京の都の南西に位置する海洋群島。島の中央にある険しい峡谷にて。
海神に仕える巫女一族の家系に生まれ、誰よりも信神深いにも関わらず無能であり、額に蛇のような痣があることから、「色なしの蛇神子」と蔑まれている少女がいた。
名は真珠。
淡い金のような緩やかな髪、真珠のように清らかで透明感のある肌、黄金の瞳の周囲を髪と同じ色の長い睫毛が縁どっている。巫女装束に身を包んだ彼女は、峡谷から枯渇しつつある川の流れを見下ろしながら、海神に祈りを捧げていた。
「どうか島の主である海神様が幸せになりますように」
初夏を迎えた島では、日照りが続いていて、川の水が枯渇しつつあり、岩肌に生えた草もすっかり枯れ果ててしまっていた。島に暮らす者たちは、「島を守る海神様が伴侶がおらずに嘆いていて、海に引きこもって雨を降らさないのだろう」と噂している。
「海神様にどうか素敵な奥方がいらっしゃいますように」
祈りを捧げる真珠の背後に影が差す。
「真珠姉さま、こちらにいらしたの? 無能な貴女がどれだけ祈ったって一緒なんじゃないの?」
振り返ると、緩やかな黒髪で黒猫を彷彿とさせる美少女がそこには立っていた。真珠が纏う質素な巫女装束とは違い、豪奢な赤い着物を纏っている。
「棗」
海神の末裔と呼ばれている島の統治者との結婚も決まっている異母妹だ。真珠とは違って、高い神通力を有している。そうして、無能である異母姉のことを、継母と共にいつも馬鹿にしてきていた。
「ねえ、真珠姉さま、せっかくだから、あなたが海神様の伴侶になったら良いじゃない?」
「え?」
海神とは言っても、姿形も分からない存在だ。そんな海神の伴侶になれというのは……。
「言葉通りの意味よ。海神様のいらっしゃる、海に……生贄になると良いわ」
異母妹・棗から遠回しに「死ね」と言われたようなものだった。
***
月明かりの下。
初夏とはいえ、暗い川の上は怖い。
そう、真珠は海神の生贄になるようにと、小舟に乗せられて海に流されてしまっていた。
「まだ川から海に流れる水があるだけマシよね」
自分の命で日照りが解消されて島民たちが助かるのなら良かったと思うべきだろう。
月の形が蜜柑のようだと思えたのは最初だけだった。
下流に差し掛かるに連れて、余裕をどんどん失っていく。
いよいよ川が海へと流れ込む場所へと船が到達する。
磯の香りが鼻腔を突いてくる。波打つ音が鼓膜に届く。
今日は海が少しだけ荒れていて、さざ波が立っていた。
波に呑まれて死ぬのだという実感が伴ってくると、恐怖が背筋を這い上がってくる。
乗っている小舟は急ごしらえで作られたものだから、波に乗れば、いともたやすく壊れてしまうだろう。
怖い、怖い、怖い、怖い……。
そんな気持ちを打ち消したくて、真珠は気丈にも歌を唄うことにした。
幼い頃、今は亡き母が唄ってくれた子守唄。島に伝わる民謡だ。
底の見えない海を見るのは怖いので、目を瞑る。
打ち寄せてくる波を感じながら、海神に祈りを捧げるように、子守歌を歌い続けた。
「どうして、女がこんなところにいる」
男の声が聞こえた瞬間、真珠は小舟とともに海の中に転落する。
海の中に落ちる。
巫女装束が水を吸って海底へと引きずりこまれていく。
息が出来ない。
苦しい。
その時。
大きな掌に手首を力強く掴まれる。
その時、真珠の額の蛇のような痣が熱く滾ったのだった。
***
真珠が次に目を覚ますと、視界がゆらゆらと揺れて感じた。
見知らぬ天井が目に入る。木で出来た建物の中のようだけれど、小舟に乗っていた時のようにグラグラしている。
「ここは……?」
「女の歌声が聞こえるから、どんなあやかしでもいるのかと思いきや、巫女装束を着た女ときた」
どことなく色香を孕んだ男の低い声が聞こえたため、真珠はハッと身を強張らせながらも、ガバリと上半身を起こした。どうやら広々とした部屋の中に設置された寝台の上で寝ていたようだ。そうして、声の主の方へと視線を移す。
(あ……すごく、見目麗しい男性だわ)
神秘的な白くて長い髪、片目は黒い眼帯に覆われており、もう片方は神秘的な紫水晶の瞳をしており、この世の者とは思えないほどの美丈夫だ。筋骨隆々とした巨躯の持ち主だと着物姿でも分かるほどで、女性のように派手な紫色の着物を肩に羽織っており、傾奇者のような見た目をしている。真珠よりも五歳ほど年上だろうか?
