青空にふる ー旧校舎西階段の魔法使いー


「井上、D組の由美ちゃんと付き合い始めたってよ」

「はーい、山田、ご愁傷様ー」

スクールカーストの上の方、窓際の席が良く似合う男子たちが、ケラケラと笑いながら部活仲間の恋話に花を咲かせる。

「うるっせー」机に突っ伏したまま、くぐもった声が腕の隙間から漏れ聞こえてくる。

「で、また魔法使い?」

バスケ部の小原がもう一つ後ろの席から声を掛ける。穏やかな表情とは裏腹に、含みのある装いを見せる。

「うるっせーってば」僅かに上向いた前髪から不貞腐れた瞳が透けて見える。

この学校には魔法使いがいるらしい。

旧校舎の頭に「旧」の文字が付くより前から。

誰が言い出したかは知らない。

SNSを回り回って、学校中に広まっている。

「ねぇねぇ、聞いた?由美、井上くんに告られたって」

恋話は学園生活の花。必ず一面に上がる。まして魔法使い案件ともなれば、一面のトップにデカデカと、フルカラーで、尾鰭も背鰭も胸鰭まで付いて、瞬く間に広まっていく。

「聞いた聞いた。山田くん、また失恋だってさー」

ね、と窓際に向けて声を投げると、盗み聞きすんなよ、と返ってくる。

内緒ならもう少しボリューム抑えなよ。余計なお世話だ。自分たちはこんなに楽しんでいると世界に向かって嘯いている。

憂鬱な一限までの朝の時間は、寝起きの気怠さからも一時だけ解放され、この世の全てが若者の為にあるような燦々とした輝きを放っている。

「おい、瀬尾、今日遅えじゃん」

「遅くない、朝練」

部活やってたっけ?と失礼な言葉に、俺はまだ青春の輝きに溶け込めないまま、生欠伸をしながら机に鞄を投げ出した。

朝起きて、学校に行って、帰って寝る。

均一な3拍子。

タンタンタン、タンタンタン。

単調で、短調なワルツが続く。

「伴奏の手伝い。合唱部、来週末大会だから」

椅子に腰を下ろすのと同時に上半身を鞄に預けて瞼を閉じる。

「ピアノ弾けんの?」

「今更かよ、知らねーのか。瀬尾を誰だと思ってんだよ」

頭の上を聞き古した他己紹介の言葉がキャッチボールされる。

古澤征一記念音楽コンクール・ピアノ部門第2位最優秀賞(1位該当なし)。

中学2年生の快挙はニュースでも大きく取り上げられた。メディアの煽りを受けたコンクール後のガラコンは、クラシックには異例のダフ屋が横行し、最前列のチケットは定価の5倍にまで膨れ上がった。

「ただの伴奏」

聞き古した他己紹介がどこに着地するのかを知っている。

同情や憐憫、一体どこから来るのか、上がって落ちた者への優越感、気にしないフリも沈黙も全てが嫌だった。

温厚な父と他所の御家庭よりはやや過干渉な母、過保護な両親に加え、隣家に住む祖父母から、抱えられないほどの愛情を注がれて育った。

余程高価なものでもなければ、誕生日やクリスマスでなくても買い与えられた。母が弾くピアノを子守歌代わりに育ち、物心付いたころにはモノトーンの八十八鍵の前で、床に届かない足を揺らしながら、人差し指で叩いて音を鳴らすことを楽しんでいた。

他の子より早く、両手で演奏ができるようになると、両親はピアノの部屋の壁材を防音に張り替えてくれた。

家族に不満などない。

あるはずがない。

ピアノだって、上手いねと褒められることが嬉しくて、聴かせてとせがまれることが心地良くて、自分から望んで没頭した。自分が世界の中心に立っているという実感だけが、いつの間にか肥大した自尊心を満たしてくれた。

