冷徹皇帝の「処刑宣告」を「愛の告白」と受け取った妃のあまりのポジティブさに皇帝の鉄仮面が崩壊した件について

 天啓三年、夏の初め。
 黎鳳は執務机の前で、また腕を組んで唸っていた。
 机の上には諸国からの上奏文が山積みになっていた。しかし彼の視線はそこに向かっておらず、ただ一枚の白紙を見つめて、かれこれ一刻ほど同じことを考え続けていた。
 問題は、称号だった。
 後宮における妃嬪の位というものは厳格に定められている。最も低い位から始まり、皇帝の寵愛と実績に応じて昇格していく。
 小蘭は現在、最も下位の位のままだった。入宮からまだ日が浅く、正式な手続きを経ていないためだ。

 しかし──
 黎鳳は白紙を見つめたまま、静かに考えた。
(位を上げれば、小蘭の存在が公式に認められる。それ自体は構わない。しかし、位が上がれば、他の官僚や外国の使節がその名を知ることになる。知られれば、様々な思惑が絡んでくる。後宮の序列争いも激化するかもしれない。あの娘は後宮の駆け引きというものを全く理解していないから……)
 考えれば考えるほど、護りたいという気持ちが先に立ち、手が動かなかった。

「陛下」
 柳玲清が恐る恐る声をかけた。
「……なんだ」
「その白紙を、もう一刻もお見つめでございますよ」
「うるさい! 考えているのだ」
「左様でございますか。……ちなみに、本日も小蘭様の離宮より、蒸し菓子が届いております。厨房経由で」
 黎鳳の動きが、一瞬止まった。
「……置いておけ」
「はい。それと、小蘭様より伝言がございまして」
「何だ」
「今日は少し多めに作りましたので、陛下のお口に合えばよいのですが、とのことです」
 沈黙。
「……それだけか?」
「もうひとつ。最近陛下のお顔を拝見できていないので、そろそろ巡視の頃合いではないでしょうか、とも」
 黎鳳の耳が、わずかに赤くなった。
「……巡視は……私が決める」
「もちろんでございます」
「貴様も余計なことを言うな!」
「御意」
 柳玲清は深々と頭を下げた。
 しかし、その口元には長年の宮廷奉公の中で初めて覚えた種類の笑みが、かすかに浮かんでいた。

 その日の夕方、黎鳳は「巡視」のために小蘭の離宮を訪れた。
 白紙はまだ白いままだったが、翌朝には「小蘭を、後宮の位・昭儀に叙す」という詔書が、史上最も丁寧な筆跡で書かれることになる。
 柳玲清が後で確認したところ、その詔書だけ、他の上奏文の十倍ほどの時間がかけられた形跡があった。

「陛下、これを食べてみてください」
 椅子に並んで座っていた黎鳳の前に、小蘭が小皿を差し出した。
 白くて小さな、丸い何かが三つ、乗っている。
「……何だ、これは」
湯圓(タンユェン)です。厨房の王師傅に教えていただきました。中に胡麻あんが入っています」
「作ったのか、貴様が」
「はい! 初めてにしては上手くできたと思います!」
 黎鳳は小皿を受け取り、箸で一つつまんだ。それを口に運んで、噛んだ。
 沈黙が流れた。
「……」
「どうですか?」
「……」
「陛下?」
「……甘い」
「よかった!」
「甘すぎる」
 小蘭の表情が、わずかに固まった。
「ダメでしたか?」
「胡麻あんに、砂糖を何杯入れた」
「五杯です。王師傅に三杯と言われたのですが、甘い方が美味しいかと思って……」
「思考の過程は認めるが、結果として歯が痛い」
「ご、ごめんなさい……」
 小蘭が眉を下げた。
 しかし、黎鳳は残り二つの湯圓を、無言でそのまま食べ終えた。
「……捨てなくていいのですか?」
「食べ物を粗末にするな」
「でも、甘すぎると……」
「私が言いたいのは、次は三杯にしろということだ」
 小蘭の目が、ぱあっと輝いた。
「じゃあ、次も食べてくださるんですか?」
「…………上手く作れたのならな」
「作ります! 絶対に作ります! 砂糖三杯で!」
 黎鳳は横を向いた。しかし、耳がやはり赤かった。
 それを見た陳五は、翌日の報告書に「本日も耳赤し」と記録したが、柳玲清によって永遠に封印された。