「海で溺れて死にかけたんだ。熱もまだある。無理に身体を起こすな」
ドクン。
真珠は巫女として育ってきたため、比較的年が近くて、こんな美青年とは出会ったのは初めてだ。現金かもしれないが、頬が熱くなっていくのを感じた。
「助けたのが俺で良かったな。違う奴らに拾われていたら、下手したら異国に売られていたかもな」
美青年が呆れたように溜息を吐く姿さえも、艶っぽく感じた。
真珠はまだグラグラする頭を抱え込みながら問いかける。
「ここは? それに、貴方は、いったい?」
「ここは俺が率いる船の中だ」
「船の中?」
「ああ、そうだ」
だから、こんなにも揺れているし、波の音が近いのか。
そうして、紫水晶の瞳がこちらを射抜いてくる。
「俺の名は海神」
「わだつみ……?」
「そうだ」
海神の生贄になれと海に流されたのだし、もしや目の前の美青年が海の神だというのだろうか?
とはいえ、美青年は人間にしか見えない。
だとすれば……真珠はハッとすると同時に身構えた。
「まさか、ここら一帯の海域を支配しているという海賊が、不敬にも海神を名乗っていると聞いたことがあります。まさか……」
すると。
男がゆるりと唇の端を吊り上げる。ゆっくりとした動作で首を傾げると、さらりと白髪が襟元から覗く鎖骨の付近を滑り落ちていく。そんな姿も、どことなく色気があった。
「ご名答、俺がその海賊の頭領・海神だよ」
どうやら本当にここら一帯の海を統べる海賊の頭領・海神らしい。
「女の歌声に惹かれてきてみたが、これも数奇な巡り合わせだ。若い女がここらにいるのも珍しい。そうだな……」
彼の手が伸びてくると、彼女は顎を掴まれ、上向かされた。
「せっかくだから、俺の女にならないか?」
真珠は目を見開いた。
神をも恐れぬ不遜な輩らしく、荒くれ者がするような強引な所作だ。
まっすぐに見つめてくる彼のことを彼女もまっすぐに見据えた。
「助けてくださったことには感謝します。ですが、私は本当の海神様の生贄にならないといけません。ですから、貴方様の女とやらになることはできません」
すると。
海神が腹を抱えてひとしきり笑いはじめる。
「何がおかしいというのですか?」
すると、彼が髪をかきあげる。
次に視線が会った時、まるで狂暴な獣と出くわしてしまったかのような錯覚に陥った。
「生贄だとかくだらないな」
「な……」
真珠は生贄になるのだと覚悟を決めていたこともあって、なんだか自分自身の生き様を否定されたような心地がした。
反論しようかと思ったのだけれど、海神がポツリと呟いた。
「だが、そうだな。海で誰かに死なれるのはもう御免だ」
「え?」
しかしながら、それ以上は踏み込んではいけない雰囲気があった。
「まあ良いさ、別に女に困っちゃいないんでね」
海神が吐き捨てるように告げた。
海賊の頭領であり、こんな美丈夫ともあれば、女性に困ったりはしたことがなさそうだ。
真珠は少しだけ残念な気持ちになりながらも、海神に声をかける。
「でしたら、船から降ろしてもらっても宜しいでしょうか?」
「残念だが、この船はしばらく陸には帰らない。助けてやった礼を払え」
「礼を……?」
「そうだ。陸に戻るまでの十日間。俺の女のフリをして過ごせ。十日が過ぎて、それでも生贄になりたいなら、何でもなれよ」
***
しばらく海を航海するようだ。船から降りられないため、真珠は船に居候することになった。十日間だけれど、荒くれ者である船員たちに下手に目をつけられないようにとのことで、頭領・海神の女として扱われることに対しては目を瞑ることにした。
そうして、身の安全のためにと、真珠は海神と一緒の部屋で過ごしていた。
実際には何かされることもなく、真珠の海で衰弱した身体が回復するまでの間、海神は手厚く看病してくれていたのだ。
「ああ、熱も下がったし、顔色もだいぶ良いな」
「ありがとうございます」
「どうだ、飯は食えそうか?」
「それは……まだ、あまり食欲がわきません」
「そうか。だったら、太陽の恵みでも口にしておけ」
