冷徹皇帝の「処刑宣告」を「愛の告白」と受け取った妃のあまりのポジティブさに皇帝の鉄仮面が崩壊した件について

 天啓三年、春。
 後宮の桃花が満開を迎えるこの季節、玉座の間には緊張の糸が張り詰めていた。
 春の暖風が花びらを舞わせているというのに、その甘い香りは宮殿の重い扉をくぐった瞬間に完全に遮断され、代わりに張り詰めた沈黙だけが満ちていた。
 新たに後宮へ入る妃嬪たちの謁見の儀。それは本来、華やかであるべき宮廷の行事だった。
 しかし、今この場に集まった者たちの誰もが、磨き上げられた白大理石の床に額をつけたまま、身じろぎ一つできずにいた。
 玉座に座る者の存在感が、あまりにも重すぎるがゆえに。

 黎鳳(レイフォン)
 齢二十四にして大陸最大の版図を統べる皇帝。
 その名は「氷の暴君」として遠国にまで轟いており、外交使節が謁見を求めても、恐怖のあまり国境で引き返したという逸話すら存在した。
 その話を耳にした黎鳳本人は「非効率な話だ」と眉をひそめたというが、それもまた恐ろしさに輪をかけたと、専らの噂だった。
 玉座に深々と腰を落とした皇帝は、ただそこに座っているだけで、部屋全体の温度を数度下げているようだった。
 切れ長の黒い双眸は感情の色を一切映さず、高い鼻梁と冷然と結ばれた唇は、これ以上ないほど完璧な冷酷の造形をなしていた。
 美しい。恐ろしいほどに美しいが、その美しさはまるで研ぎ澄まされた刃のようで、見る者に「触れれば切られる」という本能的な警戒心を植え付けた。

 宦官の柳玲清(リュウレイセイ)が、震える声で妃嬪たちの名を読み上げていく。
 呼ばれた者は額を床に打ちつけ、皇帝の視線を正面から受けないよう細心の注意を払う。
 誰もが知っていた。この皇帝は気まぐれに人を処刑する、と。
 いや、実際にはそのような事実はないのだが、噂というものは往々にして実態より大きく育つものだ。
 玉座の背後に立つ宦官たちでさえ、心の中では常に「今日も陛下のお顔を見るのが怖い」と呟いているというから、その威圧感は筋金入りだった。
 そして、柳玲清が最後の名を告げた。

「次、小蘭(シャオラン)、入れ」
 静寂の中、玉座の間の重厚な扉が、静かに開いた。
 そこに現れた少女を見た瞬間、居並ぶ妃嬪や女官たちの間に、微妙な動揺が走った。
 小蘭は、一言で言えば「ふわふわ」していた。
 年は十八。身の丈は小さく、丸みのある頬は春の桃花のように薄紅色に染まり、栗色の髪は大人しく結い上げられていた。
 衣は新調されたばかりの淡桃色で、裾には丁寧な梅の刺繍が施されていたが、それすら本人の持つ雰囲気と相まって、野の花のようにのびやかに見えた。
 見た目の印象はとにかく柔らかく、何かにぽーんとぶつかったとしても、ぶつかられた側が「大丈夫ですか」と心配してしまいそうな雰囲気だった。
 しかし、その瞳だけは違っていた。
 大きく真っ直ぐに開かれた黒い瞳。そこには、一つの曇りもなかった。
 おびえも、打算も、媚びも、諦めも、何一つとして存在しない、恐ろしいまでに清澄な光がそこに宿っていた。
 後宮という場所に生きる女たちが必ず持つと言われる、澱んだ計算の色が、この少女の目の中には微塵も存在しなかった。

