あなたがいないと、わたしは物語になれない


 最後に舞台へ立った日のことを、栞は「音」で覚えている。拍手とは、もっと波のように押し寄せる温かなうねりだと思っていた。けれどあの日、舞台の中央で立ち尽くす彼女の耳を打ったのは、ひどく乾いた、まばらな音だった。

 ぱら、ぱら。

 それは拍手というより、何かが剥がれ落ちていく音に似ていた。決して少なくはなかったはずなのに。広いホール、無数の空席に指先を弾かれたような冷たさが、ドレス越しに肌を刺した。

 鍵盤の上で止まったままの右手を、今でも鮮明に思い出せる。白と黒の境界線に置かれたまま、次の一音へ進めなかった五本の指。誇りだった指先が、見たこともないほど惨めに震えていた。

 ――神童。

 いつからか、そう呼ばれて生きてきた。誰よりも早く譜面を読み解き、誰よりも正確に音を紡ぐ。ライトを浴びて、物語の主役として振る舞うことは、呼吸と同じくらい当たり前の日常だった。

 だから、音が止まったとき。弾けなくなったとき。栞という人間の形を成していた何かが、静かに、けれど決定的に崩れ落ちた。

 怪我ではない。医師は「異常なし」と告げた。ただ、音楽が彼女を拒絶したのだ。鍵盤を押し下げても、かつて胸を満たしていたはずの色彩豊かな響きは、どこにも届かない。

(才能が、枯れたんだ)

 誰もそうは言わなかった。けれど、自分にはわかった。音楽という魔法は、もう彼女を選んではくれない。

 舞台を降りた帰り道、車の窓に映った自分の顔は、驚くほど穏やかだった。泣くことさえ忘れるほど、その幕引きはあまりにも静かだったから。



 それから数年が経った。今の栞は、街の小さな図書館で働いている。午前中は返却された本の整理。午後は古い蔵書のデータ入力。カウンター越しに貸出カードを受け取り、無機質にバーコードを読み取る。

 ぴ、と鳴る電子音。

 それはかつての喝采よりもずっと正確で、ずっと残酷だ。

「ありがとうございました」

 決まりきった台詞を口にしながら、栞は思うここには、彼女を“特別”と定義する人はいない。期待も、羨望も、そして失望さえも。

 誰にでもできる仕事。代わりはいくらでもいる存在。

 それは、窒息しそうだった彼女にとって、唯一の救いだった。本棚のあいだは、優しい死後の世界のように静かだ。

 紙の匂いと、埃を含んだ午後の光。誰かの人生(ものがたり)が、色とりどりの背表紙の向こうで眠っている。

 栞はそれを、ただ、あるべき場所へ整える。物語の主役ではなく、ページの順番を正すだけの、名もなき指先として。

 自分の名前が、もうどの表紙にも載らないことに、ようやく慣れてきた頃だった。

「こんにちは、栞さん」

 投げかけられた声に、わずかに肩が揺れた。振り返ると、そこには背の高い青年が立っている。少し癖のある柔らかな髪に、穏やかだがどこか見透かすような光を宿した瞳。

 カナタ。彼がそう名乗ったのは、もう何度目のことだったか。

 彼は不思議な常連だった。熱心に本を借りるわけでも、長く滞在するわけでもない。ただ、ふらりと現れては、どうでもいい日常を栞に手渡して去っていく。

「今日は静かですね」
「図書館ですから」
「そういう意味じゃなくて。なんだか、雨の前みたいだ」

 窓の外は、雲ひとつない快晴だ。栞は返事をせず、作業を続ける。カナタも気にした様子はなく、親しげにカウンターに肘をついた。

「おすすめ、ありますか」
「何のですか」
「なんでも。今の、栞さんが好きなもの」

 その言い方が、少しだけ苦手だった。“栞さんが”。かつては「神童の」「天才の」と、必ず重い肩書きがついて回った。

 今は、ただ名前だけ。

 それなのに、何も持たない自分を見つめられているようで、胸の奥がざわつく。

「私は、整理するだけなので。そこに個人の好き嫌いは関係ありません」

 突き放すように答えると、カナタはふっと目を細めて笑った。

「関係ないこと、ないでしょう。栞さんが触れた本は、なんだか嬉しそうに整う気がする」
「……気のせいです」
「そうかな」

 彼はそれ以上踏み込まない。ただ、手近な一冊の文庫本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。

 その指先を見て、栞はふと思う。あの頃の自分も、ああやってページをめくっていた。

 次の小節へ進むために、魂を込めて指を浮かせる、あの祈るような感覚。けれど、もう戻らない。昼下がりの光が、床に長い影を落とす。

 カナタが帰ったあと、栞は閉館準備をしながら、ふと自分の胸の内を探ってみた。

 何もない。舞台も、拍手も、誇れる肩書きも。神童だった少女は、もうどこにもいない。いるのは、ただ本を並べるだけの、空っぽな女。

 自らの言葉を紡ぐことも、音を奏でることもできない。背表紙を揃えながら、栞は思う。

(何者でもなくなった私は、もう誰の物語にも登場できない)

 主役でなくてもいい。脇役でも、端役でも。けれど今の自分は、物語の背景に溶け込むことすらできない「余白」なのだ。図書館の灯りを落とす。窓ガラスに映った自分は、驚くほど静かだった。

 あの日、舞台を降りた時と同じ顔をしている。私の物語は、あの日、拍手とともに終わったはずだった。

 それなのに。去り際に彼が残した「栞さん」という残響だけが、消えない体温のように、耳の奥にこびりついていた。