事務所に着いたとき、田所は珍しく立っていた。
いつもなら椅子に沈み込んでコーヒーを飲んでいるはずなのに、
今日は机の上に資料を広げたまま、腕を組んでいる。
「……なんか、空気違いますね」
優斗がそう言うと、田所は短く答えた。
「座れ。先に、君の話を聞く」
「え?」
「美玲さんの三度目の訪問」
「電話じゃ、軽くしか聞いてないから、詳しく話してくれ」
優斗は一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「零士さん……浮気してるそうです」
優斗は、あの時の会話を思い出しながら話した。
「相手は、蓮見乃亜っていう渋谷のショップ店員で」
「他にも何人かいるみたいで……」
田所はメモを取りながら黙って聞いている。
「それだけじゃなくて、家の貯金も、ほとんど使い込まれてるって」
「散財か」
「はい。それに……暴力も」
優斗は、少し言い淀んだ。
「怒ると、手が出るって言ってました」
「……今は、隼人の時と同じ立場になってるって」
田所のペンが止まった。
「どういう意味だ」
「零士さんの浮気を知ってても、別れられないって」
「一人になるのが怖いから……って」
優斗は、最後にこう付け加えた。
「……自分が隼人にしたことを、今度は自分がされてるって言ってました」
しばらく沈黙が流れた。
田所は、ゆっくりと息を吐いた。
「なるほどな」
「じゃあ……どう思いますか」
優斗は、恐る恐る聞いた。
「美玲さんも、計画に関わってた可能性……」
田所は、はっきり首を振った。
「薄い」
「……どうしてですか」
田所は、さっきのメモを机に置いた。
「共犯なら、今あんな状態にはならない」
「……」
「自分が仕掛けた計画で、その後の人生を壊されてる女の顔じゃない」
田所は淡々と言った。
「金も失って、殴られて、浮気されて、それでも縋りついてる」
「利用された人間の典型だ」
優斗は、あの時の美玲の表情を思い出していた。
泣きながら、でもどこか諦めきった顔で笑っていた。
「……確かに」
「美玲さんは、“計画の外側”にいる人間だ」
田所は続けた。
「片桐と零士にとって、都合よく使える駒だっただけ」
優斗の胸に、重たいものが落ちた。
兄を追い詰めた女。
でも同時に、別の男に壊されている女。
どちらも、否定できなかった。
田所は、遺書のコピーを机に並べた。
「で、本題だ」
「お兄さんは、自殺じゃない」
優斗は、言葉を失った。
「……え?」
「首の痕、レントゲン、現場状況」
「全部合わせると、先に首を絞められてから吊られてる」
「……」
「つまり他殺だ」
優斗は、しばらく何も言えなかった。
「……じゃあ」
ようやく絞り出した。
「誰が……」
田所は、即答した。
「滝川零士」
「……」
「片桐と手を組んで、遺産目当てで殺した可能性が高い」
優斗の中で、点が一気につながった。
片桐の虚言。
遺書の違和感。
そして、零士の存在。
「……最初から、全部」
「そうだ」
田所は静かに言った。
「君の兄は、最初から“利用される側”だった」
田所は、机の上の資料をまとめた。
「夏野君」
「はい」
「零士の経歴、洗って。大学、職歴、人間関係」
「金の流れも追え」
「平井」
「はい」
「片桐の周辺を重点的に聞き込み」
「各務は引き続き片桐さんを監視」
「棚田は滝川零士を尾行」
全員が頷いた。
田所は最後に、優斗を見た。
「君は、もう“感情の役”は終わりだ」
「ここから先は、論理だけで動く」
優斗は、ゆっくり息を吐いた。
兄は、死んだのではない。
殺された。
そしてその死で、今も誰かが、利益を得ている。
その事実だけが、冷たく、はっきりと胸に残っていた。