 小蘭は玉座の間へ歩みを進め、やがて玉座の正面で立ち止まった。
 そして、作法通りに膝をつき、頭を垂れようとして──ひょいと顔を上げた。
 その瞬間、玉座の間の空気が凍りついた。
 誰もが息を呑んだ。謁見の儀において妃嬪が皇帝の顔を正面から仰ぎ見るなど、前代未聞の非礼だった。処刑されても文句は言えない。
 処刑される。絶対に処刑される。そう確信した女官の一人が目を閉じた。もう一人は「遺書を書いておくべきだったか」と他人事のように考えた。
 だが小蘭は、ただ純粋に、眩しいものを見上げるような目をして、玉座の皇帝を見ていた。そして、微笑んだ。
(……なんだ、この小娘は)
 黎鳳の胸の中で、何かがかすかに揺らいだ。
 揺らいではいけなかった。揺らしてくれるな、と内心で叫びながら、彼は顔の筋肉に鋼鉄の意志を込めた。表情を変えてはならない。目を細めてはならない。あの柔らかな微笑みに口角を引き上げて返してやりたいなどという衝動を、今すぐ氷漬けにしなければならない。
 この皇帝の最大の弱点は、彼自身だけが知っていた。
 黎鳳は、究極的なほどに「気に入った者への執着」が強かった。
 そして、その執着はいったん火がつけば消せない業火と化す。
 かつて幼い頃、気に入った陶器の人形を一つ手に入れただけで、「この人形が割れたら」という恐怖から三日三晩眠れなくなり、人形を見るたびに護衛を増やし続けた結果、人形の周囲に兵士が百人並ぶという事態になったことがある。
 師の劉太傅にそれを知られ、
「陛下、人形に護衛は不要かと存じます」
と呆れた顔で言われたのは苦い記憶だった。

 そして今、この少女を見た瞬間に、黎鳳は悟ってしまったのだ。
 これは、まずい。
 非常にまずい。この娘を気に入ってしまったら最後、自分は彼女を永遠に後宮の奥深くへ閉じ込め、外の光など一切見せまいとするだろう。
 自分という存在の醜さを、彼はよく知っていた。
 独占欲、嫉妬心、支配欲。それらが皇帝という地位と組み合わさったとき、どれほど恐ろしいものになるか、誰より自覚していた。
 だからこそ、今すぐここで手を打たなければならない。
「……貴様」
 声は完璧なまでに冷たかった。磨き上げた黒石のように冷たく、重く、玉座の間全体に響き渡った。
 小蘭はぱちくりと瞬きをした。その瞳には、おびえの欠片すら浮かばなかった。
「貴様のような小娘が、この私の目を正面から見るとは」
 皇帝の言葉に、場全体が凍る。
 妃嬪の一人が、床に額をつけたまま小刻みに震えていた。
「その胆の据わり具合だけは認めてやる。だが──」
 黎鳳は立ち上がり、玉座の段を一段降りた。
 それだけで、妃嬪の誰かが小さく悲鳴を噛み殺した。
 皇帝が自ら動くとは、それほどの事態だという意味だ。
 衣の裾が石の床を払い、靴音が静寂に響く。彼は小蘭を真上から見下ろし、その黒い瞳に冷たい炎を宿して、低く言い放った。
「二度と私の前に顔を出すな……さもなくば」
 一拍の沈黙。
「離れられぬよう、縛り付けてくれる」
 意味は明白だ。これ以上自分の前に現れたならば、牢に繋いで二度と出さない。そういう意味の脅しだ。
 だが、黎鳳の内心では、全く別の言葉が渦巻いていた。
(頼むから逃げてくれ。私の目の前に現れ続けたら、私は本当に、この娘を手放せなくなる。後宮の奥に閉じ込めて、一生外に出さなくなる。それは絶対にいけない。だから今のうちに、私におびえて逃げてくれ。頼む)
 だが──
「……はい!」
 玉座の間に、鈴を転がしたような声が響いた。
 全員が目を見開いた。
 小蘭は跪いたまま、頬を薔薇色に染め、くりくりとした両目を輝かせ、満面の笑みを皇帝へ向けていた。
「陛下のお言葉、しかと受け取りました! ずっと、おそばにいますね!」

