寧貴妃は、次の一手を思いついた。
居室の窓辺に立ち、回廊の向こうに見える北の離宮の方角をじっと眺めながら、彼女は翠鈴に静かに告げた。
「……花壇に毒草を紛れ込ませなさい」
翠鈴がわずかに眉を上げた。
「毒草、でございますか」
「致死性の高いものはだめだ。見た目が普通の草に似ていて、触ると肌が荒れるか、煮出せば腹痛を引き起こす程度のもの。あの娘は植物の世話が好きらしいから、花壇に夢中になっているところで触れるでしょう」
「しかし……あの娘は植物に詳しいと聞いておりますが?」
「だからこそ、一目では気づかれない毒草を選びなさい。専門家でも見分けがつけづらいものが、野にはいくらでもあるわ」
翠鈴は深く頷いた。寧貴妃の言葉は、いつも論理的だった。感情ではなく、計算で動く。それが彼女の強さでもあり、彼女自身もそう信じていた。
三日後、北の離宮の花壇に、見慣れぬ草が数本、そっと植えられた。
南方の乾燥地にのみ自生する山毒草──葉の形は普通の野草に酷似しているが、触ると皮膚が赤く腫れ、汁を煎じれば腹痛を起こす。北方では滅多に見られない種だった。
* * *
翌朝。
花壇の手入れをしていた小蘭が、その草の前でしゃがみ込んだ。
「あら?」
青梅が水差しを持って近づいてくる。
「小蘭様? どうかなさいましたか」
「この草、昨日まではなかったですよね?」
「え? ええ、たしかに……」
小蘭は草の葉を、触らないようにしながら、じっくりと観察した。
葉の形、茎の断面、葉脈のパターン、そして葉の縁のわずかな鋸歯の形状。幼い頃から山を歩き、薬草図鑑を読み込んで育った記憶が、静かに答えを導き出した。
「……これ、山毒草ですね。触ると皮膚が赤くなる草です。故郷の山にも生えていましたが、北方のものとは少し葉の形が違いますが、南方の種でしょうか」
青梅の顔が、ゆっくりと青ざめた。
「さ、触ると皮膚が?」
「はい。でも乾燥させて煎じると、虫刺されや湿疹に効く外用薬になるんです。故郷では重宝していました。捨てないでとっておきましょう。手袋をして掘り起こして、乾燥させますね」
小蘭は嬉しそうに立ち上がった。
「青梅、手袋を持ってきてください。あと、医官の孟先生に『南方の山毒草が手に入りました』とお伝えして。薬として使えますから、欲しいかどうか聞いてみます。希少な素材なので、喜んでくださるかもしれません」
青梅は考えた。
(これは……誰かが意図的に植えたのでは?)
「……青梅、どうしましたか? 顔が青いですよ」
「いえ、なんでも……」
(調べてみるとしよう。小蘭様には余計な心配をかけさせたくない)
午後、小蘭は医官の孟先生のもとへ山毒草を届けた。
孟先生は目を丸くして「これはどこで?」と聞くと、「花壇に生えていました!」と明るく答えた。
孟先生は草を仔細に検分し、首を大きく傾げた。
「……この草は、北方には自生しません。南方の乾燥した高地にのみ生息する種です。自然に生えることはあり得ません」
小蘭の目が、少しだけ真剣になった。
「つまり……誰かが植えたということですか?」
「その可能性が高いかと」
小蘭はしばらく考えた。
そして、静かに頷いた。
「……でも薬草として使えることがわかって良かったです。孟先生、ご活用ください。こちらの処理はお任せします」
「は、はあ……」
「それと、私の花壇に誰かが立ち入った可能性があるということ、陳五さんに伝えておきます。護衛の方に知っておいていただいた方がいいと思いますので」
孟先生は深々と頭を下げた。なんとも、落ち着いた方だ、と思った。
それ以上に、小蘭が南方の希少な薬草を一瞥で正確に同定したことに、純粋に驚いていた。
その夜、陳五からの報告書には短くこう記されていた。
「対象、花壇に不審な植物を発見。山毒草と正確に識別し、医官に提供。不審者の侵入の可能性を本人より報告受けた。調査を進言する」
黎鳳は報告書を三度読んだ。そして、筆を取り、ごく短い命令を書いた。
「北の離宮周辺の監視を強化せよ。侵入者があれば即刻拘束し、直接報告せよ」
彼の顔は動かなかった。しかし、紙を持つ指先が、ほんの少しだけ、白くなっていた。
(……誰だ、小蘭に危害を加えようとするやつは……)
深い怒りが、彼の胸の中で燃え始めていた。
* * *
翌日、孟先生は特別に希少な山毒草の薬草見本を入手したとして、同僚の医官たちに説明する小さな勉強会を開いた。
「北の離宮の小蘭様から提供していただいたものです。小蘭様の御見識には、私も驚かされました」
その話は宮廷の医官たちの間に広まり、やがて「北の離宮の妃嬪は薬草の知識が深い」という評判が静かに生まれた。
寧貴妃にそれが伝わったのは三日後のことだった。
翠鈴から報告を受けた寧貴妃は、しばらく無言でいた。
(毒草が……薬草として活用された? しかもあの娘の評判が上がっている?)
第二戦目も、敗北──
ただし今回は、単なる失敗以上のものを招いていた。黎鳳が侵入者の調査を命じたという情報が、翠鈴の情報網を通じて入ってきたからだ。
(……陛下が、動き始めている)
寧貴妃の手が、膝の上でそっと握り締められた。
北の離宮に移って一月が経った。
小蘭の日常は充実していた。花壇は順調に育ち、薔薇の苗を青梅と一緒に植えた。
護衛の兵士たちとも顔馴染みになり、陳五は今や小蘭が手作りしたお菓子を楽しみに出勤するようになっていた。
厨房の料理人からも気に入られ、週に一度は「今日は新しい料理を教えましょうか」と申し出てくれるようになった。
ただ一つ、残念なことがあるとすれば──
「最近は陛下に、全然お会いできていないんですよね」
縁側に腰かけ、夜風に当たりながら、小蘭はそっと呟いた。
隣で青梅が複雑な顔をした。
(それは……陛下が望まれていることでは……)
そう思ったが、口にはしなかった。
「でも、護衛の方々がこんなに大勢いてくださるということは、陛下は私のことを気にかけてくださっているんですよね。姿は見えなくても、ちゃんと伝わっています」
小蘭は夜空を見上げた。
満月が煌々と輝き、離宮の庭を銀色に染め上げていた。梅の木の枝が月光を透かし、石畳に繊細な影を落としている。美しい夜だった。
だから、物音に気づくのが遅れた。
庭の木の陰。ほんの微かな、枝の揺れ。
小蘭は首を傾げた。風はない。では、あれは。
「青梅、中へ入っていてください」
「え? でも、小蘭様……」
「大丈夫です。ちょっと確認してきます」
立ち上がりかけた小蘭の前で、木の陰から黒装束の人影が踊り出た。月光に手の中のものが光る。刃だ。
青梅が悲鳴を上げた。
小蘭は動けなかった。
頭が状況を理解するより先に、体が固まっていた。
怖い、と思う間もなく、ただ目が、目の前の刃先を映し続けていた。
その瞬間──
黒装束の人影が、突然横から吹き飛んだ。
何が起きたか、小蘭には瞬時に理解できなかった。気づけば庭の石畳に人影が倒れ、その傍らに人が立っていた。黒い衣。乱れた衿。右手に、赤く濡れた剣を携えた人が。
「……陛下?」
小蘭の声が、夜の庭に吸い込まれた。
黎鳳は、小蘭をちらりと一瞥した。
その視線はいつも通り冷たく、感情を映さなかった。
しかし、次の瞬間、彼の視線は倒れた人影へ戻り、足先でその体を転がして息があることを確認した後、周囲の闇に向けて低く言い放った。
「他にいるか」
答えはなかったが、木の陰で人影が二つ、素早く気配を消した。黎鳳はそれをただ冷たく見送ってから、剣を収めた。それから、小蘭を振り向いた。
「怪我はないか」
「はい! 全然大丈夫です!」
あまりにも元気な返答に、黎鳳の眉が微かに動いた。
しかし、彼はそれ以上何も言わず、踵を返そうとした。その前に、倒れた黒装束の男を一瞥して、低く呟いた。
「私の獲物に手を出すな」
声は、夜の静寂に深く沈んだ。
「こいつの命を奪うのは、私だけだ」
