青空にふる ー旧校舎西階段の魔法使いー

3月9日、晴れ。

コートを脱ぐにはまだ少しだけ肌寒い。

長く続いた冬の間、首元を彩り続けた思い思いのマフラーはもうない。

いつもは冗長で退屈な校長の挨拶も、鼻について聞こえる元・生徒会長の答辞も、今日はどこか名残惜しいような気がした。

学校という箱庭に押し込められて、身動きの取れない両手脚を必死にバタつかせ、何に対してかはわからないけれど、取り敢えず誰彼構わず反抗してみせる時代が終わりを告げる。進学するんだから、学生という肩書きはもう少しだけ続くけれど、それは人生最後の長いモラトリアムに貼り付けられるラベルの文字列であって、こそばゆいような淡く儚く、得難い、人生の全部を賭けたような青春時代に与えられた役柄とは違うんだと思う。

「ずっと友達だよ」と女子が肩を抱き合いながら泣いている。

黒板に白、赤、青、黄色、緑、全部のチョークで描かれた卒業アートは、彩りに溢れた三年間を、挫折も苦渋も、恋も友情も包含して、卒業式が終わって教室が空っぽになるのと一緒に、黒板消しであっさり消されてしまう。誰かにとってはただの落書きでしかないところまで込み込みで、『青春』を顕しているようだった。

「席につけー」と入ってくる担任の声が教室に響く。あれだけ騒がしかった教室の端っこから反対側までよく響いて、誰もが大人しく自分の席に着いた。

「よ!待ってました!」

「茶化すんじゃないよ」

先生の声も、クラスの声も、どこか湿っぽい。

一人一人に贈られるメッセージは、過不足なく、依怙贔屓にならないように、何日も掛けて推敲された先生の心尽くし。

俺には部活を辞めても変わらずムードメーカーだったこと、新しい夢を見つけたことを賞賛する言葉が贈られた。

全部、瀬尾に捧げたものだ――。

先生の心尽くしは、耳に響いても、俺の心には響かない。

瀬尾の発する音だけが俺に響く――。

瀬尾と過ごした毎日が網膜の裏で弾ける。視界に取って代わる程に鮮明に、激しく、次第に強く。

強く、強く。

スクールカーストの上の方、窓際の特等席に座ると、どこにいても瀬尾を見つけられる。

濃い黒色の髪が陽射しに当てられて、ラメでも入っているように輝いている。窓越しに見る青空とグラウンドよりも、その一箇所だけを来る日も来る日も飽きもせずに見続けた。

窓も開いていないのに、一瞬風が吹いたように瀬尾の髪がそよぐ。切り揃えられた襟足から薄い肌が覗いて、また白と白の境界を曖昧にしていく。

瀬尾がゆっくりと振り返って、俺と目が合う。

微笑んだまま動かない瀬尾に

(な、に、み、て、ん、の?)

と大きく口パクで伝えると、

(べ、つ、に)

と視線を追い掛けて前に向き直った。

些細なことがどうしようもなく嬉しい。

歓喜に満ちた高校生活は、もうすぐ終わりを迎える。

今日で終わり。

瀬尾が一生忘れられないように、後悔と未練が残るように、少しの違和感を残して。

先生の贈る言葉が締め括られる。また、教室が騒がしくなった。

ウェットな質感は変わりないのに、教室に流れる空気は、どこか晴れやかな装いを見せ始めている。

切り替えが早い。

自然とできてしまったクラスメイトの輪の合間から、瀬尾を探すと、また目が合った。

ずっと見つめていたいのに、目が泳ぐ。

瀬尾が鞄と卒業証書を手に立ち上がる。

(お、ん、が、く、し、つ)