 三日後、小蘭が「砂糖三杯の湯圓」を持参すると、黎鳳は無言で全て食べ、「悪くない」とだけ言った。
 小蘭はその二言を、生涯の宝物のように胸に抱えて離宮へ帰った。
 青梅は「また陛下に振り回されている」と思ったが、小蘭の顔があまりにも幸せそうだったので、何も言わなかった。

 小蘭の離宮に思わぬ来客があった。
 寧貴妃だった。
 謹慎が明けてから初めて外へ出た彼女は、後宮の庭を一人で歩き、気づけば小蘭の離宮の門の前に立っていた。
 なぜここへ来たのか、自分でもよくわからなかった。ただ、茶がらのことが気になっていた。
 あれを撒いてから、牡丹の葉が少しずつ色を取り戻していたのである。
「寧貴妃様!」
 門の内側から声が飛んできた。
 小蘭は土で汚れた手袋をつけたまま、庭から駆けてきた。
「来てくださったんですね! 牡丹の具合はどうですか? 効き目はありましたか?」
 寧貴妃は、少し面食らった。謝罪の言葉も、責める言葉も、警戒する視線も、何もない。
 ただ、牡丹のことを真っ先に聞いてくる。
「……おかげさまで、葉の色が戻ってきました」
「本当ですか! よかった。実は、根元の土の様子が気になっていて、もし宜しければ直接見せていただけないかと思っていたんです」
「……それは、構いませんが」
「では今度、一緒に見に行きませんか?」
 寧貴妃は、少しの間、目の前の少女を見つめた。
 怒っていない。恨んでいない。警戒もしていない。ただ、純粋に、牡丹のことと、目の前の人のことを、同時に考えている。
(この娘は、本当に、何も知らないのだろうか)
「小蘭様は」
「はい?」
「私が何をしたか、ご存知ですか?」
 小蘭は少し首を傾げた。そして、正直な顔で答えた。
「詳しいことは知りません。ただ、青梅がとても心配していたことと、翠鈴さんがいなくなったことと、寧貴妃様がしばらく外に出てこられなかったこと、それは知っています」
「……それだけですか」
「はい。あとは……」
 小蘭は少し考えた。
「牡丹のことを、心配していました」
 寧貴妃は、長い間、黙っていた。
 風が吹いた。小蘭の離宮の梅の木が、残り少ない葉を揺らした。
「……お茶を、一杯いただけますか」
 小蘭の顔が、花のように開いた。
「もちろんです! 青梅、お茶の準備を!」
 それが、全く異なる二人の女の、本当の意味での最初の出会いだった。

 それからしばらくの間、寧貴妃は月に一度、小蘭の離宮を訪れるようになった。
 最初は互いに探り合うように、やがて少しずつ、言葉が増えていった。

 ある日、寧貴妃がふとこんなことを言った。
「……私は、後宮で生き残るために、ずっと計算ばかりしていました」
 小蘭は静かに聞いていた。
「計算して、言葉を選んで、表情を作って。それが正しいと思っていた。しかし」
「しかし?」
「計算できないあなたの前で、全部崩れた」
 小蘭はしばらく考えてから、首を傾げた。
「でも、寧貴妃様は今、計算しないでお話しくださっていますよね」
「……気づいていましたか」
「なんとなく。最初の頃とは、声の質が違う気がして」
 寧貴妃は、小さく笑った。本物の笑みだった。
「あなたには、かないませんね」
「そうですか? 私、ずっと寧貴妃様のことを格好いいと思っていますよ」
「…………」
「あんなに背筋が伸びていて、言葉が美しくて、お部屋の趣味も素敵で。私には真似できません」
 寧貴妃はしばらく黙ってから、静かに言った。
「……湯圓の作り方を、教えてもらえますか」
「え?」
「砂糖は三杯で」
 小蘭の目が、まあるく開いた。
「……ご存知だったんですか、陛下の話」
「後宮では何でも広まります」
 二人は同時に笑った。