刃のような言葉だった。聴いた者を震えあがらせるような、獣の低い唸りのような宣告。
「陛下!」
小蘭が駆け出した。
黎鳳が振り返る間もなく、小蘭は彼の袖を掴んで、血まみれの剣を携えたまま立つ皇帝へ、まっすぐに近づいてきた。
その顔は真剣だった。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
黎鳳は固まった。
「……私のことが、心配なのか」
「当然です! お怪我をされたのでは?」
小蘭の目が、黎鳳の手元の剣先へ向いた。
そこに返り血がついているのを見て、眉を下げた。
「陛下……」
「これは刺客の血だ。私のではない」
「本当ですか?」
「嘘をついてどうする」
小蘭は一瞬だけ考え込むような顔をし、それからほっと息を吐いて、笑った。
「よかったです。……陛下のお言葉の意味、わかりました」
「……何が」
「『こいつの命を奪うのは私だけ』、つまり、私は一生、陛下と添い遂げるということですよね!」
「…………」
黎鳳の思考は、完全に停止した。
「お迎えに来てくださったんですね。ありがとうございます、陛下」
そう言って小蘭は、血まみれの剣を持ったまま固まっている皇帝に、ためらいなく抱きついた。
小さな体が、黎鳳の胸に当たった。
そのあまりにも無防備で、あまりにも信頼に満ちた感触に、黎鳳の右手から、剣がぽとりと落ちた。石畳に金属の音が響いた。
皇帝は、その場に棒のように立ち尽くしていた。
腕を回すことも、突き放すことも、何もできなかった。
ただ、月明かりの下、小蘭の黒髪が夜風に揺れるのを、上から見下ろしながら、黎鳳は生まれて初めて「どうしたらいいかわからない」という感覚の中に立っていた。
その夜の取り調べで、倒れた刺客は黎鳳直属の尋問官の前に引き出された。
しかし、刺客は口を割らなかった。
ただ一点だけが明らかになった。依頼主は後宮の人間であること。
依頼の内容は「殺さず、脅すだけでよい」という奇妙なものだったこと。
黎鳳はその報告書を読み、長い沈黙の後に立ち上がり、窓の外の夜空を見た。
後宮の人間──その候補は、いくらでも絞れた。しかし今は、証拠が必要だった。
翌朝、書斎に戻った彼は、すぐに孫岩を呼んだ。
「月夜の庭で笑っている姿を描け」
「……はい」
孫岩は深々と頭を下げながら、内心で確信した。あの方は本当に、どうしようもなく落ちてしまわれたのだ、と。
刺客の襲撃があった夜から数日後。
今度はこのような噂が流れた。
「北の離宮の小蘭様……夜な夜な、男を引き込んでいるらしいわよ」
その噂は、後宮の茶会の席で、さりげなく、しかし確実に広まった。
誰かが誰かから聞いた話、という形式で次々と広がっていく。
「護衛の男たちと、随分と親しくしているらしいですよ」
「そういえば、お菓子を振る舞ったらしいですし……」
「このことが陛下のお耳に入ったら……」
翠鈴がそれとなく広めた言葉が種となって後宮の中で育っていくのを、寧貴妃は静かに眺めていた。
あの娘が護衛の男たちと親しくしているのは事実だ。
それをわずかに誇張するだけで、陛下のお怒りを買うはず。
ところが──
噂が小蘭本人の耳に届いたのは、三日後のことだった。
「青梅、聞きましたか。私が夜に男の人を引き込んでいる、という噂があるそうですよ」
青梅は湯呑みを取り落としそうになった。
「し、小蘭様! その噂は全くの……!」
「そりゃそうよ」
小蘭は少し首を傾げながら、真剣な顔で考え込んだ。
「私が夜にお会いしているのは……陛下だけですよね? 先日も夜の庭で私を刺客から助けてくださいましたし」
「そ、そうですね……」
「つまり、その噂、もしかして陛下のこと?」
「……は?」
「だって、夜に陛下がいらしていたのは本当のことですし、誰かが見かけたのかもしれません。陛下のことを『男を引き込んでいる』と表現したとすれば……それは確かに不敬ですが、でも、みなさんが陛下のご来訪に気づいてくださっていたということは、もしかして後宮でそれが話題になっているということでしょうか」
小蘭の目が輝いた。
「もしそうなら……陛下と私のこと、もう皆さんご存知なんですね! なんだか恥ずかしいですけど、嬉しいです!」
青梅は頭を抱えた。
(違います違います、そういう意味じゃないんです小蘭様……)
その噂は、数日のうちに、後宮の中で全く別の形に変容して広まっていた。
「小蘭様は、陛下が夜に訪れているのをご存知なの?」
「つまり陛下は夜に北の離宮へ……?」
「それって、かなりご寵愛されているということでは……?」
「違う! そんな話ではなかったはず!」
翠鈴から報告を受けた寧貴妃は、思わず声を上げた。
普段は感情を見せない彼女が、それほど動揺したのは久しぶりのことだった。
「どうしてそういう方向に……」
「……それが小蘭様ご本人が、陛下のことではないかと嬉しそうに仰って……その様子を見た妃嬪たちが……」
翠鈴の説明を聞き終えた寧貴妃は、長い間、額を押さえていた。
(……あの娘は、天然なのか、それとも私を翻弄しているのか)
第三戦目、またしても敗北──
さらに悪いことに、その頃から黎鳳の様子に変化があった。
柳玲清によれば、陛下は夜の書斎での執務の合間に、しばしば「北の離宮からの報告書はまだか」と問うようになっているという。
(陛下が……報告を待っている?)
寧貴妃の美しい顔には、疲労の色が浮かんでいた。
* * *
黎鳳は密かに動いていた。
北の離宮への侵入者の件、花壇への毒草の件、刺客の件。そして、男を引き入れているという噂話──
これらの件を並べて検討したとき、一つの方向性が浮かんできた。
いずれも「小蘭を傷つける」というより「小蘭の評判を貶める、あるいは弱らせる」という意図が感じられた。過激すぎない。後宮の中で動ける人間が、慎重に計算して動いている。
(……慎重すぎるくらい慎重だ。しかし甘い)
出来事全てに、翠鈴という名の侍女が何らかの形で関わっていたことを、黎鳳の密偵は突き止めていた。
翠鈴は寧貴妃の侍女頭だ。
黎鳳はしばらくの間、机の上で指を組んだまま、無言でいた。
(……寧貴妃か)
三年間、後宮で完璧に振る舞ってきた女。非の打ち所のない礼儀作法、的確な言葉、陛下の前では常に慎み深く。彼は彼女のことを「有能で、感情を持たない女」だと思っていた。それが誤りだったということだ。
黎鳳は立ち上がり、柳玲清を呼んだ。
「寧貴妃を呼べ。正式な謁見ではなく、私の書斎へ来るよう伝えろ」
柳玲清は深く頭を下げた。その背筋に、冷たいものが走っていた。
陛下が「書斎へ来るよう」と命じるのは、正式な場よりも深刻な話をするときだからだ。
寧貴妃が書斎に通されたのは、翌日の昼過ぎだった。
彼女は完璧な礼装に身を包み、一点の乱れもない所作で入室し、深々と礼をした。
「陛下、お召しにより参りました」
「座れ」
黎鳳の声は、いつも通り冷たかった。しかし、その冷たさの質が、普段とはわずかに違った。
静かすぎる冷たさだった。嵐の前の海のような。
寧貴妃は椅子に腰を下ろし、まっすぐに皇帝を見た。三年間で培った平静さで、表情を保った。
「一つ、聞く」
「はい」
「北の離宮への不審な侵入者の件、花壇への異物の持ち込みの件、そして刺客の件……これらについて、何か知っていることはないか」
沈黙が降りた。
寧貴妃の瞳が一瞬だけ、かすかに揺れた。彼女は表情を整えようとした。
しかし、長い沈黙そのものが、既に答えになっていた。
黎鳳はただ、見ていた。何も言わず、急かさず、ただ静かに見ていた。
その目が、あまりにも全てを見通しているように感じられた。
寧貴妃の指先が、膝の上でかすかに震えた。
長い間があった。
そして彼女は、静かに、目を閉じた。
「……陛下の御心を煩わせる存在が、後宮に入ってきたと思いました」