 玉座の間が静止した。
 時が止まったかのような沈黙の中で、黎鳳だけが、人生で初めて経験する感情の渦の中に叩き込まれていた。
(……なぜ怯えない。なぜ逃げない)

 小蘭の脳内では、実はこのような変換が行われていたのだ。
(陛下って……初対面なのに、「離したくない」って! こんなに格好いい方に、会ってすぐプロポーズされるなんて! しかも照れ隠しのために怖い顔をしているところが、またかわいい!!)
 黎鳳は、生まれて初めて言葉を失った。
 自分の脅しがまったく通用していない。
 彼の脳裏に、幼き日の陶器の人形の記憶が、猛烈な速度でフラッシュバックした。
 ……まずい。これは、本当にまずい。

* * *

 場の空気が動けずにいる中で、ただ一人だけ、この一幕を全く異なる感情とともに観察している者があった。
 後宮の入り口近く、礼装に身を包んで直立する一人の女。

 寧貴妃(ニングイフェイ)
 後宮の序列において貴妃の位を持つ彼女は、谷を見下ろす鷹のような冷たい目で、この出来事を最初から最後まで観察していた。
 その美貌は小蘭とは対極的で、精緻に整えられた目鼻立ち、白磁のような肌、漆黒の髪を飾る黄金の鳳凰簪は、「後宮の花」と謳われるに相応しい豪奢さだった。
 三年間の後宮生活で磨かれた所作は完璧で、立っているだけで周囲が自然と道を開けるほどの気品があった。

 しかし今、その美しい瞳には、隠しきれない嫉妬の炎が揺れていた。
(……あんな田舎娘が、陛下に「縛り付ける」とまで言わせるとは)
 唇が薄く微笑んだ。しかし、それは温かさとは程遠い笑みだった。
(ふん。どうせ長くは続くまい。後宮とはそういう場所だ。私がそれを教えてやる)
 彼女の細い指が、扇の縁をそっと握り締めた。
 その指先が白くなっていることに、彼女自身は気づいていなかった。

 翌朝。
 黎鳳皇帝は夜明けとともに書斎に籠もり、腕を組んで唸っていた。
 机の上には、諸国からの上奏文が山積みになっていた。
 しかし、彼の視線はそこに向かっておらず、ただ宙の一点を見つめて、昨日からずっと同じことを考え続けていた。
(あの娘と、距離を置かなければならない)
 これは国家の存亡に関わる問題だ。そう彼は自分に言い聞かせた。
 皇帝たる者が、一人の妃嬪に頭を占領されるなど言語道断。
 まして、あの娘が後宮に留まり続ければ、自分の理性はいつか必ず決壊する。そうなってからでは遅い。ゆえに策が必要だった。
柳玲清(リュウレイセイ)
「はっ、ここに」
 老宦官が素早く平伏した。
 黎鳳は静かに、しかし有無を言わさぬ声で命じた。
「小蘭を、後宮の北の離宮へ移せ」
 柳玲清の動きが一瞬止まった。
 北の離宮──それは後宮の中でも最も辺鄙な場所にある古びた建物で、「百年前に妃が一人で死んだ」という伝説から、宮女たちの間では「幽霊屋敷」と恐れられている場所だった。
 修繕こそされているが誰も使いたがらず、長らく空き家のまま放置されていた離宮だ。
「し、しかし陛下、あそこは……」
「整備させろ。雨漏りと床の腐食は修繕させ、備品はすべて新品を入れよ。庭も手入れをさせろ」
 柳玲清は口を開きかけ、閉じた。陛下がこのように細々とした手配を自ら命じるのは、珍しいことだった。
 それも「新品の備品」「庭の手入れ」とは、まるで大切な人を迎え入れるような準備ではないか。老宦官は内心で首を傾げたが、もちろん口には出さなかった。
「それから、護衛をつけろ。通常の倍だ」
「……倍、でございますか」
「不満か」
「滅相もございません」
(しかし陛下、それはもはや「遠ざける」のではなく「過保護にする」のでは……)
 老宦官は心の中でそっと呟いたが、もちろん口には出さなかった。出せるはずがなかった。