 ある朝、黎鳳が巡視と称して小蘭の離宮を訪れると、庭が妙に賑やかだった。
 小蘭と青梅が何かを追いかけている。陳五が苦笑いしながら見守っている。
「……何をしている」
 黎鳳の声に、小蘭が振り返った。その手には、白くて小さなものが抱えられていた。
 猫だった。
「陛下、見てください! 昨日から庭に迷い込んでいて、青梅が捕まえようとしたんですが逃げてしまって」
「……後宮に野良猫が入り込んだのか」
「野良ではないと思います。首輪の跡がありますから。でも今は外れてしまっているみたいで……ほら、人懐っこいんですよ」
 小蘭に抱えられた白猫は、黎鳳を見上げて、にゃ、と鳴いた。
 黎鳳は固まった。
(……小さい)
 猫は黄緑色の目をしていた。じっと黎鳳を見ている。
「陛下、触ってみますか?」
「……不要だ」
「そうですか? とても柔らかいですよ」
「言っているだろう、不要だと」
 しかし黎鳳の視線は、小蘭の腕の中の猫から離れなかった。
 猫は再び、にゃあ、と鳴いた。

 その日の政務の後半、柳玲清は黎鳳が「本日、小蘭の離宮の庭に不審な猫が侵入した件について、調査せよ」という命令書を書きかけ、途中で止め、次に「猫が快適に過ごせる環境について、専門家に意見を求めよ」という命令書を書きかけ、それも途中で止めるという場面を目撃した。

 翌日、小蘭の離宮に上等な猫用の寝床と、良質な干し魚が届いた。差出人は記されていなかった。
「青梅、これ誰が送ってくださったんでしょう?」
「……おそらく、ご察しの方かと」
「陛下ですか?」
「そうでなければ誰が」
 小蘭は白猫を抱き上げ、その耳元で囁いた。
「よかったね、陛下に気に入ってもらえて」
 白猫は満足そうに目を細めた。
 その後、白猫は「月白(ユエバイ)」と名付けられ、小蘭の離宮の正式な住人となった。
 黎鳳が「巡視」に訪れるたびに月白が膝に乗ってくることを、黎鳳は一度も拒否しなかった。
 小蘭はそれを見て「陛下って本当に可愛い」と思い、黎鳳は「猫を追い払うのは面倒だ」と自分に言い聞かせた。
 月白は両者の言い分をそれぞれ一切信用していないように見えたが、食事を与えてくれる小蘭と、膝が温かい黎鳳の両方を等しく気に入って、のびのびと暮らした。

* * *

 秋も深まった頃のある夜、小蘭は珍しく、少し眠れなかった。
 理由は自分でもよくわかっていた。
 翌日、黎鳳に公務の都合で遠方への行幸(ぎょうこう)があると聞いていた。期間は一ヶ月。後宮を離れる間、皇帝は不在になる。
(一ヶ月か……)
 縁側に出て夜空を見上げながら、小蘭はぼんやりと思った。月が綺麗だった。秋の月は夏よりも澄んでいて、鮮やかで、少し寂しい。
「何をしている?」
 声がして、振り返ると、黎鳳が立っていた。
「陛下、どうしてこちらに?」
「……通りかかっただけだ」
「巡視、ですか?」
「……そうだ」
 黎鳳は縁側の端に来て、小蘭の隣に立った。

 二人でしばらく、月を見ていた。
「眠れないのか」
「少しだけ。……明日から陛下がいらっしゃらなくなるので」
 黎鳳は無言だった。
「一ヶ月って、長いですよね」
「……政務上、必要なことだ」
「わかっています」
 小蘭は膝を抱えた。
「わかっているんですが、なんとなく、先に言いたくて……」
「何を」
「寂しいって」
 黎鳳の動きが、止まった。
「後宮に来て最初の頃は、陛下がいなくても全然大丈夫だと思っていたんです。お会いできなくても、護衛の方々がいてくれるし、お庭があるし、青梅がいるし。でも最近は……」
 小蘭は空を見たまま、続けた。
「陛下がいらっしゃらない日が続くと、なんとなく、庭の色が薄く見える気がします。変ですね」
 黎鳳は答えなかった。
 しかし、縁側に置いた彼の手が、小蘭の手の隣に、そっと、置かれた。触れるか触れないかの距離に。
 小蘭は少しだけ、手を動かした。
 ──触れた。
 黎鳳は、また無言だった。しかし手を引かなかった。
「……行幸から戻ったら」
 低く、静かな声だった。
「庭に薔薇が咲いているか、確認しに来るからな」
「咲いてないかもしれませんよ?」
「ちゃんと咲かせておけ!」
「はい」
「月白が懐きすぎると困る」
「もう手遅れだと思います」
「……うるさい」
 秋の夜が、静かに流れた。月が少しだけ傾いた。
 黎鳳が帰り際に、ごく短く、ほとんど聞こえないくらいの声で、言った。
「……私も、だ」
「え?」
「何でもない」
 小蘭は聞き返さなかった。しかし、その言葉の意味は、ちゃんとわかっていた。