結果的に言えば、話題になったガラコンを最後に天才少年のカテゴリから俺の名前は消えてしまった。

興奮冷めやらぬ中、ステージから袖に履ける直前に俺の意識は暗闇に沈んだ。

身体を壊すまで愛する我が子にピアノを弾くことを強いた。戒めであるかのように、退院した日から、両親はピアノのことを話さなくなった。

それ以来、俺の世界にかけられる音量は、耳鳴りがするくらい静かになった。

これでいい。

求められないのなら、求めてはいけない。

足るを知れ。

「はよー、なぁなぁ聞いた?由美ちゃん井上と……」

テンポが変わる。

タンタッタン、タンタッタン。

ウインナワルツが聴こえる。

素っ頓狂な――禅問答の海の底まで届いて、教室の天井を空まで押し上げるような――早水(はやみ)の声。

その話とっくに終わった、と周囲がドッと笑いに包まれる。

整然と繰り返すワルツを、足早な第2拍が軽やかに乱していく。

「知ってんのかよ。つまんねー」

目の前の椅子が引かれる音。ガタッと軋むのと一緒に、俺の髪が緩く沈む。

体温が上がる。

胸の鼓動が早くなる。

触れられた瞬間の身じろぎを気付かれはしなかったろうか。

乗せられたこの手は、払い除けるのが正解だろうか。眠そうに起き上がるのが正解だろうか。何のことはないただの戯れだとチャイムが鳴るまで待ってもいいのだろうか。

「お前、瀬尾のこと雑に扱いすぎ」

「女子に怒られんぞ」

――余計なこと言うな。

「雑じゃねえし。褒めてんだよ、なあ」

――これはご褒美。早起きは三文の徳。

返事をしないでいると、早水の指が俺の髪をゆっくりと梳いていく。深く濃い色合いの髪から、不健康にも思える白い肌が晒される。

「朝練だろ?合唱か、ブラバン……今日は合唱か」

「おいおい、お前、瀬尾のスケジュール把握してんのかよ」

「いや、時期的にそうだろ。生真面目が教室で寝てんだし、朝早かったんだろ」

「キモっ。逆にキモっ。なんだよ、その以心伝心感」

ウインナワルツが流れるうちに、早水の小指が髪の合間を滑って耳裏を掠める。

思わず小さく声を漏らすと、観念して上体を起こした。乗せられたままの早水の手の平が重力に引かれて顔を撫でた。

できるだけゆるやかに――レントではなくアダージョで――この胸の高鳴りを決して悟られることのないように。

「っ……」

眼前に早水の顔があった。

幸福な目覚め。

――天国か。

――いや、地獄かも。

慌てて椅子を引くと、後ろの机に触れてガシャンと耳障りな音が破裂した。

「その反応は失礼過ぎんだろ」

また笑い声に包まれる。

「起きてすぐ、ニヤニヤしてる顔あったら、ビビる……」

「俺、カッコいいだろ!寝起きでも見たい、むしろ寝起きに見たいだろ」

笑い声を掻き消すようにチャイムが鳴る。フェードアウト、フェードイン、そしてクスクス笑いのリフレインが続く。

意識しても泳いでしまう瞳がくすぐったくて、登校した時のまま、凹んだ鞄の上、置きっぱなしの譜面に視線を落とした。

――もっと褒めてほしい。

この感情の始まりの音は、高校2年の春、始業式の日から続いている。

***

2年の春、始業式の日。

知らない顔、知っている顔、聞いたことのある名前、線に見える点線に、点と点に見えていた実線。

校門を潜ると、50m先の制服の群れが目に付いた。

池に餌を撒いた瞬間のコイみたいに、ジャンプしたり、大きく口を開けて笑ったり。何人かは笑顔の端に落胆を覗かせていて、それが作り笑顔だったんだとわかる。

一緒のクラスになりたい友達、なりたくないやつ。

反対の際から、餌場を覗く。

瀬尾(せお)響佑(きょうすけ)の文字列は、横縦縦横と伸びて、一番目と三番目がギュッと詰まっていて見つけやすい。

あ行と、か行の苗字は思っているよりも多くて、せ、の前に佐藤、鈴木が割り込むと、いつも名前順は半分より少し後ろ。

2年A組。

それだけ確認すると、番号のところに靴をしまって上履きに履き替える。