 黎鳳の論理は明快だった。後宮の端に置けば、自分の目に触れる機会が減る。それは事実だ。
 しかし同時に、後宮の端という辺鄙な場所は危険でもある。ゆえに護衛が必要だ。倍の護衛が。いや、念のため三倍でもよいかもしれない。
 もちろん、これが完全に矛盾した行動であることは、彼自身も薄々感づいていたが、認めるつもりはなかった。

 数日後、小蘭は北の離宮へ移った。
「わあ……!」
 離宮の門をくぐった瞬間、小蘭は目を輝かせて立ち尽くした。
 建物は古い。石畳は苔むし、壁には歴史の染みがある。
 しかし、その古びた風情が、どこか童話に出てくる秘密の花園のようで、小蘭には何とも言えない魅力に映った。
 しかも庭は広大であり、手入れされた木々が枝を広げ、隅では梅の木が白い花の名残を留めていた。
 春の陽光が庭の隅々まで降り注ぎ、苔の上に金の粒を散らしている。
「なんて素敵な場所!」
 後ろで、女官の青梅(チンメイ)が引きつった顔をしている。
 彼女は小蘭付きの女官として配属されたばかりの、真面目で気苦労性の十七歳だった。
「し、しかし小蘭様……ここは、幽霊が出ると噂で……」
「幽霊? それはまた面白そうです! もし本当に出たなら、一緒にお茶でも飲みましょう」
「…………」
「それにほら、見てください、この庭! 花壇を作れそうな場所がたくさんあります! 陛下ったら、私がお花が好きだとご存知だったんですね!」
「はあ……ご存知だったのでしょうか……」
 知るはずもなかった。黎鳳が北の離宮を選んだのは、単に「一番遠い場所」だからだ。
 しかし、小蘭の脳内では既に、「陛下は私の趣味を調べた上で最適な住まいをプレゼントしてくださった」という美しい物語に変換されていた。

 さらに翌日、離宮の周囲に護衛の兵士が大量に配置されているのを見て、小蘭は感激の涙を浮かべた。
「青梅、見てください! こんなにたくさん護衛をつけてくださって!」
「はあ……」
「しかも皆さん、見るからに精鋭の方々ですよ。陛下って、本当に心配性なんですから! もう、優しすぎます!」
 護衛の兵士の一人、陳五(チェンウー)は、小蘭の言葉を耳にして複雑な表情を浮かべた。
 彼らはいわゆる密偵であり、皇帝直属の監視者だ。妃嬪の行動を逐一報告するために配置されているのであって、妃嬪を守るために配置されたわけでは……いや、まあ、どちらとも言えなくもないが。

 小蘭は早速、厨房に頼んでお茶を用意してもらい、護衛の兵士たち全員に振る舞い始めた。
「寒い中お仕事大変ですね! どうぞ、温まってください!」
「あなたは甘いものはお好きですか? 私、昨日厨房の方に桂花糕(クイファガオ)の作り方を教えていただいたんですよ! 明日はそれをお持ちします!」
 陳五は、生まれて初めて、監視対象にお茶菓子を貰った。

 その夜、彼が黎鳳への報告書に書いた内容は「対象に異常行動なし。監視継続中」という一文だったが、行末に「……対象より茶の供与を受けた」という一文を消した跡が残されていた。

