる?」

口元を拭う早水。

「いや別に」と口癖で返すと「見過ぎでハズいわ」と笑われた。

「今度の土曜さ、遊び行かね?」

「なんで?」

「なんでって、休みだし。モールの中にストリートピアノあるじゃん」

「いや、知らないけど」

「なんだよ、知っとけよ。まぁ、いいから、あるんだよ。今度あれで何か弾いて」

「は?絶対ヤダ、なんで」

「俺が聴きたいから」

当たり前のことかのように言われた早水の言葉が、太文字でピンクのラインマーカーを引かれてデカデカと宙を舞っている。

「この前、暇でさ、久し振りに一人で出掛けたら見つけたんだよ。そしたら、なんか、瀬尾が弾いたらカッコいいだろうなって思い付いた。だから聴きたいし、観たい。なんか予定あった?」

半ば強制的な問いに、思うように瞬きもできないでいた。瞳が乾いてギュっと瞼を閉じると早水の顔が焼き付いていた。

――弾くと言ったら、この虚像は笑ってくれるだろうか。

そこまで考えてもまだ決断出来ずに「いや別に」と口籠ることしかできずにいた。

「ならいいじゃん。お礼にその日飯奢ってやるから」

――土曜も会うのか。

結局、わかったとも、やるとも答えない内に早水の会話に流された。ピアノを弾くのが嫌いなわけではない。むしろ求められなくなってからも弾く場所を探して、合唱部やブラスバンドでピアノが必要になった時に手を挙げてきたのだから、求められて弾くという行為は、俺の自尊心には必要なんだと思う。

翌朝、俺の席の前に早水の姿があった。自分の席でもないのに椅子に逆向きに座り、俺の机に上体を持たれながら、雑な字で書かれたセットリストを見せてきた。

「どれがいい?やっぱキャッチーなのがいいよな」

「知らないよ」

「アニメの主題歌なら子どもは寄ってきそうだよな。おっさん向けも入れるか。……おっさんて何が好きなん?」

早水の問いに答える余裕がない。

教室中の視線が俺たち2人に注がれ、居た堪れなさの極地に、今、立っている。

「ほんとに仲良いんだ」と訝しむ声があちらこちらから聞こえてくる。見慣れない取り合わせに、席の主が申し訳なさそうに佇んでいるのを見つけ、早水の肩を叩いた。

「早水、席戻れって。ごめん、すぐ退かすから」

「退かすなよ。モノじゃないっての」

早水は悪びれずにゆっくりと立ち上がる。窓際の席に戻っていく背中を見送ると、見慣れた朝の風景が帰って来るはずだった。

「瀬尾って早水と仲良いんだな」

山田達が嬉々として声を掛けてきた。

早水と仲が良いという事実は、子どもの世界でひとりでに作られた壁をいとも容易く取り去っていった。

「いや別に。今年入ってから急に」

「部活辞めたから?」

「多分……。暇だって言ってた」

「またサッカーやればいいのにな」

「レギュラー捨てることないよな。瀬尾からも言ってやれよ」

――口を出す権利はない。

「言っても聞かないんじゃない?」

心の声は押し殺して無難な答えを返すと、だよなーと全員が納得して各々席へと戻って行った。

週の真ん中、水曜日の朝の一波乱は俺への親しみやすさへと姿を変えた。話すと面白いとか、意外とノリがいいとか、明らかに早水バイアスの掛かった印象が独り歩きして、孤高の芸術家気取りから、一風変わったクラスメイトに格上げされた。

――早水は魔法使いみたいだ。

ストリートピアノ、弾いてもいいと思った。

既に選択肢は奪われた後だったけれど、弾かされるより、ずっといい。

***

土曜日の朝は気持ちが晴れやかだ。誰に気を使う必要もない。

次の日が日曜日だというところも、また良い。

終わらない禅問答に夜空が白んで、カーテンの向こうが透けて薄ぼんやりとオレンジに染まるまで眠れなかったとしても、問題がない。

親の教育の賜物か、初対面の印象は悪くない。キョドったり、押し黙ったりすることもない。人に合わせるのが得意。

正解を出すために考えを巡らせる行為が、どうしようもなく嫌い。

嫌いなことが、得意。

いっそ得意じゃなければ、学校から帰ると疲れ切って、ぐっすり眠ることもできるのに、効率よく、無難に熟してしまうから、嫌だという記憶だけが残って、不完全燃焼の体で眠れないまま、朝が来る。

