二週間という月日は、思ったよりもずっと早く過ぎ去った。栞は、カレンダーを数えないように努めていた。
意識すればするほど、それは「期待」という形を持ってしまうから。期待とは、裏切られることを前提に生まれる呪いだと、彼女は身をもって知っている。
それでも――。
約束の日の午後。図書館の扉のベルが涼やかに鳴った瞬間、胸の奥が、自分でも驚くほど跳ねた。
「返しに来ました」
カウンターに置かれたのは、二週間前に貸し出したあの文庫本。カナタの指先が離れたその本は、心なしかページの端が柔らかくなっていた。
「早かったですね」
「早く読み終わっちゃったから。ゆっくり読もうと思ったのに、止まらなくて」
栞は本を受け取る。指先に残る、誰かが物語をなぞった微かな余熱。
「……どうでしたか」
「静かでした。でも、静かな話って、読んでる間ずっと隣に誰かがいてくれるような気がするんですね」
カナタはいつものようにカウンターに肘をつき、言葉を繋ぐ。
「大事件も、奇跡もない。でも、最後のページを閉じたあと、胸の奥に灯りがともる。……あれ、ずるいですよ。何も起きてないのに、救われた気がするんだから」
栞は視線を落とした。救い。自分にはもう、一生縁のない言葉だと思っていた。
「……劇的な復活なんて、現実には起きませんから。だから私は、ああいう終わり方が好きなんです」
「起きなくても、続いていく。それでいいじゃないですか」
カナタの声は、あまりにも穏やかだ。その優しさが、今の栞には、鋭い棘のように胸に刺さった。
「続くだけでは、意味がないんです」
思わず、抑えていた言葉がこぼれ落ちる。
「意味?」
「何かを成し遂げてこそ、価値が生まれる。誰かに必要とされる『何か』を持っていて初めて、存在していい。……私は、もう何も成し遂げられません。音楽も、舞台も。いまは代わりがいくらでもいる仕事をして、誰の記憶にも残らない」
カナタが、黙って栞を見つめている。その視線が痛くて、叫び出したくなる。
「あなたが見るべき価値なんて、どこにもないんです」
言い切った瞬間、胸がひどく軽くなると同時に、途方もない空洞が広がった。
言ってしまった。情けない。図書館の静寂が、泥のように重く降り積もる。
しばらくして、カナタが静かに口を開いた。
「価値がないと、隣にいちゃいけないの?」
栞は弾かれたように顔を上げた。
「……え?」
「隣にいるのって、資格制なんですか? 何かを成し遂げた人しか座っちゃいけない椅子が、この世界にはあるんですか」
声は強くない。怒ってもいない。それが、余計に苦しい。
「私は、もう物語の主役じゃない」
「だから?」
「主役じゃない人間は、物語を動かせない。価値を証明し続けなきゃ、ここにいちゃいけないんです」
「動かさなくていい。証明なんてしなくていい。ただ、いればいいじゃないですか」
即答だった。あまりにも迷いのない言葉に、栞の息が止まる。
「……あなたは、書ける人だから、そんなことが言えるんだわ」
その瞬間、カナタの表情に、微かな翳りが差した。
「書けませんよ」
「でも、前に」
「書けなくなったんです」
静かな、断言。
「最後に書いた物語、誰にも読まれなかった。応募しても、評価もされず、何も残らなかった。何者にもなれない絶望なら、僕も嫌というほど知っています。……それでも、僕はこうして読者でいられる。誰かの物語を読んで『いいな』と思える。それは、才能がなくてもできることだ」
図書館の時計が、こつ、と時を刻む。
「僕は今、栞さんという物語を読んでるだけですよ」
「……私に、語るような物語なんてありません」
「あります」
カナタは、真っ直ぐに栞の目を見つめた。
「毎日、本を整えて。誰かの選んだ一冊を渡して。返ってきた本を、また棚に戻す。その繰り返しの中で、少しずつ積み重なってる『栞さん』がいる。……僕は、あなたが淹れてくれたあのお茶が好きです」
「……いつの話ですか」
「雨の日。急に降られて、僕がびしょ濡れで入ってきた日」
あの日、バックヤードの簡易ポットで淹れた茶。渋くて、少しだけ薄かったはずだ。
「美味しいとは言っていません」
「言いましたよ。……じゃあ、もう一回試しましょうか。次に僕が来たときに」
カナタが、ふっと笑う。その笑顔が、栞の胸を締めつけた。
「どうして、そんなふうに……。どうして、失敗した私に、まだ話しかけるんですか。期待もしないのに、どうして離れないの」
問いは喉元までせり上がり、悲鳴のような独白に変わる。
「私には、もう何も残っていない。期待に応えられない自分には、優しくされる資格なんてないのに……。あなたがここに来ると、苦しくなる。また、期待されている気がしてしまうから」
───完璧でなければならない。
───神童でなければならない。
少しでも乱れれば、世界から失望が降ってくる。そんな呪いの中に、彼女はずっと閉じ込められていた。
「期待なんて、してませんよ」
カナタの声が、鼓膜を優しく揺らす。
「してるのは、楽しみだけです」
「……楽しみ?」
「栞さんが、次にどんな本をすすめてくれるのか。今日はどんな顔で『静かですね』って言うのか。……価値を証明しなくても、隣にいていい。それを、誰かが信じなきゃいけないなら、僕が信じます」
胸の奥で、何かがひび割れる音がした。それは痛みではなく、固く閉ざされていた殻が、内側から溶け出していく音。
「……もし」
栞は、掠れた声で紡ぐ。
「もし、私がここを辞めて、いなくなったら?」
「困りますね。僕がこの図書館に来る理由がなくなってしまう」
冗談のように。けれど、その瞳はひどく真剣だ。
「栞さんがいない図書館は、僕にとってはただの紙の束の置き場所です。あなたがいないと、つまらない」
価値があるからではない。役割があるからでもない。ただ、そこに「あなた」がいるから。
閉館のチャイムが遠くで鳴り、カナタは立ち上がった。
「また来ます。二週間後。今度は、もっと長い感想を持って」
それは、約束のようでもあり、優しい宣言のようでもあった。扉が閉まり、静寂が戻る。栞は一人、カウンターの中で深く息を吸い込んだ。
───価値がないと、隣にいちゃいけないの?
その問いが、胸の奥で何度も、何度も反響する。答えはまだ、霧の中だ。
けれど。震える指先で、彼女はあのノートを開いた。
『文庫本 一冊。二週間後。』
その隣に、彼女は新しく一行、書き加えた。
『次は、少しだけ明るい話を。』
真っ白な余白に落ちたインクは、あの日、舞台で止まってしまった指先が、再び動き出した証だった。