そう言って階段に続く廊下を指差した。

心臓の音が痛い。緊張とは違う。恐怖心。それとも、焦燥感だろうか。

今頃、瀬尾は音楽室に続く階段を一歩ずつ踏み締めている。

この階段を登るのは今日が最後だろうか。

俺が音楽室に来るか。

きっとそんなことを考えている。

俺は、一生瀬尾が好きだ――。

瀬尾とは違う階段を登る。

一歩踏み出す度に、薄く積もった埃が舞い上がって、鼻腔を擽る。

シンと静まり返った旧校舎。

屋上に続く西階段に、魔法使いなんていない。

その下の古い音楽室、西陽に照らされる窓辺に立つと、新校舎の音楽室が見える。

窓から見えるピアニストの姿は、五線譜と同じ、白と黒の鮮やかなコントラストで、いつでもそれが瀬尾だとわかった。

遠くで音楽が聴こえる。

初めて音楽室で弾いてくれた映画の主題歌。

瀬尾の好きな雨だれ。

ショッピングモールのきらきら星。

学園祭で聴いた合唱曲。

俺が歌った勿忘草。

絶望的に美しいあこがれ。

メロディーが軽やかに高音へと駆け上がる。

ラストの一音が響く。

これで終わり。瀬尾が俺に弾いてくれる最後の曲。

空を仰ぎ見ると澄んだ青色が広がっている。

勿忘草だ――。

瀬尾が俺みたいだと言ったカーテンと同じ色。

もしも願いが叶うなら、一生俺を忘れないで――。

三年続けたことで堂に入った祈りでも、居もしない魔法使いが叶えてくれるはずはない。ほとんど恨みつらみ、呪うみたいに重ね続けた。

他人が聞けば笑うんだろう。訝しんだりするんだろう。三年も掛けて、親友の席をたった一人で占めながら、高校最後の日に全部投げ出して、瀬尾の青春に小さな暗い影を落とす。

自分でも馬鹿みたいだってわかってる――。

でも俺は親友になりたいんじゃない――。

告白して、振られて、すっきりするような青春は要らない。自分の思い出が欲しいんじゃない。瀬尾の世界に、爪痕を残したい。時々痛んでは思い出す。それでいて一際輝いて、目が眩むような思い出になりたい。

神様、どうか、誰も俺より瀬尾を愛さないでください。

「早水はやっぱり魔法使いだ」

優しくて、背中に寄り添うような声が、無惨にも俺を殴り付ける。

旧校舎に魔法使いなんていない。

木枠のドアの向こうに、空色のスプリングコートを着た瀬尾が立っていた。

「旧校舎に魔法使い、ほんとにいたんだ」

「なんで……」

「音楽室、来てくれなかったから。それならどっかで聴いてるんだと思って、そしたら気付いた。旧校舎の魔法使い、西陽で顔見たことなかったけど、あれは絶対、早水だって」

希望が崩れ去る音がする。ガラガラというより、サーっと脆く風に舞う砂塵のように消えていく。

何一つ叶わない。

このまま、綺麗にラベルを貼られて同窓会の案内状が届いた時にだけ懐かしんで開くアルバムに綴られる。

「二年の学園祭の夜、俺の好きは早水のとは違うって。青春全部俺だって。言われて、同じだけ考えたんだ。一年と四ヶ月だから、まだ少し足りないんだけど」

「いいよ。…もう、いい」

呼吸が浅くなる。走ってもいないのに、酷く胸の鼓動が速くて、吸い込む空気が肺まで届かない。

「早水の言うとおり、俺の好きは、恋じゃない。早水は俺の憧れだから。でも……」

聞いたら終わり。

とっくに終わっている恋が、みっともないままに確定してしまう。

聞いていられなくて、俺はまた逃げ出した。

反対のドアから飛び出して一目散に走る。瀬尾の足では絶対に追い付かない。ラストの台詞なんて絶対に聞かない。

古い木造の床がキーキーと非難するような声を上げた。

何一つ叶わない。

こんな無様な最後は嫌なのに、全部聞いて、考えてくれてありがとうなんて言えるほど、俺は立派じゃない。

瀬尾の前だと心がちぐはぐになる。

表と裏が捩れて、一回転して、クラインの壺とかメビウスの輪とか、あんな歪で不安定な気持ちになる。

泣きたいと泣きたくないがせめぎ合っている。

血走った眼がギンギンと痛い。

旧校舎を出る瞬間、狭窄していた視野が一気に広がって、違う世界にワープしたんじゃないかと思った。いっそ異世界ならいいのにと思っても、ワープした先は見知ったグラウンドだと気付いてしまう。

