九条家での生活が始まって数日が過ぎたが、私の日常は鷹宮の蔵にいた頃とさほど変わりはなかった。
離れは確かに埃まみれで庭の草も生い茂っていたけれど、私にとっては「仕事」がある事自体が喜びだった。
「ふふふ~ん♪」
鼻歌を歌いながら、体を動かす。
彼女は誰に命じられるでもなく、自らの手で廊下を磨き、庭の雑草を抜いて過ごす。
時折、遠くで忙しなく立ち働く使用人たちの声が聞こえてくるが、彼らがこの離れに近づくことはない。
私はやはりここでは「いなかったこと」にされている存在なのだ。
「まぁ、その方が楽でいいんだけどね」
それが居心地が良い――気持ちよさそうな顔をしているなと私は考えてしまった。
誰の役にも立たず、誰の目にも触れず、ただ静かに朽ちていく。それが私の正しい在り方だと信じて疑わなかったからだ。
けれど、その静寂はある日の夕暮れ時に破られた。
「……っ、う、あ……!」
「……え?」
裏庭の生い茂った木々の向こうから、押し殺したような苦悶の声が聞こえてくる。
思わず胸騒ぎがして、私は持っていた箒を置いて声のする方へと駆け寄った。
「燈火、様……?」
そこにいたのは、池のほとりで膝をつき、肩を激しく上下させている燈火様だった。
その姿を見て、私は息を呑む。
燈火様の右腕が――指先から肘にかけて、透き通るような、けれど不気味なほどに冷たい青白い結晶に覆われていた。
それはまるで生きている人間の体を糧にして咲き誇る、氷の花のように見えた。
「くる、な……!あっちへ行け……っ!」
燈火様が私を睨みつける。
その瞳は苦痛に歪み、結晶化は刻一刻と彼の肌を侵食していた。
「触れれば……お前も、結晶になる……死にたく、なければ……下がれ……!」
九条家に代々伝わるという【花喰いの呪い】――それを見たのは初めてだった。
愛する者に触れれば、その者を結晶化させて食らい尽くし、死に至らしめるという呪毒。
燈火様は誰かを傷つけることを恐れ、ずっと一人でこの痛みに耐えてきたのだろうか?
咄嗟の事だったのかもしれない。
私は、震える燈火様の腕を見つめた。
彼が守ろうとしている私の命は、彼が思っているほど価値のあるものではない。
「……汚れるのは、私だけでいいからな……」
静かにそのように呟いた瞬間、私は燈火様の拒絶を無視して、一歩、前に踏み出した。
「何を……っ、やめろと言っている……!」
「大丈夫です、燈火様。私は元々不幸を吸い寄せるだけの泥のような存在ですから。これ以上何かに侵されたところで、何も変わりはしませんよ」
そのように言って笑った後、私は迷わずその青白い結晶に覆われた燈火様の右手を、両手で包み込んだ。
――冷たい。骨の髄まで凍てつくような、死の気配。
けれどその奥で、燈火様の命が必死に抗っている熱を感じた。
その瞬間、私の胸の奥にある【呪いの核】が、熱く脈打った。
実家で私を縛り付けていたあの不快な紋様が、燈火様から流れ込んでくる冷たい呪毒をまるでお腹を空かせた獣のように貪り始めたのだ。
「え……?」
一体私の身に何が起きたのだろうか理解が出来ない。
燈火様が呆然と声を漏らす。
私の手が触れた場所から、あれほど強固だった結晶が音を立てて崩れていく。
砂のように、あるいは剥がれ落ちる鱗のように、青白い花びらが宙に舞い、夕闇の中に消えていった。
侵食されていた燈火様の肌が、元の白い滑らかな質感を取り戻していくのを、私は祈るような心地で見守った。
「えっと、その……痛いのは、もう、飛んでいきましたか?」
何が起きたのか私自身理解が出来なかったのだが、だがとりあえず何とかなったらしい。
私が顔を上げて微笑むと、そこには見た事もないほどに動揺した燈火様の顔があった。
結晶は、すべて消えていた――代わりに、私の胸の紋様が以前よりもわずかに赤黒く、禍々しい輝きを放っているような気がしたが私はそれを無視する。
これは多分、余計な事をやってしまったかもしれない。
自分の紋様を燈火様に見せないようにしながら、へらっと笑うしかない。
「なぜ……なぜ、お前は無事なんだ?俺に触れて、生きていられるはずが……」
燈火様は、自由になった自分の右手と私の顔を交互に見つめている。
その瞳に宿っていたのは、先ほどまでの冷徹な拒絶ではない。
言葉にできないほどの驚愕と、そして――縋るような微かな光だった。
「えっと……わかりません。ただ、少しだけ温かかったので」
私がそっと手を離そうとすると、今度は燈火様の方が私の指先を強く掴んで離さなかった。
「燈火様……?」
「……何故だ……どうして、お前なんだ」
燈火様の独白は、風にさらわれて消えそうなほどに掠れていた。
これまで誰も触れることのできなかった、氷の当主と呼ばれていた存在。
その頑なだった心の境界線が、初めて私の【汚れ】によって溶かされた瞬間だった。
その時、燈火様が私を見る目が確実に確実に変わった瞬間のように見えた。
それは【お飾り】や【道具】を見る目ではなく、正体不明の救いに触れてしまった者の飢えた眼差し。
「あ、えっと……」
手を伸ばされそうになった感じがしたので、私はすぐさま立ち上がり、逃げるように走り出した。
どうしてその時走り出したのかわからない。
けど、あの場に居てはいけない、そんな気がしたからだ。