 翌朝、行幸に出発した黎鳳の荷物の中に、小蘭が夜のうちに用意した携帯用の乾燥薬草の袋が、こっそり入れられていた。「旅先での疲れや風邪に効きます」という書き付けと一緒に。
 黎鳳はそれを道中で発見し、しばらく眺めてから、上着の内ポケットに大切に仕舞った。

 行幸から戻った黎鳳が最初にしたことは、政務への復帰でも、柳玲清への報告聴取でもなかった。
「巡視に行く」
「陛下、お帰りになってすぐでございますが?」
「うるさい。巡視だ」
 柳玲清は深く頷いた。
 小蘭の離宮の庭では、秋の薔薇が一輪だけ、遅れて咲いていた。
 小蘭は黎鳳の姿を見ると、花に水をやっていた手を止め、走ってきた。途中で「走るのははしたない」と青梅に教わったことを思い出して、少し歩幅を小さくしたが、それでも十分に速かった。
「陛下! お帰りなさいませ! お顔の色、大丈夫ですか? 旅路は長くなかったですか? お疲れではないですか?」
 黎鳳は、その問いの全てに答えなかった。
 代わりに、薔薇を見た。
「……咲いているな」
「はい! 一輪だけですが、待っていてくれたみたいです」
「そうか」
 黎鳳は薔薇に近づいて、しゃがんで、仔細に見た。それからごく自然に、隣に来た小蘭の方を向いた。
「……土産を買ってきた」
「え?」
「行幸先の名産の、乾燥した薬草だと聞いた。貴様が喜ぶかと思って」
 小蘭の目が、透明に輝いた。
「ありがとうございます」
「薬草師に話を聞いて選んだ。合っているかはわからないが」
「陛下……」
「泣くな。別に大したことではない」
「泣いてません。でも、泣きそうです」
「だから泣くなと言っている」
「だって……一ヶ月も離れていたのに、私のことを考えてお土産を選んでくださるなんて……」
「忘れろ、今の発言は」
「忘れません」
 黎鳳はそっぽを向いた。
 しかし彼の手は、小蘭の手を自然に掴んでいた。一月前の秋の夜と同じように。
「……庭の色は」
「え?」
「薄くなかったか」
 小蘭は一瞬だけ、目を大きく開けた。
 あの夜の小蘭の言葉を、黎鳳は覚えていたのだ。聞こえていたのだ。
「はい」
 小蘭は、黎鳳の手を、そっと握った。
「でも今日から、また濃くなります」
 黎鳳は返事をしなかった。代わりに、手を握り返した。
 秋の庭に、薔薇の一輪が、静かに揺れた。

* * *

 それから後も、後宮の日々は続いた。
 黎鳳は相変わらず「巡視」のために週に三度小蘭の離宮を訪れ、相変わらず「月白が勝手に膝に乗る」という理由で一刻以上滞在し、相変わらず帰り際に小蘭が手を振るのを、振り返りながら前を向いて歩いた。
 小蘭は相変わらず護衛の兵士たちに手作り菓子を配り、相変わらず薬草の知識で医官を驚かせ、相変わらず黎鳳の冷たい言葉を百パーセントの精度でポジティブに変換した。
 寧貴妃は春になると牡丹の庭に小蘭を招いた。
 見事に回復した牡丹が満開になった庭で、二人は並んで茶を飲んだ。
「綺麗ですね」
 小蘭が言うと、寧貴妃は少しだけ微笑んで
「あなたが来てくれたおかげです」
と言った。後宮の誰かが目撃していたが、真偽は定かでない。

 陳五は今日も報告書を書き、今日も一行を消し、今日も小蘭の手作り菓子を食べた。
 孫岩は今日も二人の絵を描き、今日もその絵を皇帝の寝所に届けた。最近は一枚一枚が前より大きくなっている気がするが、指摘する者は誰もいなかった。
 柳玲清は今日も報告書の一部を封印し、今日も「巡視」という言葉の意味の広さに感慨を覚えた。
 青梅は今日も「まさかこんな展開になるとは」とため息をつき、今日も小蘭の幸せそうな顔を見て、そのため息を引っ込めた。
 月白は今日も庭で昼寝をした。

 氷は、溶けた。
 そして溶けた場所には、静かに、春が根を張っていた。


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