「それだけか」
「……それだけでは、ございません」
声は揺れていた。
「私は三年間、陛下のお側にいることだけを考えて生きてきました。全てを賭けてきました。それが……入宮して数日の娘に、いとも簡単に……」
感情が漏れた。
寧貴妃は自分でも気づかなかった。三年間、一度も見せなかった本音が、今初めて、溢れていた。
「……醜いことと存じます。しかし」
黎鳳は彼女を見た。その表情は動かなかったが、目の奥に何か複雑なものを見て取った。
「翠鈴を直ちに後宮から出せ。処分は追って沙汰する」
「……」
「貴様は……今後、謹慎せよ。三ヶ月間、居室から出ることを禁ずる」
処刑ではなかった。後宮から追い出されるわけでもなかった。
寧貴妃は深く頭を垂れた。
「……御意」
退室しようとした彼女の背に、黎鳳の声が掛かった。
「一つ、言っておく」
「……はい」
「三年間、後宮で誰もが怖れる中で非の打ち所なく振る舞い続けたことは、評価する。だが──」
黎鳳は窓の外を見た。
「計算でしか人を動かすことができない者は、計算のできない者には永遠に勝てない」
寧貴妃は無言だった。
彼女が書斎を出たとき、廊下の窓から北の方角が見えた。
北の離宮の庭で、何か作業をしている人影が、遠く、小さく見えた。小蘭だ。
寧貴妃はしばらく、その人影を見つめた。
(……計算できない者)
後宮の廊下に、春の風が通り抜けた。
白檀の香が薄れ、その代わりに、どこかから桃花の甘い香りが漂ってきた。
* * *
一方その頃、北の離宮では──
「青梅、陳五さんに聞いたんですが、翠鈴さんがお屋敷に帰られたとのことで……寧貴妃様のお加減でも悪いのでしょうか。心配です」
小蘭は花壇に水をやりながら、のんびりと言った。
青梅は盛大に吹いた。
「し、小蘭様……」
「今度お見舞いに伺おうかしら。この間の牡丹の件も気になっていましたし、茶がらを持って行ってあげましょうか」
「いや……それは……」
青梅は答えながら、空を見上げた。雲一つない、青い春の空だった。
(小蘭様は本当に……何も知らないのだろうか。それとも、全部知っていて、それでも笑っているのだろうか)
どちらにせよ、この方にはかなわない。そう、青梅は思った。
黎鳳の日常は表面上変わらなかった。朝の政務、昼の謁見、夜の書見。冷静で、静謐で、すべてをこなす完璧な皇帝。
だが、その内側では、何かが少しずつ限界に近づいていた。
まず、北の離宮の護衛から毎日上がってくる報告書。
「対象、本日は花壇に新たな種を植えた。陳五に手伝わせた。陳五、喜んでいる様子」
「対象、料理人より蒸し菓子の作り方を習い、本日は護衛全員分を作ったとのこと。林七、大変喜んでいる様子」
「対象、本日は縁側で書を読んでいた。夕暮れ時に北の空を見て、何かを呟いた。内容は聞き取れなかった。しかし、笑っていた」
黎鳳は報告書を読むたびに顔色を変えなかった。
しかし、報告書を読んだあとの彼の筆圧は、常に若干高くなる傾向があった。
「……北の空を見て、何を呟いたのだ」
独り言が出た。引き出しの鍵を取り出し、最新の絵を取り出す。孫岩が昨日届けた、夕暮れ時に縁側に座る小蘭の横顔だ。
沈む夕日の中、その横顔はやはり、どこかを見ている。遠いどこかを。
(……北の空とは、どこだ。故郷のある方向か。それとも私の居る場所の方角か)
後者であってほしい、という欲望が湧き上がり、彼は慌ててそれを打ち消した。
(……あってはならない。そのような考えは)
さらに深刻な問題として、昨日の報告書にはこうあった。
「対象、東側離宮の妃嬪・桃花の案内で後宮内庭園を散策。その際、侍従の呉鵬と会話。会話の内容は……」
黎鳳の目がそこで一瞬止まった。
呉鵬──年は二十二。顔立ちが整っているとの記録あり。
(……こいつは小蘭と何を話していた?)
報告書の続きを読んだ。
「会話は花にまつわる無害な内容のみ」
無害。それはわかっている。しかし、黎鳳の内側では、小さな、しかし確実な火が燃え始めていた。
(呉鵬を南の護衛へ異動)
そういう命令書を書きかけたが、彼はそっと紙を伏せた。……これはいけない。
彼は深く息を吐き、天井を仰いだ。
(私は本格的に、まずいことになっているようだ……)
自覚はあった。完全に自覚していた。自覚していながら、どうにもならなかった。
報告書が届くたびに安堵し、絵を見るたびに引き出しを閉め直し、「呉鵬を異動させろ」という命令書を三枚書いては全部破り捨てた。
これ以上は限界だ。決着させなければならない。
その夜、小蘭のもとへ、予期せぬ使いが来た。
「陛下より、今夜ご寝所へ参るよう仰せです」
女官が伝えた言葉に、青梅の顔が青ざめた。
「小蘭様……」
「はい、すぐに参ります!」
青梅が「お体に気をつけて……」と半泣きで見送る中、小蘭は晴れやかな顔で皇帝の寝所へと向かった。
その背中を見送りながら、青梅は静かに目頭を押さえた。
(小蘭様は何もわかっていない……でも、わからないまま幸せそうにしているのだから、それが一番かもしれない)
と、自分を納得させた。
* * *
黎鳳の寝所は広く、そして静かだった。燭台の炎が揺れ、室内を橙色に染める。そこに皇帝は立っていた。いつも通りの黒い長衣、いつも通りの冷たい表情、いつも通りの、感情を殺した瞳。
だが今夜は、その瞳の奥に、見たことのない何かがあった。
「来たか」
「はい! お呼びいただき嬉しいです!」
小蘭は部屋に入るなり、にこにこと微笑んだ。
黎鳳はしばらく無言でその顔を見た。
(……本当に私のことが怖くないのか)
彼は椅子に腰を下ろし、静かに口を開いた。
「一つ話がある。……座れ」
「はい」
「……貴様は、私のことをどう思っている?」
「え?」
「聞こえないのか。私のことを、どういう人間だと思っているのか、答えよ」
小蘭は少し考え込んだ。
そして、真剣な顔で答えた。
「優しい方だと思います」
「…………」
「それから、不器用な方ですよね。でも、不器用なのに、ちゃんと伝えようとしてくださっている方。そういう方だと思っております」
黎鳳の眉間に、微かな皺が寄った。
「……私が……優しいだと?」
「はい」
「後宮の端の古びた離宮に押し込め、二十人以上の兵士で四六時中監視し、他の妃嬪とろくに交流もさせないようにしている私が?」
「それはもちろん、おそばに置きたくてうずうずされているのを、必死にこらえていらっしゃるんですよね!」
黎鳳の時間が、また止まった。
「……何故、そういう解釈になる」
「だって、もし本当に私を遠ざけたいなら、後宮から追い出せばよかったはずです。でも追い出さなかった。それは……陛下が私のことを、気にかけてくださっているからでしょ?」
沈黙が降りた。長い沈黙だった。
燭台の炎が一度大きく揺れた。
黎鳳はゆっくりと立ち上がると、窓辺に歩み寄った。
しばらく何も言わなかったが、やがて、深く息を吐くようにして口を開いた。
「……いいか」
「はい」
「私は、貴様が思うような高潔な人間ではない」
声は低く、静かだった。
しかし、その静けさの奥に、何か切迫したものがあった。
「私は……その……貴様のことを、閉じ込めておきたいと思っている」
小蘭は静かに聞いていた。
「後宮の奥深くに閉じ込めて、他の誰とも会わせず、私だけが見られるようにしておきたい──そういう醜い欲望が、この私の中にある」
黎鳳は、小蘭の顔を見ることができなかった。
「それだけではない。貴様が他の男と二言三言言葉を交わしただけで、そいつを南の護衛に異動させろという命令書を三枚書いた。それらは全て破り捨てたが、書いたことは事実だ」
小蘭は目を丸くした。
「それから……」
黎鳳は、低く続けた。
「毎晩、孫岩に描かせた貴様の絵を、見ている」
静寂。
「一人で、毎晩……見ている……絵の中を貴様を……」