今日はどうなるだろう。

何時に家を出よう。

服は何を着よう。

行ってすぐに弾くんだろつか。

そこまで考えたところで、待ち合わせの時間と場所以外、何も聞いていなかったと思い当たる。

『早水と仲良いんだな』

――本当にそうなんだろうか。

――そういえば連絡先も知らない。

白と黒と、ネイビーにグレー、僅かにブラウンが差し込まれるだけのクローゼットを開く。色味と濃淡で順番に並べられたシャツ。

昔は違った。

同じモノトーンの衣装でも、可愛らしく襟元をプリーツであしらったシャツに、落ち着いた翠緑のボウタイ、黒のピークドラペルに揃いのハーフ丈のパンツ。

顔より大きいトロフィーを持たされ、フラッシュライトの点滅で気分が悪くなった。最優秀の2位を取ったというのに「ありがとうございます」と答えるのが精一杯だった。

その姿を、メディアは「2位に妥協しない天才少年の貫禄」と囃し立て、瞬間的に発生した熱狂者達からは「憂いを帯びた眼差し」「ピアノの王子さま」と謎の通り名を与えられた。

――みんな、直ぐにいなくなったけど。

プリーツもフリルもない、バンドカラーの白シャツに手を伸ばす。

これでいいやと投げやりな気持ちと、早水の隣を歩いて無様になりたくない気持ちが並び立った。伸ばした手がすんでのところで僅かに終着点を変え、二つ隣のサイズの大きなフライフロントに止まった。

スマホを取り出し直ぐに検索する。

〝着こなし オーバーサイズシャツ 高校生 メンズ〟

ポップアイドルのお手本のような同年代の男の画像が並ぶ。

〝着回しコーデ術〟

〝白シャツの透け感を活かす〟

――日本語で書けよ。

悪態を突きながらも自分のスペックとクローゼットで出来そうな服を探す。奇しくも何年か周期で繰り返す今年の流行はモノトーン。

シャツの色もパンツも画像とは少し違うけれど、少なくとも高校生が持っていておかしなアイテムでないのなら、それで良かった。

「大丈夫」

鏡の中の自分に言い聞かせる。

使い慣れないワックスを手に取り、またスマホで検索しながらセットをしてみるが、最早剛毛と言っても過言ではないストレートの髪は、左右に少し流して膨らみを持たせるのが限界だった。

――上手くいかない。

自分の不甲斐なさに歯噛みしながらも、トータルで見ればそれなりになった気がして満更でもなかった。

学校指定の制服をきちんと着込み、シャツの裾を出すことはない。ベルトも黒か茶色の革を使い、シャツの第1ボタンとネクタイだけは、みんなに合わせて緩めている。

そんな自分がファッション誌を真似てアレンジしてみているのだから、今日はいつもの土曜日よりも浮き足立っている。

「行ってきます」

広く静かな家の玄関に声が溶ける。

リビングやキッチンにまでは届かない。

届いたところで返ってくる声もない。

重厚な扉が閉まると、行ってきますよりも大きなガチャンという音がして、内と外が隔てられた。

少し風が強い。

それなりになった髪も、早水に会う頃には解けてしまう。

それなのに足取りは軽やかだった。アレグロというより、今日のこれは120BPM。

駅に着いたところで10分待った。

電車を1本乗り過ごせばその程度当たり前のことだが、連絡先を知らない以上、何故遅れているのかわからない。

――すっぽかされたか。

短い時間に何度考えたかわからない。その度に早水は大雑把だがそういうことをする人間ではないと打ち消す。

打ち消すと今度は何かあっただろうかと考える。流石に事故ではあるまいと思いつつも、スマホの検索履歴には『事故、確率』と記録された。

「いたいた。何でこっちにいんだよ」

「早水が中央改札って」

「中央改札だった?」

「だった?ってなんだよ」

「言った時の俺の気分が」

「知るか」

殴ってやろうかと思った。

「まぁまぁ。会えたからいいだろ」

早水が笑う。笑った視線が俺の顔に向けられ、頭から足先まで、スッと下ろされる。

「何?」

「何でもねー。行く前になんか飲むもん買お」

早水が一歩前を歩き、後を追う。

苦手な人混みも、目印があれば歩き易かった。見知らぬ都会の駅も親に手を引かれて歩けば楽しい旅程だったし、大観衆のホールも観客席の通路後ろの席に両親、祖父母の姿を見つけると自宅の練習室のように安心できた。