* * *

 一方、黎鳳の日課は密かに変化していた。
 執務の合間、彼はこっそりと、後宮お抱えの絵師・孫岩(スンイエン)を書斎へ呼びつけるようになっていた。
「描け」
「は、はい。何を……」
「北の離宮の妃だ」
 孫岩は目を瞬かせた。絵師として後宮に仕えて十年。妃嬪の肖像画を依頼されることは珍しくない。
 しかし、皇帝自身から直接、しかも「密かに」という前置きつきで依頼されたのは初めてだった。
 それも、正式な肖像画ではなく「日常の姿を描け」とは。
「ど、どのような構図で……」
「庭にいる姿。笑っている顔。水を撒いているところ。茶を注いでいるところ。あと、夕暮れを見ている横顔も。それから……」
 延々と注文を述べ続ける皇帝を前に、孫岩は静かに悟った──これは、恋をしている人間の発注である、と。
 孫岩は優秀な絵師であり、同時に優秀な宮廷人でもあった。つまり、見たものを見なかったことにする技術に長けていた。
 彼は表情を変えず、ただ粛々と全ての注文を書き留め、深々と頭を下げた。
「承りました。陛下のご期待に沿えるよう、精進いたします」
「……誰にも言うな」
「もちろんでございます」

 その日から、書斎の奥の引き出しの中に、一枚また一枚と絵が増えていった。
 庭で泥だらけになりながら花壇を作る小蘭。
 護衛兵士と楽しそうに話している小蘭。
 夕暮れの縁側で膝を抱えて空を眺める小蘭。
 何かを読んで笑い転げている小蘭。
 黎鳳は夜ごと、政務が終わったあとにその絵を一枚一枚取り出し、引き出しを開け、静かにそれを眺めた。
 眺めながら、表情は微動だにしなかった。
 ただ、その黒い瞳に一瞬だけ、何か温かいものが揺れた。
 そして翌朝、また引き出しを鍵で閉め、何事もなかったように政務へ向かう。
 これが、天下を統べる氷の暴君の、誰にも知られぬ夜の顔だった。

 小蘭が北の離宮に移って半月が過ぎた頃、後宮の中枢では別の動きがあった。
 寧貴妃(ニングイフェイ)の居室は、後宮の中で最も豪奢な場所の一つだった。
 白と金で統一された調度品、窓の外には手入れの行き届いた牡丹の庭、そして常に香炉から立ち上る上品な白檀の香。
 全てが「私はここの主である」という主張のために存在しており、訪れる者は誰もが圧倒されて萎縮した。
 それが寧貴妃の狙いでもあった。

「小蘭様とおっしゃる方は……なかなか変わった御様子ですね」
 侍女頭の翠鈴(スイリン)が、恭しく膝をついたまま報告した。
 翠鈴は寧貴妃付きの侍女の中でも最も腹の据わった女で、表向きは穏やかだが、その裏に何枚もの顔を持っていた。
 彼女もまた、後宮で生き残るために磨かれた女だった。
「変わった、などというものではないわ」
 寧貴妃は茶杯を静かに卓上に置いた。音は立てなかった。
 彼女はいつもそうだ。感情を外に漏らさない。それが彼女の最大の武器であり、誇りだった。
「護衛を二十人以上配置され、絵師が毎週訪れ、厨房から上等の食材が届けられる。……陛下がその娘に何も興味がないとすれば、あれだけの手配をするはずがない」
「しかし陛下は直接お会いにはなっていないとのことで……」
「だからこそ、よ」
 寧貴妃の唇に、冷たい微笑が浮かんだ。
 牡丹の花のように美しく、しかしその花弁の下に鋭い棘を隠したような笑みだった。
「距離を置いているのは、陛下がご自身の感情を持て余しているから。あの方は、認めたくないのでしょう。だからこそ遠ざけている。しかしそれは、感情があるということの証に他ならない」
 翠鈴は黙って聞いていた。
 寧貴妃の言葉は、いつも分析であり、戦略の序章だった。