その言葉は、彼にとって最大の告白だった。
誰にも、生涯知られるはずのなかったことを、今夜ここで、全部明かした。
「私は醜い男だ。嫉妬深く、独占欲が強く、感情を言葉にすることができず、そのくせ、毎晩お前の絵を見て、やもすれば口角が上がりそうになる愚かな男だ」
黎鳳はそこでようやく、小蘭を見た。
「さあ。これを聞いて、幻滅しただろう。逃げよ。逃げてよい。そうなれば、私も少しは正気を取り戻せる」
彼は、ひどく疲れた顔をした。玉座に座る氷の暴君の仮面が、今夜初めて外れていたのだ。
そこにいたのは、ただの、二十四歳の、不器用な男。
小蘭は、しばらく黙っていた。
黎鳳は固唾を呑んで、小蘭の返事を待っていた。
小蘭は静かに立ち上がった。
黎鳳の胸が一瞬、ぎゅっと収縮した。
小蘭が立ち去ってしまうと思ったのだ。
しかし、小蘭は立ち去らなかった。
代わりに、その瞳を輝かせて、こう言った。
「わあ……」
一言が、夜の空気に溶けた。
「陛下って、私がいないと、寂しくて寂しくてたまらない方だったんですね!」
「……は?」
「毎晩、私の絵を見ていらっしゃるなんて。命令書を書いては破り捨てるなんて。一生懸命、我慢していらっしゃったんですね!」
「いや、私が言いたかったのはそういうことでは……」
「鬼瓦の裏に、福の神がいらっしゃるようです!」
「それは、どういう意味だ?」
「陛下って、外からは見えないけど、中はこんなに可愛らしいってことです」
黎鳳の顔が、生まれて初めて、人前で赤くなった。
「か……可愛らしい、と言ったか、今」
「言いました」
「私を指して、可愛いと?」
「だって……本当のことですから」
黎鳳は口を開いた。しかし、言葉が出なかった。
口を閉じた。また開いた。そして閉じた。
その間、小蘭はまっすぐに彼を見て、微笑み続けていた。あの、曇り一つない、最初の謁見のときの目で。
黎鳳は天を仰いだ。もう、どうにも、ならなかった。
彼はゆっくりと、その場に膝をついた。
そして、小蘭のいる椅子の傍らへ崩れ落ちるように座り込み、彼女の膝の前で、頭を垂れた。
小蘭は驚いて立ち上がろうとしたが、黎鳳の手が、そっと彼女の手を掴んでいた。強くも弱くもない、しかし確かな力で。
「…………もう、どうにでもなれ」
今まで小蘭が聞いたことのない、柔らかい声だった。
「一生、私のそばで笑っていろ」
それは命令の形をしていたが、誰の耳にも命令には聞こえないだろう。
「はい!」
それから後の後宮は、かつてと大きく様相を変えた。
まず、小蘭が北の離宮から本宮に近い、陽当たりの良い離宮へと移された。「幽霊屋敷」のことは本人が気に入っていたので惜しがったが、花壇を見に行くことは許された。
護衛の数はさらに増えた。理由はもう、誰も追及しなかった。
そして最大の変化は──皇帝が週に三度、小蘭の離宮を訪れるようになったことだ。
もちろん表向きの名目は「後宮の巡視」だ。
しかし、黎鳳が必ず小蘭の離宮の前で足を止め、中へ入り、出てくるまで一刻半かかることを、後宮の誰もが知っていた。
「陛下、本日も巡視でございますか」
「うるさい!」
「はい、巡視でございますね」
柳玲清は、最近すっかり頷くのが上手になっていた。
小蘭の離宮では、皇帝が庭の花壇の前にある石のベンチに座り、小蘭がその隣に座って何かを話すという時間が流れた。
黎鳳は最初、ただ黙って隣にいることしかできなかった。
しかし、小蘭のゆるやかな話し声を聞いているうちに、少しずつ、言葉が出るようになった。
「この花は何だ」「なぜ赤い」「雨が来る前に摘まなくていいのか」
それが次第に、「昨日、北の国から使者が来て……」という話になり、やがて、「子供の頃、実は陶器の人形を百人の護衛で守ったことがある」という話にまでなった。
小蘭はその話を聞いて、声を上げて笑った。
「百人! 陛下って、本当に昔から……!」
「……笑うな。当時は真剣だったのだ」
「でも、可愛いじゃないですか!」
「可愛くない!」
「可愛いです!」
「……うるさい」
しかし、黎鳳の口角は、ほんの僅かに、しかし確実に、上がっていた。
* * *
語り草となったのは、ある日の夕暮れの出来事だ。
庭で薔薇の世話をしていた小蘭が、うっかり棘で指を刺した。血が一滴、白い指先に滲んだ。
その瞬間、傍らにいた黎鳳の顔色が変わった。彼は素早く小蘭の手を取り、傷を確認し、
「柳玲清! 医者を呼べ! 今すぐだ!」
と宦官を怒鳴りつけ、次に
「なぜ手袋をしていない! 薔薇の世話をするときは手袋が必要だと誰が教えなかったのか、あとで全員に説教する!」
と護衛兵を怒鳴り、最終的に小蘭の指に自分の袖の布を巻き始めた。
小蘭は、その間ずっと、あたたかい目をして黎鳳を見ていた。
「……陛下、大げさですよ。ちょっと刺さっただけですから」
「黙れ。感染するかもしれない」
「薔薇の棘で感染はしません」
「するかもしれない。私が言ったらする」
「……ふふ」
「笑うな」
「ごめんなさい。でも、嬉しくて」
「なにが」
「こんなに心配してもらえて、嬉しいです」
黎鳳は、袖の布を巻く手を止めた。
一瞬だけ、彼は小蘭を見た。その瞳が、ほんの僅かに、柔らかくなった。
「……心配など……していない」
「してますよ」
「していない!」
「してますって」
「………そんなことは、私の勝手だ」
「はい!」
小蘭が満面の笑みで頷いた瞬間、黎鳳はそっぽを向いた。
しかし、耳が見事に赤かった。
それを見ていた陳五は、翌日の報告書にこう記した。
「対象、本日は陛下と薔薇の世話。対象、軽傷。陛下、大変ご心配の様子。陛下の耳が赤かった」
その報告書を読んだ柳玲清は、静かに報告書を折り畳み、永遠にどこかへしまい込んだ。
後宮では、いつしかこんな噂が流れるようになった。
「小蘭様は陛下をまったく怖がらないそうだ」
「それどころか、陛下を『可愛い』と呼ぶらしい」
「そして陛下は、怒るでもなく……なんと、赤くなるのだとか」
「まさか?!」
「本当だ。陳五が見たと言っていた」
一方、半年の謹慎処分となった寧貴妃の居室には、ある日、小さな包みが届いた。
差出人は北の離宮の小蘭。中には茶がらが丁寧に紙に包まれて入っており、一枚の書き付けが添えられていた。
「先日の牡丹のこと、まだ気になっておりました。根元に撒いてみてください。きっとよくなります。寧貴妃様のお庭が美しく咲き揃う春を、楽しみにしております。 小蘭より」
寧貴妃はその包みを、長い間見つめていた。
翠鈴が去った後の居室は、静かで、広すぎた。
やがて、彼女は包みの茶がらを受け取り、自分で庭へ出た。これまで三年間、庭の世話は庭師に任せきりだった。
膝を曲げ、牡丹の根元に、小さな手で茶がらを撒いた。
土の感触が、指先に伝わった。
寧貴妃はしばらく、その感触を感じていた。
そして、静かに、小さく笑った。
誰も見ていない庭で、初めて見せる、計算のない笑みだった。
孫岩が最後に描いた絵は、椅子に二人で座っている場面だった。
一人は楽しそうに笑い、一人は横を向いて、しかし、その横顔には、見る人が見れば気づくほどの微笑みが浮かんでいた。
その絵は、引き出しにではなく、寝所の壁に飾られた。
大陸最強の皇帝は、かくして「ただの愛妻家」へとなり下がった、あるいは、成り上がったのかもしれない。
後宮中がそのおぼろけた睦まじさに振り回され、陳五は今日も小蘭の手作り菓子を楽しみに出勤し、孫岩は今日も二人の絵を描き、柳玲清は今日も報告書の一部を永遠に封印し、青梅は今日も「まさかこんな展開になるとは」と感慨深げにため息をつく。
そして黎鳳は、今日も寝所の壁の絵を見てから眠りについた。
翌朝、最初に考えることは、「今日は何を理由に小蘭の離宮を訪ねようか」だった。
氷は溶けた。
正確には、溶かされた。
一滴の、無防備な笑顔に、よって。