新年度の初日から、廊下を颯爽と駆け抜け、職員室に走り抜けた生徒は陸上部とか野球、サッカーみたいな、いずれにせよ高校生活における花形の人種で、馴染みがない。

静かに教室に入ると、何人か見知った顔が「おはよう。同じクラスだな」と声を掛けてきた。

「だな。よろしく」と返すと、彼はまた元の輪に帰っていく。

鈍色のフレーム越しに見る空は、折角の晴天だと言うのに、とても狭くて遠い。中世の精神病棟の、窓のない部屋に施された絵の具の空みたいに重たく見える。

空は光の屈折で青く見える。

光は重ねれば重ねるだけ透けていくのに、絵の具やクレヨンで重ね書きしたみたいに厚くて重い、窓越しの空。

あ行から始まるカウントダウン。

名前を覚えていないと、後々困った事態を引き起こすから、顔と、席と、名前だけには耳をそば立てる。趣味や部活の話は要らない。

ギー、自己紹介、ガタン。ギー、自己紹介、ガタン。

タンタンタン……。

学校はつまらない。

家にいてもつまらない。

ピアノの前は、面白くはないけど、余計なことは考えなくて済むから嫌いじゃない。

作者の意図、という名の指示記号に従っていればいい。

ギーと椅子を引いて立ち上がる。

「瀬尾響佑。部活は入ってません。合唱部とブラバンの手伝いを時々。よろしくお願いします」

歩くような速さで――モデラートではなくアンダンテで――落ち着いて、無難に、卒なく。

元・天才少年。

腫れ物に触るように遠巻きにされるくらいなら、自分から『ピアノ』と言葉にしてしまえばいい。

「あぁ、辞めたんじゃないんだ」と分かればそれで終わり。

その程度。

かと言って、意味がないとわかっても、今の今まで続けたことを投げ出せる人間なんていない。

――誰でもいいから、俺を褒めて。

演奏を終えるといつも虚無感に襲われる。

海か山か、何もない広いところで、何も考えずに眠りたい。

「早水(はやみ)駿(しゅん)。好きなのは肉全般と固めのグミとラッドとバンプと、あとデカめの服。それとマンガ」

揚々と響く声が、オフにしていた心のスイッチを殴り付けるようにオンにする。

ビクッとして、一瞬寝落ちした時みたいに心拍数がハネ上がった。

「特技は歌うのと……」

「サッカーは?」と、通路側のオシャレ坊主が合いの手を入れた。

サッカー部。花形だ。

「辞めた。さっき退部した」

「はぁ?」という大音量と共に教室中が騒ついている。

先生含め全ての視線が早水に注がれる。

釣られて早水の顔を不意に見てしまう。

見るからにスクールカーストの上の方。席替えになれば自然と窓側後列の席が用意される。

どこの分かれ道をどう選択すると、ベルトのバックルだけ取り替えて、着崩すためのネクタイの結び方を学べるんだろう。

「10年?か、そんくらいやって満足したし、他にやりたいことできたから」

オシャレ坊主が「レギュラーだろ?」と驚嘆の声を漏らす。

10年。

2年の春にレギュラー。

どうしてそんなにあっさりと投げ出せるのか。誰も褒めてくれなくなっても、辞めることもできずにいる自分には、思考の殻の外の世界に思えた。

――こんな風になれたらいいのに。

真っ直ぐ前を見てヘラヘラしている視線と、目が合いそうで合わない。

俺はきっと別の物語の登場人物。

関わることはないけれど、高校2年の1日目は、少しだけ面白かった。

始業式を終えると、購買で買ったタマゴサラダじゃない方のタマゴサンドと楽譜を手に音楽室に向かう。

音楽の原先生が、合唱部の伴奏と引き換えに自由に使わせてくれている。

角部屋の音楽室からは、人がマッチ棒みたいなグラウンドと、ひっそり佇む旧校舎が一緒に見えて、モノポリーみたいで気に入っていた。

旧校舎の西階段、魔法使いの信者が今日も足繁く祈りを捧げている。小さい頃、おまじないは女の子のものと思っていたけれど、黄昏時にこそこそと、他力本願に恋愛成就を願うのは割と男の方が多かった。西陽は分け隔てなく、奥手な男子生徒の顔を濃い陰影で覆い隠し、秘めたる恋に手を貸している。