あれに似た感覚。

「俺、コーラ。瀬尾は?」

「自分で出すよ」

「奢りっつったじゃん。今更弾かないはなしだからな」

「じゃぁ、俺も同じで」

紙カップを手にしながらしばらく店を見て歩く。お気に入りの店、気になっている店、欲しいけど値段が高くて手が出ない店、一軒一軒眺めながら早水が話して回る。何が好きで、どんな服を着て、どんな部屋で過ごしているのか、俺の脳内で、早水のイメージが精彩さを増して行く。

きっと物が多いだろう。好きな物、好きな色で溢れているに違いない。辞めたサッカーも、隅に追いやられることはなく、堂々と壁にボールが飾られていて、好きな選手のポスターもあるかもしれない。

――早水はそういうやつだ。

ありありと想像して笑った。

「何だよ、変か?」

「変だよ、魚捌いてる動画ずっと観てるって」

最近ハマっているらしい様々な魚を捌く動画の話だった。初めはスマホで見ていたが、ハマってからはパソコンに全画面表示して観ているらしい。巨大魚も小魚も、包丁が吸い込まれるようにして入り込んでいき、あっという間に三枚に下ろされる様が美しいと熱弁している。

俺に理解できたことは、自室にパソコンがあることと、ハマると熱いこと、それから早水が少し変わっているということ。

「寿司食いたくなって来た」

「奢ってくれんの?」

「無理。流石に予算オーバー。絶対ダメ」

絶対ダメと言いながら、完全に寿司の口になっただの、回ってる寿司ならいけるかなだのと独り言を繰り返している。割り勘でもいいよと言ってみても、奢るという部分だけは決して譲ろうとしない。

「1皿100円のとこならいけるんじゃない?」

「え」

驚いた様子で早水が振り返る。何に驚いてるのか見当が付かず、眉間に皺が寄る。この前のハンバーガーでも500円はしたはずだ。

「100円の、知らない?早水ってお坊ちゃん?」

「ちげーわ。うち、父子家庭な。瀬尾が100均の回転寿司知ってんのが意外」

なるほどと思った。傍目から見たら子どもの頃からピアノの英才教育を受けて来た人間が回転寿司で家族と並んで皿を取っているイメージはないんだろう。むしろ、食べた皿をレーンに戻すと思われていたかもしれない。

「家に誰もいない時に何回か入ったことある」

過不足なく事実だけを告げると、「そっか」とだけ返事が返って来た。

「寿司、一人では行ったことはないな」

「やってみたら」

「だな。楽しそう」

一人の食事のどこに楽しさを見出したのかわからずに早水の顔を凝視する。

「炙りサーモン20皿取ってもいいんだろ?最高だな」

父子家庭だと言っていた。早水も一人で食事することが多いんだろうと察したが、同じ一人でも、主人公が変わるだけで、孤独か自由か、まるで色彩が異なることを知った。

「早水はすごいな」

「瀬尾はちゃんと選んで食いそうだもんな」

「そうじゃなくて……いや、やっぱり食べ過ぎだな」

「育ち盛りだからな」

「横に育ちそう」

「食った分動いてっから。むしろ、食うために動いてるまである」

「部活辞めた分、ちゃんと計算に入ってんの?」

「あー……そこは大丈夫。最近は毎日頭使ってるから、まぁ、トントン?」

「音楽室で女子と話してるだけで?」

「うるせー。それが重要なんだよ」

コーラを口に含むと、メロンソーダよりも炭酸がキツかった。甘さも3割増しに感じられる。子どもの頃に飲んだ時はシュワシュワしていて、美味しくて仕方なかった記憶があるのに、どこが好きだったんだろうか。

