四つ目の願い、奏楽。
それは後宮で催される大きな奏楽ではなく、延徳帝が手配した、小さな私的な奏楽だった。
王宮の一室に、四人の楽人が集められた。
他に客はいない。二人だけのために奏でられる音だった。
麗華は最初、その規模に驚いた。
「こんなに贅沢なことを……」
「お前が行けるか心配だった。大勢の中にいると疲れるだろう」
その言葉に、麗華は少し黙った。
自分の体のことをそこまで考えてくれていたのか、と知って、胸の中に温かいものが散った。
奏楽は、静かに美しかった。
弦と管の音が溶け合い、柔らかな響きが、ゆっくりと空気を満たしていく。
麗華は目を閉じ、その音の中に身を沈めた。
演奏の途中、隣にいる延徳帝をそっと見ると、彼は前を見ていたが、その横顔は普段より穏やかだった。
五つ目の願い、海。
これだけは帝都からは距離があったため、一泊二日の旅程を組んでもらった。
延徳帝が同行したことに、宮廷中が驚いたが、それは誰も口にはしなかった。
冬の海は凛として、冷たい風が吹き、波が白く砕けた。
「わあ」
麗華は砂浜に降り立って、両腕を広げると、声が風に飛んでいった。彼女の色素の薄い髪が乱れた。
「冷たいですが、海の匂いがします。生き物の匂い」
延徳帝は少し後ろに立つ。
「昔来たことがあるか?」
「ありません。内陸育ちですから」
「では初めての海か」
「はい」
と麗華は振り返って笑った。
「見てください、波が来ます」
波が押し寄せてきて、麗華の靴の縁を濡らした。
彼女はきゃっと笑いながら後退り、延徳帝の傍に戻ってきた。
「冷たかった!」
延徳帝は少しだけ、ほんの少しだけ、口の端を持ち上げた。
麗華はその瞬間を見逃さなかった。
六つ目の願い、羹を一緒に作ること。
これは宮廷の厨房を使って行われた。
料理長は最初、皇帝が厨房に立つと聞いて卒倒しそうな顔をしたが、麗華が「私が作り方を教えますから」と言うと、渋々場所を空けた。
麗華は辺境の家で覚えた根菜の羹の作り方を知っていた。
玉ねぎを切り、人参を切り、鍋に入れて炒める。
そこに水を注いで、煮込む。
「陛下、玉ねぎをみじん切りにしていただけますか」
「……わかった」
延徳帝はぎこちなく包丁を持った。
麗華はこっそり微笑みながら、「もう少し細かく」「ここで動かすとよいです」と横に立って助言した。
延徳帝の切った玉ねぎは不揃いだったが、それでも羹に入れれば同じだった。
鍋の中で野菜が煮えていく間、二人は並んで立った。湯気が上がり、部屋中に温かい香りが漂った。
「羹は得意なのか」
「得意というほどではありませんが、子どもの頃によく作りました。母に教わって」
「母君は達者か」
「……三年前に亡くなりました」
「そうか」
延徳帝は少し間を置いた。
「それは知らなかった」
「宮廷に入って間もなくのことでしたから。あまり知らせが届かなくて。葬儀にも参列ができませんでした」
鍋をかき混ぜながら、麗華は言った。
「母はとても良い人でした。辺境の厳しい生活の中でも、いつも明るくて。死ぬ直前に、私に言ったんです。幸せになりなさいよ、と」
延徳帝は黙っていた。
「幸せになれたかどうか、わかりませんが」
と麗華は続けた。
「こうして願いを叶えてもらっている今は、不思議と幸せな気持ちがします」
羹が仕上がると、二人でそれを食べた。
料理長が「仕上げを手伝います」と何度も申し出たのを断って、自分たちで盛り付けた。
麗華の羹は素朴で温かく、延徳帝は一度目のお代わりをして、黙って食べた。
七つ目の願い、馬で駆けること。
これは最初の願いから数えて二ヶ月後のことだった。
麗華の体の状態が比較的良い日を選んで、二人は王宮の外の草原に出た。
冬の草原は枯れていたが、空は高かった。
麗華は馬に跨り、手綱を握った久しぶりの感触。
「行きますよ」
彼女は馬を駆け出させた。
風が顔を打ち、体が浮く感覚。
草原の上を飛んでいくような解放感に、麗華は声を上げて笑った。
隣に延徳帝が並び、彼の馬が速度を合わせ、二頭が並んで草原を駆けた。
それはほんの数分間のことだったが、麗華には一生忘れないものに感じられた。