居室の窓辺に立ち、回廊の向こうに見える北の離宮の方角をじっと眺めながら、彼女は翠鈴に静かに告げた。
「……花壇に毒草を紛れ込ませなさい」
翠鈴がわずかに眉を上げた。
「毒草、でございますか」
「致死性の高いものはだめだ。見た目が普通の草に似ていて、触ると肌が荒れるか、煮出せば腹痛を引き起こす程度のもの。あの娘は植物の世話が好きらしいから、花壇に夢中になっているところで触れるでしょう」
「しかし……あの娘は植物に詳しいと聞いておりますが?」
「だからこそ、一目では気づかれない毒草を選びなさい。専門家でも見分けがつけづらいものが、野にはいくらでもあるわ」
翠鈴は深く頷いた。寧貴妃の言葉は、いつも論理的だった。感情ではなく、計算で動く。それが彼女の強さでもあり、彼女自身もそう信じていた。
三日後、北の離宮の花壇に、見慣れぬ草が数本、そっと植えられた。
南方の乾燥地にのみ自生する山毒草──葉の形は普通の野草に酷似しているが、触ると皮膚が赤く腫れ、汁を煎じれば腹痛を起こす。北方では滅多に見られない種だった。
* * *
翌朝。
花壇の手入れをしていた小蘭が、その草の前でしゃがみ込んだ。
「あら?」
青梅が水差しを持って近づいてくる。
「小蘭様? どうかなさいましたか」
「この草、昨日まではなかったですよね?」
「え? ええ、たしかに……」
小蘭は草の葉を、触らないようにしながら、じっくりと観察した。
葉の形、茎の断面、葉脈のパターン、そして葉の縁のわずかな鋸歯の形状。幼い頃から山を歩き、薬草図鑑を読み込んで育った記憶が、静かに答えを導き出した。
「……これ、山毒草ですね。触ると皮膚が赤くなる草です。故郷の山にも生えていましたが、北方のものとは少し葉の形が違いますが、南方の種でしょうか」
青梅の顔が、ゆっくりと青ざめた。
「さ、触ると皮膚が?」
「はい。でも乾燥させて煎じると、虫刺されや湿疹に効く外用薬になるんです。故郷では重宝していました。捨てないでとっておきましょう。手袋をして掘り起こして、乾燥させますね」
小蘭は嬉しそうに立ち上がった。
「青梅、手袋を持ってきてください。あと、医官の孟先生に『南方の山毒草が手に入りました』とお伝えして。薬として使えますから、欲しいかどうか聞いてみます。希少な素材なので、喜んでくださるかもしれません」
青梅は考えた。
(これは……誰かが意図的に植えたのでは?)
「……青梅、どうしましたか? 顔が青いですよ」
「いえ、なんでも……」
(調べてみるとしよう。小蘭様には余計な心配をかけさせたくない)
午後、小蘭は医官の孟先生のもとへ山毒草を届けた。
孟先生は目を丸くして「これはどこで?」と聞くと、「花壇に生えていました!」と明るく答えた。
孟先生は草を仔細に検分し、首を大きく傾げた。
「……この草は、北方には自生しません。南方の乾燥した高地にのみ生息する種です。自然に生えることはあり得ません」
小蘭の目が、少しだけ真剣になった。
「つまり……誰かが植えたということですか?」
「その可能性が高いかと」
小蘭はしばらく考えた。
そして、静かに頷いた。
「……でも薬草として使えることがわかって良かったです。孟先生、ご活用ください。こちらの処理はお任せします」
「は、はあ……」
「それと、私の花壇に誰かが立ち入った可能性があるということ、陳五さんに伝えておきます。護衛の方に知っておいていただいた方がいいと思いますので」
孟先生は深々と頭を下げた。なんとも、落ち着いた方だ、と思った。
それ以上に、小蘭が南方の希少な薬草を一瞥で正確に同定したことに、純粋に驚いていた。
その夜、陳五からの報告書には短くこう記されていた。
「対象、花壇に不審な植物を発見。山毒草と正確に識別し、医官に提供。不審者の侵入の可能性を本人より報告受けた。調査を進言する」
黎鳳は報告書を三度読んだ。そして、筆を取り、ごく短い命令を書いた。
「北の離宮周辺の監視を強化せよ。侵入者があれば即刻拘束し、直接報告せよ」
彼の顔は動かなかった。しかし、紙を持つ指先が、ほんの少しだけ、白くなっていた。
(……誰だ、小蘭に危害を加えようとするやつは……)
深い怒りが、彼の胸の中で燃え始めていた。
* * *
翌日、孟先生は特別に希少な山毒草の薬草見本を入手したとして、同僚の医官たちに説明する小さな勉強会を開いた。
「北の離宮の小蘭様から提供していただいたものです。小蘭様の御見識には、私も驚かされました」
その話は宮廷の医官たちの間に広まり、やがて「北の離宮の妃嬪は薬草の知識が深い」という評判が静かに生まれた。
寧貴妃にそれが伝わったのは三日後のことだった。
翠鈴から報告を受けた寧貴妃は、しばらく無言でいた。
(毒草が……薬草として活用された? しかもあの娘の評判が上がっている?)
第二戦目も、敗北──
ただし今回は、単なる失敗以上のものを招いていた。黎鳳が侵入者の調査を命じたという情報が、翠鈴の情報網を通じて入ってきたからだ。
(……陛下が、動き始めている)
寧貴妃の手が、膝の上でそっと握り締められた。
北の離宮に移って一月が経った。
小蘭の日常は充実していた。花壇は順調に育ち、薔薇の苗を青梅と一緒に植えた。
護衛の兵士たちとも顔馴染みになり、陳五は今や小蘭が手作りしたお菓子を楽しみに出勤するようになっていた。
厨房の料理人からも気に入られ、週に一度は「今日は新しい料理を教えましょうか」と申し出てくれるようになった。
ただ一つ、残念なことがあるとすれば──
「最近は陛下に、全然お会いできていないんですよね」
縁側に腰かけ、夜風に当たりながら、小蘭はそっと呟いた。
隣で青梅が複雑な顔をした。
(それは……陛下が望まれていることでは……)
そう思ったが、口にはしなかった。
「でも、護衛の方々がこんなに大勢いてくださるということは、陛下は私のことを気にかけてくださっているんですよね。姿は見えなくても、ちゃんと伝わっています」
小蘭は夜空を見上げた。
満月が煌々と輝き、離宮の庭を銀色に染め上げていた。梅の木の枝が月光を透かし、石畳に繊細な影を落としている。美しい夜だった。
だから、物音に気づくのが遅れた。
庭の木の陰。ほんの微かな、枝の揺れ。
小蘭は首を傾げた。風はない。では、あれは。
「青梅、中へ入っていてください」
「え? でも、小蘭様……」
「大丈夫です。ちょっと確認してきます」
立ち上がりかけた小蘭の前で、木の陰から黒装束の人影が踊り出た。月光に手の中のものが光る。刃だ。
青梅が悲鳴を上げた。
小蘭は動けなかった。
頭が状況を理解するより先に、体が固まっていた。
怖い、と思う間もなく、ただ目が、目の前の刃先を映し続けていた。
その瞬間──
黒装束の人影が、突然横から吹き飛んだ。
何が起きたか、小蘭には瞬時に理解できなかった。気づけば庭の石畳に人影が倒れ、その傍らに人が立っていた。黒い衣。乱れた衿。右手に、赤く濡れた剣を携えた人が。
「……陛下?」
小蘭の声が、夜の庭に吸い込まれた。
黎鳳は、小蘭をちらりと一瞥した。
その視線はいつも通り冷たく、感情を映さなかった。
しかし、次の瞬間、彼の視線は倒れた人影へ戻り、足先でその体を転がして息があることを確認した後、周囲の闇に向けて低く言い放った。
「他にいるか」
答えはなかったが、木の陰で人影が二つ、素早く気配を消した。黎鳳はそれをただ冷たく見送ってから、剣を収めた。それから、小蘭を振り向いた。
「怪我はないか」
「はい! 全然大丈夫です!」
あまりにも元気な返答に、黎鳳の眉が微かに動いた。
しかし、彼はそれ以上何も言わず、踵を返そうとした。その前に、倒れた黒装束の男を一瞥して、低く呟いた。
「私の獲物に手を出すな」
声は、夜の静寂に深く沈んだ。
「こいつの命を奪うのは、私だけだ」