旧校舎の方が異世界だったんじゃないかとまた馬鹿な考えを起こすと、置き去りにした瀬尾が気掛かりで、肩を引かれるように振り返る。

見上げた西階段の踊り場の窓から、身を乗り出した瀬尾が、躊躇いもなく、降ってくる。

空色のコートを棚引かせながら、一人だけスローモーション再生みたいにゆっくりと玄関の軒天に不時着した。

「早水っ!」

助走をつけて、また、青空が降ってくる。

綺麗だと思った――。

この澄み渡る空を、自分のものにしたいと思った――。

理性が本能に逆らえない。

腰を低くして、両手を広げて、青空が降ってくる場所に走る。

強い衝撃と共に後ろに倒れ込む。それでも決してこの青空が傷つかないように必死で重力と慣性に逆らって、前に、前に体を進める。

「お、前……何考えてんだよ。下手したら死ぬぞ!」

怒気を込めて言う。胸が破裂しそうなほど脈打っている。何の興奮か、判別がつかない。

抱き止めた瀬尾の身体を摩っている内、ボロボロと涙が止まらなくなる。

「いいよ、死んでも」

天使みたいな穏やかな顔をして、悪魔のようなことを口にする。

「早水が聴いてくれないなら、もう要らない。ピアノも、青春も、俺も」

「っ、馬鹿なこと言うなよ。死ぬとか、危ないことすんな……」

「じゃぁ、……しない」

いい子にするから褒めてとでも言いたげに瀬尾が笑う。

「だから聞いて」

「……わかった」

受け止めたまま、膝上に陣取ってマウントを取られて、逃げ場もない。

無様な泣き顔を手の甲で擦って誤魔化すと、不思議と腹が座った。

綺麗にアルバムにファイリングされても、きっと今日のハイジャンプは忘れ去られることはない。俺からも、瀬尾からも。そのシーンの登場人物が二人きりなら、何となく悪くない気がした。

白と黒のコントラストが綺麗な、瀬尾の目を正面から迎え入れる。

「早水は俺の憧れ。魔法使い、スーパースター。子どもの頃、あの日欲しかったもの全部、失くしたもの全部、今になって拾い上げてくれたから、俺、幸せなんだ。毎日毎日、朝が来るのが嫌じゃない」

少し肌寒くなって血色が悪くなった下唇を、チロっと舌がなぞる。潤って少しだけ紅みが差した。

「俺は、恋愛とか、片想いとかしたことないから。早水の願いは叶えてあげられないけど」

思っていたよりも晴れやかな気持ちだった。一つだけ浮かんでいる小さな雲が、青を引き立たせる白のコントラストになっている。勿忘草よりもあっちの方が自分にはお似合いなのかもしれない。

「もしも願いが叶うなら、誰かを好きになれるなら、……それが早水だったらいいなって、思うんだ」

曖昧だった瀬尾と空の境界線が、急にはっきりと浮かび上がる。逆光線でシルエットになって、まだ表情は見えない。

「好きになった時、早水が俺をもう好きじゃなくても、俺が好きになるのは早水がいい。早水以外なら、誰も愛せなくていい。誰にも愛されなくていい」

人は思い掛けないところから希望を奪われ、人は思い掛けないところから救いの手を差し伸べられる。

地獄の門と天国の門は、分かれ道ではなくて、扉の先で繋がっているのかもしれない。

「一年ずっと、考えてたのかよ」

「楽しかったよ。早水が聴いてくれると、俺は幸せなんだ。明日も明後日も、来年も、10年先も、もっと先も」

もう少し早く、結論出せよと殴ってやりたい。でも、こんなやつを好きになったのは紛れもなく俺だ。

「ずっと、一緒にいんの?いつ好きになるかわかんないのに」

「ダメかな」

「ダメではないけど、またキスしたら、お前、どうすんの。少しは、俺の気持ちも考えろ」

気恥ずかしさと情欲の狭間で、瀬尾の頬に手を伸ばす。伸ばした手と行き違いに、俺の唇に、青空が降ってきた。

少し乾いた瀬尾の唇が、俺の唇から潤いを奪っていく。折角顔が見えたのに、甘く痺れる多幸感に自然と瞼が落ちてしまう。

預けられた体重が少し軽くなると、キスの終わりを察してゆっくり目を開いた。

瀬尾に合わせて上体を起こすと、少しだけ近くなり過ぎた相手の顔を正面から見据えることができずに、肩口に額を押し当てた。

「嫌じゃないよ。嫌なわけない……。早水がくれる全部が、俺に音楽をくれる。耳の奥で響いてるだけだった音が、音楽になるんだ」

歯が浮くような愛の言葉を並べてくれるのに、それでも恋を知らないと言う瀬尾に、どうやってそれは恋だと伝えたらいい。

どう言葉を尽くしたらいい?

どの演奏記号を付けたらいい?

いっそこのまま、叶い掛けの片想いを一生楽しんでも、いいのかもしれない。

どこまでも透き通った青い空に、小さな雲が、よく似合っている。



もしも願いが叶うなら――。