八つ目の願い、書庫に一日。
王宮の書庫に二人で籠もった。
麗華は自分の好きな本を積み上げ、延徳帝は政務の書類を持ち込んで別の机で仕事をした。
互いに何も話さない時間が流れた。
しかしそれは、かつての沈黙とは違い、温かく、穏やかな沈黙だった。
夕方近く、麗華が本を読みながら居眠りをした。
目が覚めると、肩に延徳帝の外套がかけられていた。
延徳帝は自分の机で書類と格闘していて、麗華が目を開けたことには気づかなかった。
麗華は外套の端を握りしめて、また目を閉じた。
九つ目の願い、夕陽を見ること。
それは二月の終わり頃だった。
麗華の体は、この頃には明らかに悪化していた。
朝起き上がるのも難しく、日中の半分は横になって過ごすようになっていた。
それでも、最後から二番目の願いを叶える日を、延徳帝は慎重に選んだ。
体調が少し持ち直した午後、二人は馬車で丘の上に出た。
日が落ちるのを待ちながら、麗華は毛布にくるまって丘の斜面に座ると、延徳帝はその隣に、少し距離を置いて座った。
太陽が地平線に近づくにつれ、空が色を変えた。橙、赤、紫、そして深い青。
麗華はその色の移ろいを、一つも見逃さないように目を開ける。
胸が痛んだが、今だけはそれを感じていなかった。
「きれいですね」
何も答えない延徳帝の横顔を、麗華はちらりと見た。
夕陽を見つめるその横顔に、麗華はこれまで見たことのない表情を見た。
それは悲しみに似ていた。
「陛下。残りの願いは、最後の一つになりましたね」
「ああ。最後の願いは決まっているのか?」
「……」
延徳帝の目が、かすかに揺れる。
「はい。それが叶ったら、きっと私は安心して逝けます」
「それは……」
延徳帝はしばらく沈黙していた。
延徳帝のその目に、今夜の空と同じ複雑な色が宿っていた。
橙でも青でもない、その間にある色。
「帰るぞ」
「陛下……」
延徳帝は立ち上がり、麗華に手を差し伸べ、その手を取って立ち上がる。
その手が、馬車に乗り込むまでの間、離れなかった。
それは後宮で催される大きな奏楽ではなく、延徳帝が手配した、小さな私的な奏楽だった。
王宮の一室に、四人の楽人が集められた。
他に客はいない。二人だけのために奏でられる音だった。
麗華は最初、その規模に驚いた。
「こんなに贅沢なことを……」
「お前が行けるか心配だった。大勢の中にいると疲れるだろう」
その言葉に、麗華は少し黙った。
自分の体のことをそこまで考えてくれていたのか、と知って、胸の中に温かいものが散った。
奏楽は、静かに美しかった。
弦と管の音が溶け合い、柔らかな響きが、ゆっくりと空気を満たしていく。
麗華は目を閉じ、その音の中に身を沈めた。
演奏の途中、隣にいる延徳帝をそっと見ると、彼は前を見ていたが、その横顔は普段より穏やかだった。
五つ目の願い、海。
これだけは帝都からは距離があったため、一泊二日の旅程を組んでもらった。
延徳帝が同行したことに、宮廷中が驚いたが、それは誰も口にはしなかった。
冬の海は凛として、冷たい風が吹き、波が白く砕けた。
「わあ」
麗華は砂浜に降り立って、両腕を広げると、声が風に飛んでいった。彼女の色素の薄い髪が乱れた。
「冷たいですが、海の匂いがします。生き物の匂い」
延徳帝は少し後ろに立つ。
「昔来たことがあるか?」
「ありません。内陸育ちですから」
「では初めての海か」
「はい」
と麗華は振り返って笑った。
「見てください、波が来ます」
波が押し寄せてきて、麗華の靴の縁を濡らした。
彼女はきゃっと笑いながら後退り、延徳帝の傍に戻ってきた。
「冷たかった!」
延徳帝は少しだけ、ほんの少しだけ、口の端を持ち上げた。
麗華はその瞬間を見逃さなかった。
六つ目の願い、羹を一緒に作ること。
これは宮廷の厨房を使って行われた。
料理長は最初、皇帝が厨房に立つと聞いて卒倒しそうな顔をしたが、麗華が「私が作り方を教えますから」と言うと、渋々場所を空けた。
麗華は辺境の家で覚えた根菜の羹の作り方を知っていた。
玉ねぎを切り、人参を切り、鍋に入れて炒める。