刃のような言葉だった。聴いた者を震えあがらせるような、獣の低い唸りのような宣告。
「陛下!」
小蘭が駆け出した。
黎鳳が振り返る間もなく、小蘭は彼の袖を掴んで、血まみれの剣を携えたまま立つ皇帝へ、まっすぐに近づいてきた。
その顔は真剣だった。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
黎鳳は固まった。
「……私のことが、心配なのか」
「当然です! お怪我をされたのでは?」
小蘭の目が、黎鳳の手元の剣先へ向いた。
そこに返り血がついているのを見て、眉を下げた。
「陛下……」
「これは刺客の血だ。私のではない」
「本当ですか?」
「嘘をついてどうする」
小蘭は一瞬だけ考え込むような顔をし、それからほっと息を吐いて、笑った。
「よかったです。……陛下のお言葉の意味、わかりました」
「……何が」
「『こいつの命を奪うのは私だけ』、つまり、私は一生、陛下と添い遂げるということですよね!」
「…………」
黎鳳の思考は、完全に停止した。
「お迎えに来てくださったんですね。ありがとうございます、陛下」
そう言って小蘭は、血まみれの剣を持ったまま固まっている皇帝に、ためらいなく抱きついた。
小さな体が、黎鳳の胸に当たった。
そのあまりにも無防備で、あまりにも信頼に満ちた感触に、黎鳳の右手から、剣がぽとりと落ちた。石畳に金属の音が響いた。
皇帝は、その場に棒のように立ち尽くしていた。
腕を回すことも、突き放すことも、何もできなかった。
ただ、月明かりの下、小蘭の黒髪が夜風に揺れるのを、上から見下ろしながら、黎鳳は生まれて初めて「どうしたらいいかわからない」という感覚の中に立っていた。
その夜の取り調べで、倒れた刺客は黎鳳直属の尋問官の前に引き出された。
しかし、刺客は口を割らなかった。
ただ一点だけが明らかになった。依頼主は後宮の人間であること。
依頼の内容は「殺さず、脅すだけでよい」という奇妙なものだったこと。
黎鳳はその報告書を読み、長い沈黙の後に立ち上がり、窓の外の夜空を見た。
後宮の人間──その候補は、いくらでも絞れた。しかし今は、証拠が必要だった。
翌朝、書斎に戻った彼は、すぐに孫岩を呼んだ。
「月夜の庭で笑っている姿を描け」
「……はい」
孫岩は深々と頭を下げながら、内心で確信した。あの方は本当に、どうしようもなく落ちてしまわれたのだ、と。
刺客の襲撃があった夜から数日後。
今度はこのような噂が流れた。
「北の離宮の小蘭様……夜な夜な、男を引き込んでいるらしいわよ」
その噂は、後宮の茶会の席で、さりげなく、しかし確実に広まった。
誰かが誰かから聞いた話、という形式で次々と広がっていく。
「護衛の男たちと、随分と親しくしているらしいですよ」
「そういえば、お菓子を振る舞ったらしいですし……」
「このことが陛下のお耳に入ったら……」
翠鈴がそれとなく広めた言葉が種となって後宮の中で育っていくのを、寧貴妃は静かに眺めていた。
あの娘が護衛の男たちと親しくしているのは事実だ。
それをわずかに誇張するだけで、陛下のお怒りを買うはず。
ところが──
噂が小蘭本人の耳に届いたのは、三日後のことだった。
「青梅、聞きましたか。私が夜に男の人を引き込んでいる、という噂があるそうですよ」
青梅は湯呑みを取り落としそうになった。
「し、小蘭様! その噂は全くの……!」
「そりゃそうよ」
小蘭は少し首を傾げながら、真剣な顔で考え込んだ。
「私が夜にお会いしているのは……陛下だけですよね? 先日も夜の庭で私を刺客から助けてくださいましたし」
「そ、そうですね……」
「つまり、その噂、もしかして陛下のこと?」
「……は?」
「だって、夜に陛下がいらしていたのは本当のことですし、誰かが見かけたのかもしれません。陛下のことを『男を引き込んでいる』と表現したとすれば……それは確かに不敬ですが、でも、みなさんが陛下のご来訪に気づいてくださっていたということは、もしかして後宮でそれが話題になっているということでしょうか」
小蘭の目が輝いた。
「もしそうなら……陛下と私のこと、もう皆さんご存知なんですね! なんだか恥ずかしいですけど、嬉しいです!」
青梅は頭を抱えた。
(違います違います、そういう意味じゃないんです小蘭様……)
その噂は、数日のうちに、後宮の中で全く別の形に変容して広まっていた。
「小蘭様は、陛下が夜に訪れているのをご存知なの?」
「つまり陛下は夜に北の離宮へ……?」
「それって、かなりご寵愛されているということでは……?」
「違う! そんな話ではなかったはず!」
翠鈴から報告を受けた寧貴妃は、思わず声を上げた。
普段は感情を見せない彼女が、それほど動揺したのは久しぶりのことだった。
「どうしてそういう方向に……」
「……それが小蘭様ご本人が、陛下のことではないかと嬉しそうに仰って……その様子を見た妃嬪たちが……」
翠鈴の説明を聞き終えた寧貴妃は、長い間、額を押さえていた。
(……あの娘は、天然なのか、それとも私を翻弄しているのか)
第三戦目、またしても敗北──
さらに悪いことに、その頃から黎鳳の様子に変化があった。
柳玲清によれば、陛下は夜の書斎での執務の合間に、しばしば「北の離宮からの報告書はまだか」と問うようになっているという。
(陛下が……報告を待っている?)
寧貴妃の美しい顔には、疲労の色が浮かんでいた。
* * *
黎鳳は密かに動いていた。
北の離宮への侵入者の件、花壇への毒草の件、刺客の件。そして、男を引き入れているという噂話──
これらの件を並べて検討したとき、一つの方向性が浮かんできた。
いずれも「小蘭を傷つける」というより「小蘭の評判を貶める、あるいは弱らせる」という意図が感じられた。過激すぎない。後宮の中で動ける人間が、慎重に計算して動いている。
(……慎重すぎるくらい慎重だ。しかし甘い)
出来事全てに、翠鈴という名の侍女が何らかの形で関わっていたことを、黎鳳の密偵は突き止めていた。
翠鈴は寧貴妃の侍女頭だ。
黎鳳はしばらくの間、机の上で指を組んだまま、無言でいた。
(……寧貴妃か)
三年間、後宮で完璧に振る舞ってきた女。非の打ち所のない礼儀作法、的確な言葉、陛下の前では常に慎み深く。彼は彼女のことを「有能で、感情を持たない女」だと思っていた。それが誤りだったということだ。
黎鳳は立ち上がり、柳玲清を呼んだ。
「寧貴妃を呼べ。正式な謁見ではなく、私の書斎へ来るよう伝えろ」
柳玲清は深く頭を下げた。その背筋に、冷たいものが走っていた。
陛下が「書斎へ来るよう」と命じるのは、正式な場よりも深刻な話をするときだからだ。
寧貴妃が書斎に通されたのは、翌日の昼過ぎだった。
彼女は完璧な礼装に身を包み、一点の乱れもない所作で入室し、深々と礼をした。
「陛下、お召しにより参りました」
「座れ」
黎鳳の声は、いつも通り冷たかった。しかし、その冷たさの質が、普段とはわずかに違った。
静かすぎる冷たさだった。嵐の前の海のような。
寧貴妃は椅子に腰を下ろし、まっすぐに皇帝を見た。三年間で培った平静さで、表情を保った。
「一つ、聞く」
「はい」
「北の離宮への不審な侵入者の件、花壇への異物の持ち込みの件、そして刺客の件……これらについて、何か知っていることはないか」
沈黙が降りた。
寧貴妃の瞳が一瞬だけ、かすかに揺れた。彼女は表情を整えようとした。
しかし、長い沈黙そのものが、既に答えになっていた。
黎鳳はただ、見ていた。何も言わず、急かさず、ただ静かに見ていた。
その目が、あまりにも全てを見通しているように感じられた。
寧貴妃の指先が、膝の上でかすかに震えた。
長い間があった。
そして彼女は、静かに、目を閉じた。
「……陛下の御心を煩わせる存在が、後宮に入ってきたと思いました」