 寧貴妃は三年間、この後宮で積み上げてきたものがあった。礼儀作法の完璧さ、言葉の選び方、表情の作り方、陛下のお側に侍るための努力、全てを惜しまなかった。それなのに──入宮して三日もしない田舎娘が、謁見の場で皇帝の注目を一身に集めるとは。
 その事実が、寧貴妃の胸の深いところを、じくじくと刺していた。
 しかし、彼女はその痛みを顔に出さなかった。出すことは、負けを認めることだから。
「……あの娘に直接会ってみましょう」
 翠鈴が首を傾げた。
「お茶会でしょうか」
「そう。後宮の礼儀として、新入りの妃嬪に挨拶をするのは当然のことでしょう?」
 微笑みが、深くなった。
「相手を知らずして、戦略は立てられない。……丁重に、ね」

* * *

 寧貴妃の招待状は翌朝、北の離宮に届いた。
「寧貴妃様より、お茶会のご招待です。後宮にいらした礼として、ご挨拶がしたいとのことで」
 使いの宮女が告げた言葉に、青梅の顔がさっと青くなった。
(寧貴妃……! あの方が素直に親切にするはずがない!)
 青梅は後宮に来て日が浅いながらも、その名前が何を意味するかは既に学んでいた。
 貴妃の位、三年の実績、皇帝の側近くに仕えた経歴。
 そして、気に入らない妃嬪が何人か後宮から静かに姿を消してきた、という「噂」。

 しかし、小蘭は招待状を受け取ると、花が咲くような顔で微笑んだ。
「まあ! わざわざご挨拶に来てくださるなんて、ご親切な方ですね!」
「し、小蘭様……」
「お友達になれるかもしれません! 楽しみです! ……青梅、どうしてそんなに顔が青いんですか?」
「い、いえ……」
(どうか、ご無事で)
 青梅は心の中でそっと祈った。小蘭の純粋な輝きを守りたいと、そう思った。
 しかし同時に、この離宮に来てから日々目撃してきたこの方の「天然の無敵さ」が、今回もどこか奇跡を起こすかもしれないという期待もあった。

* * *

 三日後、寧貴妃のお茶会が行われた。
 会場となった寧貴妃の居室には、後宮の上位妃嬪が数名集まっていた。
 いずれも美しく、いずれも計算された笑顔を持ち、いずれも今日という日の「目的」を薄々理解していた。
 新入りの田舎娘を前に、後宮の序列というものを、静かに、しかし確実に教え込む。そういう場だと。

 小蘭が現れたとき、寧貴妃の目が細くなった。
(……本当に素朴な衣ね。しかし、顔つきは思ったより……いえ、関係ない)
 小蘭の衣は素朴だったが、清潔で、梅の刺繍が丁寧に施されていた。本人は全く気にしていないようで、部屋に入るなり明るく頭を下げた。
「寧貴妃様、本日はお招きいただきありがとうございます! こんなに素敵なお部屋……白と金の組み合わせ、とても美しいですね!」
「よくいらしてくださいました、小蘭様。どうぞ、お楽になさって」
 寧貴妃は優雅に微笑んだ。