早水の見たい店を一周すると、通りの先に広場が見えて来た。

奥の方からピアノが聴こえる。

近付くに連れて、ピアノの音に合わせて、「きーらーきーらーひーかーるー」と子どもの声が聴こえてくる。

音がまっすぐで、楽しそうで。

――ピアノを好きな人の音だ。

こんな音をいつから出せていないだろうかと考え始めて、行き着く前に考えるのをやめた。

「瀬尾!」

螺旋状に降り続ける思考の波が、不意に打ち消されて視界が開ける。

三階まで続く吹き抜け。天窓から光が差し込む広場の真ん中に、グランドピアノが見えた。

ご自由に演奏ください。

「これこれ。ここでさ、弾いて欲しかったんだよ」

いいじゃんいいじゃんと言いながら、円筒形になった広場を歩いて回る。

下った思考の螺旋階段から手ずから引き上げてくれる。触れてもいない早水の手が柔らかく温かいものに感じられた。

「どこがS席かな」

「S席って大体前の方じゃない?」

「じゃなくて、音と見映えがいいとこ」

子ども達の演奏を聴きながら、広場をグルっと見渡す。2階から張り出したバルコニーが目に入る。

「あそこかな。ここ、吹き抜けだから」

「おっけーわかった」

「何が」

「俺、あそこで聴くから」

早水が空になったコーラの紙カップを奪う。指の背で俺の背中を押してピアノの方へと突き出された。

「俺、一人で弾くの?」

公衆の真ん中、一人でピアノに向かう。

子ども達の愛らしい演奏を微笑ましく聴く買い物客はどんな反応をするだろうか。

「瀬尾って、割と自意識過剰だよな」

――こんなに不安なのに?

「お前、注目されるのヤダなとか考えてるだろ?バーカ、俺しか聴いてねーよ。金払って聴きに来てる客じゃないんだ」

「……そんなこと考えてない」

そう言ったところで耳が熱くなった。子ども達の演奏が終われば立ち去るだけだ。ピアノが好きな客がいれば何人かは耳を傾けるかもしれない。それでも一曲丸々は聴かないだろう。

「わかったよ。弾けばいいんだろ」

早く席に着けと早水を手で払う。エスカレーターを登っていく背中を見送ったところで、子ども達の演奏が終わった。歌っていた男の子が、「お兄ちゃん、ピアノ弾くの?」と声を掛けてくれた。

――お客様が一人増えた。

少し嬉しくなる。

コンクールに出たことはある。ガラコンで演奏したこともある。だが、ソリストとして舞台に立ったことはない。満員御礼、チケット完売と煽り文句が並ぶのは、この幸福感の延長線上にあるのかと思うと、昂揚感が胸を騒つかせた。