「それだけか」
「……それだけでは、ございません」
声は揺れていた。
「私は三年間、陛下のお側にいることだけを考えて生きてきました。全てを賭けてきました。それが……入宮して数日の娘に、いとも簡単に……」
感情が漏れた。
寧貴妃は自分でも気づかなかった。三年間、一度も見せなかった本音が、今初めて、溢れていた。
「……醜いことと存じます。しかし」
黎鳳は彼女を見た。その表情は動かなかったが、目の奥に何か複雑なものを見て取った。
「翠鈴を直ちに後宮から出せ。処分は追って沙汰する」
「……」
「貴様は……今後、謹慎せよ。三ヶ月間、居室から出ることを禁ずる」
処刑ではなかった。後宮から追い出されるわけでもなかった。
寧貴妃は深く頭を垂れた。
「……御意」
退室しようとした彼女の背に、黎鳳の声が掛かった。
「一つ、言っておく」
「……はい」
「三年間、後宮で誰もが怖れる中で非の打ち所なく振る舞い続けたことは、評価する。だが──」
黎鳳は窓の外を見た。
「計算でしか人を動かすことができない者は、計算のできない者には永遠に勝てない」
寧貴妃は無言だった。
彼女が書斎を出たとき、廊下の窓から北の方角が見えた。
北の離宮の庭で、何か作業をしている人影が、遠く、小さく見えた。小蘭だ。
寧貴妃はしばらく、その人影を見つめた。
(……計算できない者)
後宮の廊下に、春の風が通り抜けた。
白檀の香が薄れ、その代わりに、どこかから桃花の甘い香りが漂ってきた。
* * *
一方その頃、北の離宮では──
「青梅、陳五さんに聞いたんですが、翠鈴さんがお屋敷に帰られたとのことで……寧貴妃様のお加減でも悪いのでしょうか。心配です」
小蘭は花壇に水をやりながら、のんびりと言った。
青梅は盛大に吹いた。
「し、小蘭様……」
「今度お見舞いに伺おうかしら。この間の牡丹の件も気になっていましたし、茶がらを持って行ってあげましょうか」
「いや……それは……」
青梅は答えながら、空を見上げた。雲一つない、青い春の空だった。
(小蘭様は本当に……何も知らないのだろうか。それとも、全部知っていて、それでも笑っているのだろうか)
どちらにせよ、この方にはかなわない。そう、青梅は思った。
黎鳳の日常は表面上変わらなかった。朝の政務、昼の謁見、夜の書見。冷静で、静謐で、すべてをこなす完璧な皇帝。
だが、その内側では、何かが少しずつ限界に近づいていた。
まず、北の離宮の護衛から毎日上がってくる報告書。
「対象、本日は花壇に新たな種を植えた。陳五に手伝わせた。陳五、喜んでいる様子」
「対象、料理人より蒸し菓子の作り方を習い、本日は護衛全員分を作ったとのこと。林七、大変喜んでいる様子」
「対象、本日は縁側で書を読んでいた。夕暮れ時に北の空を見て、何かを呟いた。内容は聞き取れなかった。しかし、笑っていた」
黎鳳は報告書を読むたびに顔色を変えなかった。
しかし、報告書を読んだあとの彼の筆圧は、常に若干高くなる傾向があった。
「……北の空を見て、何を呟いたのだ」
独り言が出た。引き出しの鍵を取り出し、最新の絵を取り出す。孫岩が昨日届けた、夕暮れ時に縁側に座る小蘭の横顔だ。
沈む夕日の中、その横顔はやはり、どこかを見ている。遠いどこかを。
(……北の空とは、どこだ。故郷のある方向か。それとも私の居る場所の方角か)
後者であってほしい、という欲望が湧き上がり、彼は慌ててそれを打ち消した。
(……あってはならない。そのような考えは)
さらに深刻な問題として、昨日の報告書にはこうあった。
「対象、東側離宮の妃嬪・桃花の案内で後宮内庭園を散策。その際、侍従の呉鵬と会話。会話の内容は……」
黎鳳の目がそこで一瞬止まった。
呉鵬──年は二十二。顔立ちが整っているとの記録あり。
(……こいつは小蘭と何を話していた?)
報告書の続きを読んだ。
「会話は花にまつわる無害な内容のみ」
無害。それはわかっている。しかし、黎鳳の内側では、小さな、しかし確実な火が燃え始めていた。
(呉鵬を南の護衛へ異動)
そういう命令書を書きかけたが、彼はそっと紙を伏せた。……これはいけない。
彼は深く息を吐き、天井を仰いだ。
(私は本格的に、まずいことになっているようだ……)
自覚はあった。完全に自覚していた。自覚していながら、どうにもならなかった。
報告書が届くたびに安堵し、絵を見るたびに引き出しを閉め直し、「呉鵬を異動させろ」という命令書を三枚書いては全部破り捨てた。
これ以上は限界だ。決着させなければならない。
その夜、小蘭のもとへ、予期せぬ使いが来た。
「陛下より、今夜ご寝所へ参るよう仰せです」
女官が伝えた言葉に、青梅の顔が青ざめた。
「小蘭様……」
「はい、すぐに参ります!」
青梅が「お体に気をつけて……」と半泣きで見送る中、小蘭は晴れやかな顔で皇帝の寝所へと向かった。
その背中を見送りながら、青梅は静かに目頭を押さえた。
(小蘭様は何もわかっていない……でも、わからないまま幸せそうにしているのだから、それが一番かもしれない)
と、自分を納得させた。
* * *
黎鳳の寝所は広く、そして静かだった。燭台の炎が揺れ、室内を橙色に染める。そこに皇帝は立っていた。いつも通りの黒い長衣、いつも通りの冷たい表情、いつも通りの、感情を殺した瞳。
だが今夜は、その瞳の奥に、見たことのない何かがあった。
「来たか」
「はい! お呼びいただき嬉しいです!」
小蘭は部屋に入るなり、にこにこと微笑んだ。
黎鳳はしばらく無言でその顔を見た。
(……本当に私のことが怖くないのか)
彼は椅子に腰を下ろし、静かに口を開いた。
「一つ話がある。……座れ」
「はい」
「……貴様は、私のことをどう思っている?」
「え?」
「聞こえないのか。私のことを、どういう人間だと思っているのか、答えよ」
小蘭は少し考え込んだ。
そして、真剣な顔で答えた。
「優しい方だと思います」
「…………」
「それから、不器用な方ですよね。でも、不器用なのに、ちゃんと伝えようとしてくださっている方。そういう方だと思っております」
黎鳳の眉間に、微かな皺が寄った。
「……私が……優しいだと?」
「はい」
「後宮の端の古びた離宮に押し込め、二十人以上の兵士で四六時中監視し、他の妃嬪とろくに交流もさせないようにしている私が?」
「それはもちろん、おそばに置きたくてうずうずされているのを、必死にこらえていらっしゃるんですよね!」
黎鳳の時間が、また止まった。
「……何故、そういう解釈になる」
「だって、もし本当に私を遠ざけたいなら、後宮から追い出せばよかったはずです。でも追い出さなかった。それは……陛下が私のことを、気にかけてくださっているからでしょ?」
沈黙が降りた。長い沈黙だった。
燭台の炎が一度大きく揺れた。
黎鳳はゆっくりと立ち上がると、窓辺に歩み寄った。
しばらく何も言わなかったが、やがて、深く息を吐くようにして口を開いた。
「……いいか」
「はい」
「私は、貴様が思うような高潔な人間ではない」
声は低く、静かだった。
しかし、その静けさの奥に、何か切迫したものがあった。
「私は……その……貴様のことを、閉じ込めておきたいと思っている」
小蘭は静かに聞いていた。
「後宮の奥深くに閉じ込めて、他の誰とも会わせず、私だけが見られるようにしておきたい──そういう醜い欲望が、この私の中にある」
黎鳳は、小蘭の顔を見ることができなかった。
「それだけではない。貴様が他の男と二言三言言葉を交わしただけで、そいつを南の護衛に異動させろという命令書を三枚書いた。それらは全て破り捨てたが、書いたことは事実だ」
小蘭は目を丸くした。
「それから……」
黎鳳は、低く続けた。
「毎晩、孫岩に描かせた貴様の絵を、見ている」
静寂。
「一人で、毎晩……見ている……絵の中を貴様を……」
