あなたがいないと、わたしは物語になれない


 翌日も、図書館は凪いでいた。午前十時。開館を告げる自動ドアの駆動音とともに、常連の老人が新聞を抱えて入ってくる。

 子ども向けコーナーでは、母親に手を引かれた幼児が、お気に入りの一冊を迷いなく引き抜いていく。そのすべてが、栞の中では一定の距離を保って流れていく風景だった。

 ぴ、とバーコードをなぞる赤光。

 紙をめくる、微かな擦過音。

 遠くで誰かが、遠慮がちに咳をする。

 舞台に立っていた頃、彼女は音を「掴んで」いた。一音の狂いも許さず、空気を支配し、聴衆の吐息さえも自分のものにしていた。

 けれど今は、ただ通り過ぎる音を見送るだけ。それでいい。それが、今の自分に許された唯一の静寂なのだから。



 昼過ぎ、扉のベルが小さく、けれど涼やかに鳴った。

「こんにちは」

 顔を上げずともわかった。カナタだ。

「今日は早いですね」
「仕事、さぼってきました」
「……あまり、良くないですよ」
「怒ります?」
「怒りません。私は上司ではないので」

 事実を淡々と述べただけなのに、カナタは少しだけ楽しそうに目を細めた。

「栞さんは、怒らないですよね。いつも、凪いだ湖みたいだ」
「怒る理由が、ありませんから」
「本当に?」

 問い返され、栞は一瞬だけ言葉を失う。

 怒り。

 かつて、それは彼女の燃料だった。指が思うように動かないとき。期待に応えられない自分を悟ったとき。

 あるいは、舞台裏で無情に代役の名前が告げられた、あの瞬間。けれどその激しい感情は、やがて自分自身を焼き尽くし、今は深い海の底へ沈んで動かない。

「……いまは、ありません。何も」

 それだけ言うと、カナタは小さく頷いた。

「じゃあ、代わりに僕が怒ろうかな」
「何にですか」
「栞さんが、自分をただの端役扱いしてることに」

 心臓の奥が、ちりりと焼ける。栞は視線をそらし、山積みにされた返却本を手に取った。

「端役にもなれていません。私はただの、整理係です」
「整理係、僕は好きですよ。物語って、放っておくとぐちゃぐちゃになるでしょう?  誰かが背表紙を揃えてくれないと、次の読者はその世界に入れない。あなたは、誰かの旅の入り口を守ってるんだ」

 軽い口調。けれどその言葉は、栞が自分に言い聞かせてきた「代わりはいくらでもいる」という言葉よりも、ずっと深く皮膚に浸透した。

 栞は答えない。代わりに、本の角を指先で完璧に揃える。音楽のように人を震わせることはできない。けれど、誰かの物語を、あるべき場所へ戻すことならできる。

「おすすめ、まだ決まってませんか。昨日の続き」
「……一冊、選びました」

 栞は迷いながらも、棚の隅から一冊の文庫を抜き出した。装丁は地味で、古い。ページの端は、時を経た呼吸の跡のように少しだけ黄ばんでいる。

「これを」
「どんな話ですか」
「……特別なことは起きません。ただ、誰かと隣にいる時間が、少しずつ、その形を変えていくだけの話です」

 言いながら、自分でも驚いていた。無機質に管理していたはずの内容が、指先の記憶として蘇る。

 カナタは本を受け取り、慈しむようにページをめくった。

「栞さんは、こういう話が好きなんですね」
「好き、というより……こういう話なら、安心して『読者』でいられるから」
「主役じゃなくて?」
「はい」

 それが、いちばん楽だ。主役は常に「次」を期待される。失敗すれば、拍手は残酷なほど速やかに止む。

 けれど読者は違う。ただそこにある言葉を、自分の体温で受け取ることさえ許される。

「読者って、案外贅沢ですよ」

 カナタが、ふと遠くを見るような目をした。

「自分の人生を歩きながら、他人の人生の体温も知ることができる。覗き見、みたいな。だから、僕は結構好きです。読者」

 その声音に、わずかな翳りが混じった気がした。栞は、思わず彼を見上げる。

「カナタさんは……書く側ではないんですか」

 何気ない問い。けれど、彼は一瞬だけ、息を止めた。

「どうしてそう思うんですか」
「なんとなく。物語の話をするとき、ページの向こう側を知っている人のような目をされるので」

 カナタは、困ったように笑った。

「昔、ちょっとだけ、ね。でも今は、ただの読者です。……才能が枯れたのかも」

 ───枯れた。

 その言葉が、栞の胸の奥に刺さったままの破片と共鳴する。

「……そうですか」
「うん。でも、悪くないですよ。読むのも」

 彼は文庫を大切そうに鞄へしまうと、いつものように手を挙げた。

「じゃあ、借ります。二週間後、また返しに来ますね」

 二週間後。当たり前のような約束。

 舞台に立っていた頃、栞の未来は数年先まで他人に決められていた。コンクール、留学、リサイタル。息の詰まるようなスケジュール。

 今は、違う。

 二週間後の、ささやかな再会。たったそれだけのことが、停滞していた栞の時間に、小さな楔を打ち込んだ。



 閉館後。栞はデスクの引き出しから、長い間空白だったノートを取り出した。

 かつては練習記録と反省の言葉で埋め尽くされていた、あのノート。彼女はペンを握り、少しの躊躇いのあと、白い紙の上に一行だけ記した。

『文庫本 一冊。二週間後。』

 インクが紙に染み込んでいく。自分の物語を紡ぐことは、まだできない。けれど、誰かが返しに来る物語を待つことなら、できるかもしれない。
 
真っ白なページに落ちたその一文は、彼女が「整理係」としてではなく、「栞」として記した、初めての言葉だった。