所轄の警察署は、想像していたよりもずっと普通だった。
コンクリートの壁。
蛍光灯の白い光。
忙しそうに行き交う警察官たち。
——ここで、兄の死は「自殺」と処理された。
その事実が、妙に現実味を帯びてきて、優斗は一度、深く息を吸った。
受付で名前を告げ、「柏葉隼人の件で」と言うと、中年の刑事が応接スペースに案内された。
「……で、要件は?」
「兄の死亡について、再捜査をお願いします」
刑事は、ほとんど反射的に首を振った。
「それは無理だ。自殺として処理は終わってる」
「でも、新しい事実が出ました」
「それでもだ」
刑事は事務的だった。
「遺体は火葬済み」
「事件性はなし」
「再捜査の必要性がない」
優斗は、ポケットから資料のコピーを取り出した。
「首のレントゲンです」
刑事は、ちらっと見る。
「……だから?」
「舌骨にヒビがあります」
「飛び降りの首吊りなら、普通は伸びる方向に力がかかる」
「でもこれは、横から潰された形です」
刑事の表情が、わずかに変わった。
「それと、索条痕」
今度は遺体写真。
「ロープの痕にしては、薄すぎる」
「ロープより太くて柔らかいもので、先に首を絞められてます」
刑事は黙った。
だが、すぐに首を振る。
「……それでも、再捜査はできない」
「なぜですか」
「今さら覆せば、当時の判断が全部問題になる」
「内部的にも、面倒すぎる」
優斗は、はっきり言った。
「今、再捜査すれば“内部処理”で済みます」
「でも、これをマスコミに出したら、“隠蔽”になります。そっちの方が面倒なのでは?」
刑事の目が、優斗を真っ直ぐ見た。
「……脅してるのか」
「事実を伝えるだけです」
優斗は、声を落とさなかった。
「自殺じゃない証拠は揃ってる」
「それでも動かないなら、世論を動かすしかありません」
しばらく沈黙。
刑事は、ゆっくり立ち上がった。
「……上に確認する」
十分ほどして、戻ってきた。
「形式上は“再捜査”だ」
「実際には、書類の見直しと、証拠の再検証になる」
優斗は、静かに頷いた。
「それでいいです」
「ロープは?」
「証拠品として保管されている」
「結び目付近の皮膚片を、滝川零士のものと照合してください」
刑事は眉をひそめた。
「……そこまで分かってるのか」
「あと、舌骨と索条痕の再確認も」
刑事は、小さくため息をついた。
「……やれるだけやる」
その瞬間、優斗のスマホが震えた。
田所からの着信だった。
「もしもし」
『口座の流れ、出た』
『滝川零士から、片桐亜美に三百万円』
『事件の直前だ』
優斗は、そのまま刑事に伝えた。
「今、確認が取れました」
「零士の口座から、片桐の口座に三百万の送金があります」
刑事は、完全に言葉を失った。
「……それは」
「動機も、手段も、金の流れも揃いました」
優斗は、初めて警察官を見下ろした気がした。
「これでも、再捜査しませんか?」
刑事は、ゆっくり頷いた。
「……もう、引き返せんな」
警察署を出たとき、空はやけに明るかった。
兄の死は、ようやく「個人の悲劇」から「事件」に変わった。
——ここから先は、もう感情じゃなく、法の問題だ。
優斗は、そう思いながら、スマホを強く握りしめた。