「弾くよ。好きな曲はある?」

リクエストを求めると、子ども達がもじもじと顔を見合わせた後、声を掛けてきた男の子が曲の代わりにアニメの名前を言った。

先週お父さんと映画を観た。

誰々ちゃんも今日観に行っている。

誰々くんは2回も観に行った。

一気に溢れ出して、子ども達の波に飲まれる。この子達は月曜の朝も楽しいんだろう。

「それにしよう」

そう言うと、子ども達がダダダっと駆け出して、訓練されたように鍵盤を避けてピアノの両脇に陣取った。

設置されて間もないのか、クッションの柔らかな椅子に座る。

2階のバルコニーを見ると、梁に肘を乗せて前屈みになっている早水の姿があった。

スマホを取り出して、こちらに親指を立てて合図を送ってくる。

――全部お前のペースかよ。

渋々鍵盤の上に指を這わせると、小さな観客から拍手が送られた。

指先が印象的なイントロを奏で始める。

音の合間で、知ってる!と小さな歓声が上がる。

低音のパッセージが終わり、メロディラインが始まると、また小さな声で上手だねと賛辞が贈られた。

――早水はちゃんと聴いているだろうか。

――褒めてくれるだろうか。

〝ご自由に演奏ください〟

『ガキはアニソン喜ぶだろ』

『派手なやつがいいな』

『聞こえたやつ全員立ち止まるようなカッコいいやつ』

――どっちがガキなんだか。

一番のサビが終わり二番に入るところで装飾音をこれでもかと増やした。左手の和音を分解してオクターブずらす。鍵盤の上を指が飛び跳ねるように派手に。

大サビを迎える。

――早水は楽しんでくれているだろうか。

曲が終わり、子ども達が拍手をくれる。

嬉しい、と思った瞬間、何かが割れたような音が鳴り響く。

我に返って広場を見ると、いつの間にか集まっていた人だかり。買い物籠を持った人、ベビーカーを押す人、家族連れやカップル、二階からも音が聴こえる。

子ども達に釣られて大人達も手を叩いている。

理解できないまま、助けを求めてバルコニーを見やると、早水が大きく手を振っている。

振っていた両手が大きな丸を作ると、正解だと言われた気がして安心できた。

拍手に何か返さなければと、立ち上がり、深々と頭を下げる。

「ありがとうございます」

恐る恐る発した声は、近くにいた子ども達にも聞こえないくらい、か細いものだったが、自分の中には反響して体中に染み渡った。

「もう一回弾いて」と女の子が声を掛けると直ぐ、バルコニーからも「もう一曲!」と大きな声が広場に響いた。

周囲が大きな拍手で同意を示す。

〝お並びの方がいる場合はお一人一曲まで〟

列を振り返る。

並んでいない、というより、並んでいた人も今はオーディエンスに変わっていた。

もう一度お辞儀をしてから、アンコールに応えるため、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。

何を弾こうか。

早水と子ども達だけじゃない。足を止めてくれた人も知っている曲。

ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ……。

「きらきら星だ」

最初は子ども達と同じく単音で。

主題を終えると次は変奏曲。

次は変調子で。

次は左手のパッセージを強く。

次は主題を左手に移して。

次は主題をアルペジオに。

最後は倍速にして音色豊かに。

弾き終えて、余韻を残しながら指を離すと、また広場が滝のような拍手に包まれた。

――楽しい。

ピアノを弾く理由は、両親が喜んでくれる、その一点だった。

土曜日の昼下がりは気持ちが充足感に溢れていた。

「すみません、すみません、ちょっと、通して」

人混みの奥から声が聴こえる。

人影が右に左に避けて行き、間を掻き分けて早水の顔が見えた。

どうだった?と声を掛けるより早く、俺の視界全てが早水の腕に包まれた。

「お前やっぱすげーな」

あの日以来見ていない、俺だけを見てくれる優しい眼差し。

賛辞の言葉と共に、幼子や飼い犬にでもするように頭をわしゃわしゃと撫でられた。

折角整えた髪が無惨に掻き乱されていく。

気恥ずかしさから視線をこれ以上、上げることができない。それでも、褒められていることは嬉しくて、この手を払い除けることもできずにいた。

そんな光景が微笑ましく思われたのか、周りからまた拍手が贈られた。

立ち上がって360度、順に頭を下げる俺の隣で、自分の手柄のように得意げに早水は立っていた。

少しずつ散開していく聴衆を見送りながら、広場を後にすると、不意に早水に呼び止められた。

振り返ると、先ほど一緒にピアノを囲んだ男の子が小さな手のひらにビー玉を乗せて差し出してくる。

「お兄ちゃんにあげる」

空みたいな青色が、ビー玉の中で弾けたように光っている。

「いいの?」

「今日のギャラだな。良かったじゃん」

しゃがんでから、ありがとうと両手を差し出すと、小さな手のひらからビー玉が2つ、乗り移った。

男の子の頭を撫でてやると得意そうな顔をして控えていた母親の元に駆けていった。小さく会釈を交わして、また歩き出す。

握った手の中にある小さな丸い、ただのガラスが、どんなトロフィーや賞状よりも誇らしい。

「はい」

ビー玉の一つを、指先に乗せて早水に差し出す。

「いいの?」

「誘われなかったら、貰えなかったから」

実質早水がくれたようなもの。二つあるのも、きっと元から早水と半分こするように決まっていたから。

筋張った指が俺の手からビー玉を掬い上げる。

早水の顔によく似合う、空色のビー玉を、天井の照明に翳して覗き込む表情は、さっきの男の子のようにどこか得意げで、これが正解なんだと、太陽みたいな花丸を描いてくれる。

今日の礼にと二人で入ったのは、結局寿司屋ではなくファミレスで、奢られ慣れていない性分から加減がわからずメニューを決め兼ねていると、早水が一人分とは思えない量のメニューを選ぶ。その中から同じデミグラスのハンバーグに決めて、折角だしと紛れ込ませるように、目玉焼きを乗せた。

「ドリンクバー、何にする?」

「早水と同じやつでいいよ」

決まり文句のようなやり取りの後、テーブルにはやっぱり甘い炭酸水が置かれた。おかわりは自分で取りに行こうと心に決めて、代わりにメロンソーダは食事が来るまでに、貰ったビー玉を指先で弄びながら飲むことにした。

テーブルにお皿がいっぱいに並んでいると、それだけで幸福感のバロメータが上がった気がして、向かいの席に人がいるのを確認するとその数値はまた上昇する。

こんな土曜日が、あと100回続いてくれたら、俺の高校生活は勝ち越せるのに。

帰ったらまた、きらきら星を弾こう。