悪魔の証明

 田所さんから呼び出されたのは、翌日の夕方だった。

事務所に入ると、いつものコーヒーの匂いと、いつもの散らかった机。

なのに、空気だけが妙に重かった。

「座って」

田所は砂糖を入れていないコーヒーを指で回しながら言った。
それだけで、いつもと違うのが分かった。

「……何か分かったんですか?」

田所は、遺書のコピーを机の上に置いた。

「まずこれ」

指でトントンと叩く。

「“夫婦のまま、死なせてください”」

優斗はその一文を見た瞬間、胸の奥がざわついた。

「これが、どうかしたんですか」

「普通はさ」

田所はゆっくり言った。

「自殺する人間が、こんなこと考えない」

「……」

「考えるとしたら、逆だよ。
“もう夫婦じゃないから、迷惑かけないようにする”とかね」

優斗は黙って聞いていた。

田所は続ける。

「でもこの一文は、意味が違う」

田所は視線を上げた。

「離婚したら、遺産は入らない。でも、夫婦のまま死ねば、配偶者に入る」

優斗の頭が、一瞬理解を拒否した。

「……それって」

「そう。この文章、“願い”じゃなくて、“都合”なんだ」

空気が冷えた気がした。

「つまり、これは」

田所ははっきり言った。

「“夫婦のまま死なせた”人間が書いた文章の可能性がある」

優斗は言葉を失った。

「……兄は、自殺じゃないってことですか?」

「まだ断定はできない」

田所は首を振る。

「でも少なくとも、“自殺前の心情”としては不自然すぎる」

しばらく沈黙が続いた。

優斗は、喉が乾いているのに、コーヒーに手を伸ばせなかった。

「……じゃあ、誰が」

「美玲さん一人で、ここまでの偽装は難しい」

田所は淡々と言う。

「遺書の用意。首吊りの状況。発見のタイミング。警察が自殺と判断する流れ」

「……」

「一人でやるには、リスクが高すぎる」

田所は一拍置いてから、続けた。

「共犯がいる可能性が高い」

優斗は、ゆっくり息を吸った。

「……今の、旦那ですか」

田所は答えず、
ただ静かに頷いた。

「現時点では仮説だけどね。でも動機としては、十分成立する」

「動機……」

「遺産」

その一言が、重く落ちた。

「お兄さん、若くして高収入。家もある。貯金も相当あったはずだ」

優斗は、兄の笑顔を思い出した。

「……そんな理由で、人を殺すんですか」

「殺す理由なんて、大抵そんなものだよ」

田所の声は、感情がなかった。

「愛情より、恐怖より、金の方が人を動かす」

優斗は、何も言えなかった。

田所は、最後にこう言った。

「だから」

一瞬、視線が鋭くなる。

「美玲さんの“今の夫”も、調べた方がいい」

「……」

「兄の死を“利用している人間”が、まだ生きてる可能性が高い」

その言葉で、優斗は理解した。

この事件は、もう“過去の悲劇”じゃない。

——今も、誰かが得をしている話なのだ。

優斗は、ゆっくり立ち上がった。

胸の奥にあったのは、怒りでも、悲しみでもなかった。

ただ一つ。

取り返しのつかない場所まで、来てしまったという感覚だけだった。