恋をすれば、つまらないと思う暇もないくらい、今日が愛おしく、明日が待ち遠しくなるのかと考えたりもしたが無理だった。

思春期を過ぎても、異性にも、同性にも、そもそも他人に興味が持てない性質だった。心臓病と一緒に名前が付くほどには。

早終わりの始業式、今日は合唱部もブラバンもない。まだ、空がオレンジに変わるには少し早い。

疎なグラウンドを横目に、何を弾こうか考えてみると、CMで聞いた映画の主題歌が頭を過ぎった。

「タイトル、なんだっけ……」

印象的なイントロのリフをゆっくりと指でなぞる。

音を探るようにしながら、テンポを合わせていくと、鈍色の窓枠も、重たい空も、意識の外側に押し流される。

左手を足して、うろ覚えのメロディーを奏でると自分だけの世界に浸ることができる。

――早水は何で辞めたんだろう。

――何でやめることができるんだろう。

――褒めてくれる人がたくさんいるだろうに。

早終わりの始業式の日、放課後に一人、センチメンタルを拗らせて弾くにはいい選曲だと思った。

うろ覚えで、テキトーで、好き勝手に弾いているのに、どうしてか落ち着く。

「何弾いてんの」

また、俺を呼び戻す声がした。

ただ、朝のように心拍数がハネ上がることはなかった。

声がするのがわかっていたみたいに――カルマート、穏やかに。

演奏が止まると、音楽室だけが世界から切り離されたみたいに静かになる。

今度は、早水と目が合った。

「タイトルわかんない。なんか、有名な映画のやつ」

確かそう。

「瀬尾も好きなの?」

「ごめん、これしか知らないから」

「何で謝ってんだよ」

「今朝、好きだって言ってたから。にわかじゃ悪いなと思って」

「ファンはにわか見つけるともっと引きずり込もうとすっからいいんだよ」

何年も前からこうしてたように、当たり前みたく笑いながら音楽室に入ってくる。

「続けろよ。俺、聴いてるから」

斜め掛けしたスポーツバックを脱ぎ捨て、置きっぱなしにされた指揮台に腰を下ろす。寝そべったまま、もう一度、と気難しい指揮者のように催促してくる。

聴いてくれるのだろうか。

間奏、もう一度あのリフを弾く。

メロディーラインが始まると、小さな鼻歌が聴こえてきた。

サビに入ると、鼻歌は途切れ途切れの歌詞に変わる。

早水の解釈と一致しているか試されているようで落ち着かない。でも、悪い気分ではなかった。

最後の和音を終え、ペダルから足を離す。

演奏後に誰かの表情を窺う時の、期待感を味わうのは久しぶりだった。

「早水……?」

ピクリともしない早水に不安が募る。気に入らなかっただろうか。伴奏にして歌わせた方が良かったろうか。

そうこうしている間に急に電源が入ったおもちゃみたいに早水が飛び起きた。

「悪い。お前、すげーな」

「言う程のもんじゃない」

良かった。

胸を撫で下ろす。誰かに聴かせるというのは、こんなにも感情を揺さぶられるものだっただろうか。

「いや、すごいよ」

「だから、そんな大した……」

「俺がすごいって言うんだから、すごいんだよ」

絶対的な全肯定。

誰かと比べて上手いとか、解釈がどうとか、議論の余地もない程に強く。

初めてエリーゼのためにが弾けた時、両親がすごいすごいと撫で回してくれた時のように。

早水の言葉が、置き去りにされたあの日の俺を暗がりから連れ出して、痛いくらいに抱き締めてくれる。

「明日は」

「明日?」

「お前が好きな曲、聴かせて」

明日がある。

次がある。

あっという間に去っていった背中は、吹き抜ける春の嵐のように俺の世界を一変させた。

乱暴な春風を見送った先の窓には、綺麗な青空が広がっていて、教室で見たのとはまるで別の世界に続いているように思えた。

次は何を弾こうか。