悪魔の証明

 飛行機のドアが開いた瞬間、三年ぶりに吸い込んだ日本の空気は、驚くほど重たかった。
湿り気のある匂いと、整然と並ぶ人の流れ。どこを見ても、記憶の中の日本と何一つ変わっていないのに、僕だけが置いていかれたような感覚があった。

スマートフォンの電源を入れると、未読のメッセージが一斉に通知音を鳴らした。
その中に、母からの一行が混じっていた。

「帰ってきたら、すぐ実家に来て」

胸の奥が、理由もなくざわついた。

実家の玄関は、三年前と同じはずなのに、妙に狭く感じた。
靴を脱ぐと、母が何も言わずに居間へ案内した。父はすでに座っていて、背中がやけに小さく見えた。

「……優斗」

父が名前を呼んだだけで、空気が崩れた。

「隼人が……死んだ」

言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
兄の名前と「死んだ」という音の並びが、脳内でうまく結びつかない。

「自殺だった」

その瞬間、何かが胸の中で音を立てて崩れた。

柏葉隼人。
僕の兄は、誰よりも真面目で、誰よりも優しかった。

小学生の頃、クラスでいじめられていた僕を、兄は毎日迎えに来てくれた。
高校では、部活と勉強を両立しながら、家では母の代わりに夕飯を作っていた。
社会人になってからも、仕事で疲れているはずなのに、家事はすべて自分でこなし、休日は必ず彼女と出かけていたと聞いている。

そんな兄が、浮気をして、責められて、自殺した。

信じられるわけがなかった。

「俺が……殴ったからだ」

父が、突然そう言った。

「浮気したって、美玲さんの親から聞かされて……信じられなくて……でも……」

父の声は途中で震えて、言葉にならなくなった。

「俺が……疑って、殴って……それで追い詰めたんだ……」

母は隣で、ただ泣いていた。
何度も何度も、「ごめんね、隼人……」と呟きながら。

僕は何も言えなかった。
怒りも悲しみも混ざりすぎて、どの感情から出せばいいのか分からなかった。

ただ一つ、はっきりしていたのは。

兄は、浮気なんてしない。
そして、自殺なんて、する人間じゃない。

「美玲さんに……話を聞きたい」

そう言うと、父も母も何も止めなかった。
むしろ、どこか期待するような目で僕を見た。

兄が買ったマイホーム。
今もそこに、美玲さんは住んでいるらしい。

兄が建てた家に、兄のいない生活。
その事実だけで、胸が苦しくなった。

僕はまだ知らなかった。
その家こそが、兄の人生の最後の舞台だったことを。