そこに水を注いで、煮込む。
「陛下、玉ねぎをみじん切りにしていただけますか」
「……わかった」
延徳帝はぎこちなく包丁を持った。
麗華はこっそり微笑みながら、「もう少し細かく」「ここで動かすとよいです」と横に立って助言した。
延徳帝の切った玉ねぎは不揃いだったが、それでも羹に入れれば同じだった。
鍋の中で野菜が煮えていく間、二人は並んで立った。湯気が上がり、部屋中に温かい香りが漂った。
「羹は得意なのか」
「得意というほどではありませんが、子どもの頃によく作りました。母に教わって」
「母君は達者か」
「……三年前に亡くなりました」
「そうか」
延徳帝は少し間を置いた。
「それは知らなかった」
「宮廷に入って間もなくのことでしたから。あまり知らせが届かなくて。葬儀にも参列ができませんでした」
鍋をかき混ぜながら、麗華は言った。
「母はとても良い人でした。辺境の厳しい生活の中でも、いつも明るくて。死ぬ直前に、私に言ったんです。幸せになりなさいよ、と」
延徳帝は黙っていた。
「幸せになれたかどうか、わかりませんが」
と麗華は続けた。
「こうして願いを叶えてもらっている今は、不思議と幸せな気持ちがします」
羹が仕上がると、二人でそれを食べた。
料理長が「仕上げを手伝います」と何度も申し出たのを断って、自分たちで盛り付けた。
麗華の羹は素朴で温かく、延徳帝は一度目のお代わりをして、黙って食べた。
七つ目の願い、馬で駆けること。
これは最初の願いから数えて二ヶ月後のことだった。
麗華の体の状態が比較的良い日を選んで、二人は王宮の外の草原に出た。
冬の草原は枯れていたが、空は高かった。
麗華は馬に跨り、手綱を握った久しぶりの感触。
「行きますよ」
彼女は馬を駆け出させた。
風が顔を打ち、体が浮く感覚。
草原の上を飛んでいくような解放感に、麗華は声を上げて笑った。
隣に延徳帝が並び、彼の馬が速度を合わせ、二頭が並んで草原を駆けた。
それはほんの数分間のことだったが、麗華には一生忘れないものに感じられた。
八つ目の願い、書庫に一日。
王宮の書庫に二人で籠もった。
麗華は自分の好きな本を積み上げ、延徳帝は政務の書類を持ち込んで別の机で仕事をした。
互いに何も話さない時間が流れた。
しかしそれは、かつての沈黙とは違い、温かく、穏やかな沈黙だった。
夕方近く、麗華が本を読みながら居眠りをした。
目が覚めると、肩に延徳帝の外套がかけられていた。
延徳帝は自分の机で書類と格闘していて、麗華が目を開けたことには気づかなかった。
麗華は外套の端を握りしめて、また目を閉じた。
九つ目の願い、夕陽を見ること。
それは二月の終わり頃だった。
麗華の体は、この頃には明らかに悪化していた。
朝起き上がるのも難しく、日中の半分は横になって過ごすようになっていた。
それでも、最後から二番目の願いを叶える日を、延徳帝は慎重に選んだ。
体調が少し持ち直した午後、二人は馬車で丘の上に出た。
日が落ちるのを待ちながら、麗華は毛布にくるまって丘の斜面に座ると、延徳帝はその隣に、少し距離を置いて座った。
太陽が地平線に近づくにつれ、空が色を変えた。橙、赤、紫、そして深い青。
麗華はその色の移ろいを、一つも見逃さないように目を開ける。
胸が痛んだが、今だけはそれを感じていなかった。
「きれいですね」
何も答えない延徳帝の横顔を、麗華はちらりと見た。
夕陽を見つめるその横顔に、麗華はこれまで見たことのない表情を見た。
それは悲しみに似ていた。
「陛下。残りの願いは、最後の一つになりましたね」
「ああ。最後の願いは決まっているのか?」
「……」
延徳帝の目が、かすかに揺れる。
「はい。それが叶ったら、きっと私は安心して逝けます」
「それは……」
延徳帝はしばらく沈黙していた。
延徳帝のその目に、今夜の空と同じ複雑な色が宿っていた。
橙でも青でもない、その間にある色。
「帰るぞ」
「陛下……」
延徳帝は立ち上がり、麗華に手を差し伸べ、その手を取って立ち上がる。
その手が、馬車に乗り込むまでの間、離れなかった。