そして私はまだ、この時の事で自分の待遇が変わるなんて知らなかった。
離れは確かに埃まみれで庭の草も生い茂っていたけれど、私にとっては「仕事」がある事自体が喜びだった。
「ふふふ~ん♪」
鼻歌を歌いながら、体を動かす。
彼女は誰に命じられるでもなく、自らの手で廊下を磨き、庭の雑草を抜いて過ごす。
時折、遠くで忙しなく立ち働く使用人たちの声が聞こえてくるが、彼らがこの離れに近づくことはない。
私はやはりここでは「いなかったこと」にされている存在なのだ。
「まぁ、その方が楽でいいんだけどね」
それが居心地が良い――気持ちよさそうな顔をしているなと私は考えてしまった。
誰の役にも立たず、誰の目にも触れず、ただ静かに朽ちていく。それが私の正しい在り方だと信じて疑わなかったからだ。
けれど、その静寂はある日の夕暮れ時に破られた。
「……っ、う、あ……!」
「……え?」
裏庭の生い茂った木々の向こうから、押し殺したような苦悶の声が聞こえてくる。
思わず胸騒ぎがして、私は持っていた箒を置いて声のする方へと駆け寄った。
「燈火、様……?」
そこにいたのは、池のほとりで膝をつき、肩を激しく上下させている燈火様だった。
その姿を見て、私は息を呑む。
燈火様の右腕が――指先から肘にかけて、透き通るような、けれど不気味なほどに冷たい青白い結晶に覆われていた。
それはまるで生きている人間の体を糧にして咲き誇る、氷の花のように見えた。
「くる、な……!あっちへ行け……っ!」
燈火様が私を睨みつける。
その瞳は苦痛に歪み、結晶化は刻一刻と彼の肌を侵食していた。
「触れれば……お前も、結晶になる……死にたく、なければ……下がれ……!」
九条家に代々伝わるという【花喰いの呪い】――それを見たのは初めてだった。
愛する者に触れれば、その者を結晶化させて食らい尽くし、死に至らしめるという呪毒。
燈火様は誰かを傷つけることを恐れ、ずっと一人でこの痛みに耐えてきたのだろうか?
咄嗟の事だったのかもしれない。
私は、震える燈火様の腕を見つめた。
彼が守ろうとしている私の命は、彼が思っているほど価値のあるものではない。
「……汚れるのは、私だけでいいからな……」
静かにそのように呟いた瞬間、私は燈火様の拒絶を無視して、一歩、前に踏み出した。
「何を……っ、やめろと言っている……!」
「大丈夫です、燈火様。私は元々不幸を吸い寄せるだけの泥のような存在ですから。これ以上何かに侵されたところで、何も変わりはしませんよ」
そのように言って笑った後、私は迷わずその青白い結晶に覆われた燈火様の右手を、両手で包み込んだ。
――冷たい。骨の髄まで凍てつくような、死の気配。
けれどその奥で、燈火様の命が必死に抗っている熱を感じた。
その瞬間、私の胸の奥にある【呪いの核】が、熱く脈打った。
実家で私を縛り付けていたあの不快な紋様が、燈火様から流れ込んでくる冷たい呪毒をまるでお腹を空かせた獣のように貪り始めたのだ。
「え……?」
一体私の身に何が起きたのだろうか理解が出来ない。
燈火様が呆然と声を漏らす。
私の手が触れた場所から、あれほど強固だった結晶が音を立てて崩れていく。
砂のように、あるいは剥がれ落ちる鱗のように、青白い花びらが宙に舞い、夕闇の中に消えていった。
侵食されていた燈火様の肌が、元の白い滑らかな質感を取り戻していくのを、私は祈るような心地で見守った。
「えっと、その……痛いのは、もう、飛んでいきましたか?」
何が起きたのか私自身理解が出来なかったのだが、だがとりあえず何とかなったらしい。
私が顔を上げて微笑むと、そこには見た事もないほどに動揺した燈火様の顔があった。
結晶は、すべて消えていた――代わりに、私の胸の紋様が以前よりもわずかに赤黒く、禍々しい輝きを放っているような気がしたが私はそれを無視する。
これは多分、余計な事をやってしまったかもしれない。
自分の紋様を燈火様に見せないようにしながら、へらっと笑うしかない。
「なぜ……なぜ、お前は無事なんだ?俺に触れて、生きていられるはずが……」
燈火様は、自由になった自分の右手と私の顔を交互に見つめている。
その瞳に宿っていたのは、先ほどまでの冷徹な拒絶ではない。
言葉にできないほどの驚愕と、そして――縋るような微かな光だった。
「えっと……わかりません。ただ、少しだけ温かかったので」
私がそっと手を離そうとすると、今度は燈火様の方が私の指先を強く掴んで離さなかった。
「燈火様……?」
「……何故だ……どうして、お前なんだ」
燈火様の独白は、風にさらわれて消えそうなほどに掠れていた。
これまで誰も触れることのできなかった、氷の当主と呼ばれていた存在。
その頑なだった心の境界線が、初めて私の【汚れ】によって溶かされた瞬間だった。
その時、燈火様が私を見る目が確実に確実に変わった瞬間のように見えた。
それは【お飾り】や【道具】を見る目ではなく、正体不明の救いに触れてしまった者の飢えた眼差し。
「あ、えっと……」
手を伸ばされそうになった感じがしたので、私はすぐさま立ち上がり、逃げるように走り出した。
どうしてその時走り出したのかわからない。
けど、あの場に居てはいけない、そんな気がしたからだ。
そして私はまだ、この時の事で自分の待遇が変わるなんて知らなかった。