 茶会は始まった。
 上等な茶器に注がれた茶の香りが漂い、丁寧に選ばれたお菓子が並べられた。
 しかし、妃嬪たちの目は茶よりも小蘭に向いていた。品定めをする目が、優しい笑顔の仮面の下に揺れていた。
「小蘭様は、どちらのご出身でしたかしら」
 妃嬪の一人が、さりげなく問う。
 地方の小さな貴族の出であることを暗に引き出し、この場の格の差を意識させるための問いだった。
「北方の青雲県の出身です! 田舎ですが、春になると山一面に薬草の花が咲いて、とても綺麗なんですよ……あ、ご興味はないですよね、すみません」
「い、いえ……」
 想定外の方向へ話が転がり、妃嬪が戸惑う。
「薬草の花、というのが印象的ですこと」
 寧貴妃が静かに口を挟んだ。
「お詳しいのですか?」
「少しだけですが。子供の頃から山に入って採取していましたので。あ! そういえば寧貴妃様、窓から拝見したお庭の牡丹、少し葉が黄ばんでいませんでしたか?」
 会場が、微妙な沈黙に包まれた。
 寧貴妃の瞳に、一瞬だけ動揺が走った。確かに、最近牡丹の葉の色が悪いと気になっていた。庭師に問うたが、はっきりとした答えは返ってこなかった。この娘は……初対面で、庭を一瞥しただけで、それを見抜いたということか。
「……そう、ですね。少し気になってはおりました」
「鉄分が足りないと葉が黄化することがありますので、茶がらを根元に撒いてあげると改善するかもしれません。もし宜しければ、一度一緒に確認しませんか?」
「……ありがとうございます。そうしましょう」
 思わず本音で答えてしまった寧貴妃は、内心で自分を叱りつけた。
 隣に座る妃嬪たちが、目を見合わせた。
 小蘭を馬鹿にするつもりだったのに、今や場の流れを小蘭が仕切っている。

 やがて、お菓子が運ばれてきた。
 美しい小菓子の盛り合わせだったが、小蘭に差し出された皿だけ、わずかに香りが違った。
 寧貴妃が事前に指示した、体を弱らせる薬草を混ぜ込んだものだ。
 食べれば徐々に体調を崩していく薬だ。処刑などという大げさなことではない。ただ、「北の離宮に引きこもって弱っている」という印象を作りたかっただけだ。

 しかし──
 小蘭は菓子を受け取ると、ぱあっと顔を輝かせた。
「まあ、とても綺麗なお菓子! 私、こういうの大好きなんです!」
 その瞬間、小蘭はふと外を見て、立ち上がった。
「あの、寧貴妃様。外でお待ちの護衛の方々に、お菓子を少し分けてさしあげてもよいでしょうか。いつも外で立ちっぱなしで、大変そうで……」
「……え?」
「菓子を護衛に?」
 別の妃嬪が目を丸くした。
「はい! 陳五さんたち、今日も寒い中ずっと外に立ってくれているので。こちらの分が少なくなってしまいますが……」
 小蘭は立ち上がり、自分の皿ごと護衛の兵士たちに持っていった。
 外から「えっ」「い、いただいてもいいので……」「うわあ、美味そう」「本当に良いのか」という声が聞こえてくる。
(……薬入りのお菓子を、護衛に食べさせてしまった)
 寧貴妃の顔が真っ青になった。
(いや待って。あの量なら致死性はない。でも護衛が体調を崩せば陛下が動く……これは……やはりまずい)
 翠鈴が震える手でお茶を注ぎ足した。

 小蘭は護衛に菓子を届けて戻ってくると、にこにこと着席した。
「寧貴妃様、今日は本当に楽しかったです! こんなに美しいお部屋でお話しできて、嬉しかったです。あの、牡丹のこと、よかったら今度、一緒に確認しませんか? お役に立てたら嬉しいです!」
「……ええ、喜んで」
 寧貴妃は優雅に微笑んだ。しかし内心は嵐だった。
(お菓子は失敗。しかも護衛に渡ってしまった。これは早急に対処しなければ……)
 護衛たちが「今日のお菓子、美味かった!」「また来たいな、このお茶会」と笑い声を上げているのを耳にして、寧貴妃は静かに目頭を押さえた。

 この日のお茶会の評判は、翌日には後宮中に広まった。
「小蘭様が護衛の方々にまで優しく振る舞っていたそうよ」
「牡丹の病気を一目で当てたとか」
「寧貴妃様が圧倒されていたという噂よ」
 寧貴妃はその噂を聞いて、また静かに目を閉じた。
 第一戦目は、敗北──
 しかし、彼女の瞳には、まだ諦めの色はなかった。