その言葉は、彼にとって最大の告白だった。
誰にも、生涯知られるはずのなかったことを、今夜ここで、全部明かした。
「私は醜い男だ。嫉妬深く、独占欲が強く、感情を言葉にすることができず、そのくせ、毎晩お前の絵を見て、やもすれば口角が上がりそうになる愚かな男だ」
黎鳳はそこでようやく、小蘭を見た。
「さあ。これを聞いて、幻滅しただろう。逃げよ。逃げてよい。そうなれば、私も少しは正気を取り戻せる」
彼は、ひどく疲れた顔をした。玉座に座る氷の暴君の仮面が、今夜初めて外れていたのだ。
そこにいたのは、ただの、二十四歳の、不器用な男。
小蘭は、しばらく黙っていた。
黎鳳は固唾を呑んで、小蘭の返事を待っていた。
小蘭は静かに立ち上がった。
黎鳳の胸が一瞬、ぎゅっと収縮した。
小蘭が立ち去ってしまうと思ったのだ。
しかし、小蘭は立ち去らなかった。
代わりに、その瞳を輝かせて、こう言った。
「わあ……」
一言が、夜の空気に溶けた。
「陛下って、私がいないと、寂しくて寂しくてたまらない方だったんですね!」
「……は?」
「毎晩、私の絵を見ていらっしゃるなんて。命令書を書いては破り捨てるなんて。一生懸命、我慢していらっしゃったんですね!」
「いや、私が言いたかったのはそういうことでは……」
「鬼瓦の裏に、福の神がいらっしゃるようです!」
「それは、どういう意味だ?」
「陛下って、外からは見えないけど、中はこんなに可愛らしいってことです」
黎鳳の顔が、生まれて初めて、人前で赤くなった。
「か……可愛らしい、と言ったか、今」
「言いました」
「私を指して、可愛いと?」
「だって……本当のことですから」
黎鳳は口を開いた。しかし、言葉が出なかった。
口を閉じた。また開いた。そして閉じた。
その間、小蘭はまっすぐに彼を見て、微笑み続けていた。あの、曇り一つない、最初の謁見のときの目で。
黎鳳は天を仰いだ。もう、どうにも、ならなかった。
彼はゆっくりと、その場に膝をついた。
そして、小蘭のいる椅子の傍らへ崩れ落ちるように座り込み、彼女の膝の前で、頭を垂れた。
小蘭は驚いて立ち上がろうとしたが、黎鳳の手が、そっと彼女の手を掴んでいた。強くも弱くもない、しかし確かな力で。
「…………もう、どうにでもなれ」
今まで小蘭が聞いたことのない、柔らかい声だった。
「一生、私のそばで笑っていろ」
それは命令の形をしていたが、誰の耳にも命令には聞こえないだろう。
「はい!」
それから後の後宮は、かつてと大きく様相を変えた。
まず、小蘭が北の離宮から本宮に近い、陽当たりの良い離宮へと移された。「幽霊屋敷」のことは本人が気に入っていたので惜しがったが、花壇を見に行くことは許された。
護衛の数はさらに増えた。理由はもう、誰も追及しなかった。
そして最大の変化は──皇帝が週に三度、小蘭の離宮を訪れるようになったことだ。
もちろん表向きの名目は「後宮の巡視」だ。
しかし、黎鳳が必ず小蘭の離宮の前で足を止め、中へ入り、出てくるまで一刻半かかることを、後宮の誰もが知っていた。
「陛下、本日も巡視でございますか」
「うるさい!」
「はい、巡視でございますね」
柳玲清は、最近すっかり頷くのが上手になっていた。
小蘭の離宮では、皇帝が庭の花壇の前にある石のベンチに座り、小蘭がその隣に座って何かを話すという時間が流れた。
黎鳳は最初、ただ黙って隣にいることしかできなかった。
しかし、小蘭のゆるやかな話し声を聞いているうちに、少しずつ、言葉が出るようになった。
「この花は何だ」「なぜ赤い」「雨が来る前に摘まなくていいのか」
それが次第に、「昨日、北の国から使者が来て……」という話になり、やがて、「子供の頃、実は陶器の人形を百人の護衛で守ったことがある」という話にまでなった。
小蘭はその話を聞いて、声を上げて笑った。
「百人! 陛下って、本当に昔から……!」
「……笑うな。当時は真剣だったのだ」
「でも、可愛いじゃないですか!」
「可愛くない!」
「可愛いです!」
「……うるさい」
しかし、黎鳳の口角は、ほんの僅かに、しかし確実に、上がっていた。
* * *
語り草となったのは、ある日の夕暮れの出来事だ。
庭で薔薇の世話をしていた小蘭が、うっかり棘で指を刺した。血が一滴、白い指先に滲んだ。
その瞬間、傍らにいた黎鳳の顔色が変わった。彼は素早く小蘭の手を取り、傷を確認し、
「柳玲清! 医者を呼べ! 今すぐだ!」
と宦官を怒鳴りつけ、次に
「なぜ手袋をしていない! 薔薇の世話をするときは手袋が必要だと誰が教えなかったのか、あとで全員に説教する!」
と護衛兵を怒鳴り、最終的に小蘭の指に自分の袖の布を巻き始めた。
小蘭は、その間ずっと、あたたかい目をして黎鳳を見ていた。
「……陛下、大げさですよ。ちょっと刺さっただけですから」
「黙れ。感染するかもしれない」
「薔薇の棘で感染はしません」
「するかもしれない。私が言ったらする」
「……ふふ」
「笑うな」
「ごめんなさい。でも、嬉しくて」
「なにが」
「こんなに心配してもらえて、嬉しいです」
黎鳳は、袖の布を巻く手を止めた。
一瞬だけ、彼は小蘭を見た。その瞳が、ほんの僅かに、柔らかくなった。
「……心配など……していない」
「してますよ」
「していない!」
「してますって」
「………そんなことは、私の勝手だ」
「はい!」
小蘭が満面の笑みで頷いた瞬間、黎鳳はそっぽを向いた。
しかし、耳が見事に赤かった。
それを見ていた陳五は、翌日の報告書にこう記した。
「対象、本日は陛下と薔薇の世話。対象、軽傷。陛下、大変ご心配の様子。陛下の耳が赤かった」
その報告書を読んだ柳玲清は、静かに報告書を折り畳み、永遠にどこかへしまい込んだ。
後宮では、いつしかこんな噂が流れるようになった。
「小蘭様は陛下をまったく怖がらないそうだ」
「それどころか、陛下を『可愛い』と呼ぶらしい」
「そして陛下は、怒るでもなく……なんと、赤くなるのだとか」
「まさか?!」
「本当だ。陳五が見たと言っていた」
一方、半年の謹慎処分となった寧貴妃の居室には、ある日、小さな包みが届いた。
差出人は北の離宮の小蘭。中には茶がらが丁寧に紙に包まれて入っており、一枚の書き付けが添えられていた。
「先日の牡丹のこと、まだ気になっておりました。根元に撒いてみてください。きっとよくなります。寧貴妃様のお庭が美しく咲き揃う春を、楽しみにしております。 小蘭より」
寧貴妃はその包みを、長い間見つめていた。
翠鈴が去った後の居室は、静かで、広すぎた。
やがて、彼女は包みの茶がらを受け取り、自分で庭へ出た。これまで三年間、庭の世話は庭師に任せきりだった。
膝を曲げ、牡丹の根元に、小さな手で茶がらを撒いた。
土の感触が、指先に伝わった。
寧貴妃はしばらく、その感触を感じていた。
そして、静かに、小さく笑った。
誰も見ていない庭で、初めて見せる、計算のない笑みだった。
孫岩が最後に描いた絵は、椅子に二人で座っている場面だった。
一人は楽しそうに笑い、一人は横を向いて、しかし、その横顔には、見る人が見れば気づくほどの微笑みが浮かんでいた。
その絵は、引き出しにではなく、寝所の壁に飾られた。
大陸最強の皇帝は、かくして「ただの愛妻家」へとなり下がった、あるいは、成り上がったのかもしれない。
後宮中がそのおぼろけた睦まじさに振り回され、陳五は今日も小蘭の手作り菓子を楽しみに出勤し、孫岩は今日も二人の絵を描き、柳玲清は今日も報告書の一部を永遠に封印し、青梅は今日も「まさかこんな展開になるとは」と感慨深げにため息をつく。
そして黎鳳は、今日も寝所の壁の絵を見てから眠りについた。
翌朝、最初に考えることは、「今日は何を理由に小蘭の離宮を訪ねようか」だった。
氷は溶けた。
正確には、溶かされた。
一滴の、無防備な笑顔に、よって。