海神が橙色の丸い何かを放り投げてくる。
真珠はそれを受け取った。
「太陽の恵み?」
どうやら柑橘類のようだ。
「蜜柑……!」
「ああ、そうだ。水分も栄養も取れるし、甘酸っぱくて癖になる」
どちらかというと強面な男性だけれど、蜜柑を好んで食べている姿を想像したら、なんだかおかしかった。
「ふふっ……」
「何だよ、俺の顔に何かついているか?」
「いいえ、別に」
真珠は改めて海神の顔を眺める。
(海賊相手にすぐにほだされてはいけないと分かっている。だけど……)
一緒に過ごしたのは三日間程度だ。
口は悪いし顔は怖い時があるけれども、海神は真珠を乱暴に扱うことはしなかった。
峡谷にある神社で過ごしていた時、真珠が熱を出しても、誰も看病をしてくれなかった。だけど、世間では海賊の頭領であるはずの海神はそれそこ熱心に看病をしてくれたのだ。
(海神様はお優しい殿方だわ)
最初は海賊と聞いて怖くて仕方がなかったけれど、面倒見が良い海神の優しさに真珠は考えを改めるようになっていた。
***
その夜。波が高いせいもあってか、船の揺れが激しくて、真珠は目を覚ました。
寝台は広いので、普段は真珠が眠る反対側の端に海神が眠っているのだが、なぜか窓辺に面した椅子に座って外を眺めていた。
そうして、海神が酒を煽った後、海に向かって祈りを捧げていることに気づく。
(あ……)
すごく意外な行動に感じた。
(そういえば、「海で誰かに死なれるのはもう御免だ」と言っていた気がする)
海神は海で誰か大事な人を失ったのだろうか?
彼が誰のために祈っているのかは分からない。
だけど、真珠も胸の前で手を合わせると、一緒に海へと祈りを捧げるのだった。
***
翌日、真珠は体調が良くなったので、部屋の外に出ることになった。すると、船員たちに大歓迎される。
「おお、頭領の女だ!」
「俺は花嫁様だって聞いたぞ?」
「すごくべっぴんさんだ! これは頭領も一目惚れするわけだ」
「声が愛らしいと伺ったぞ」
真珠はたじろいでしまった。
船員たちは荒くれ者というよりも陽気な男たちのように感じてしまう。
少しだけ年をとった老人が真珠に声をかけてくる。周囲の話を聞くに、副頭領のようだ。
「頭領は荒くれ者ですが根が優しいので女性達にも評判なんですがね……」
やはりというべきか、海神は誰に対しても優しい人物のようだ。
自分にだけ優しいのではないかと期待してしまったけれども、そんなことはなかった。
真珠は少しだけ寂しさを感じてしまう。
すると、副頭領が思いがけない話をしはじめた。
「頭領はどんな女性相手にも本気になったことがありませんでした。ですが、真珠様は特別な存在のようです」
「私が特別……?」
「そうです。あんな風に頭領の部屋に女性を招き入れたのは初めてでした。部屋に何日も囲って、本当に大切にされているのでしょう」
真珠の頬が赤く染まる。
(海神さんの恋人というのは、私の身の安全のためについた嘘でしかないんだから、真に受けたらダメよ)
そんな風に自分に言い聞かせるのに必死だった。
***
どうやら船の中には子どもたちもいることが判明した。男所帯なので、男児ばかりのようだ。
(まさか……海賊だし、子どもを攫って異国に売ったりしているのかしら?)
海神は海賊だけれども、なんとなくそんな酷いことはしておいてほしくないと願ってしまう。
すると、たまたま傍にいた少年が声をかけてくる。
「真珠様、僕は海に捨てられていたところを海神様に拾ってもらったんですよ」
「え?」
「ほら、そこにいる子どもたちもそうです。みんな、親から捨てられたり、親が死んでしまった子どもたちばかりなんですよ」
子どもたちが口々に話す。
「海賊だけど、悪さをする海賊たちを取り締まりをしているんです」
「海神様がお強いから、他の海賊たちが民たちに悪さを働かないんですよ」
「海神様がここらあたりを支配してくださっているから平和なんですよ」
子どもたちが騙されていないか心配していたが、副頭領からも同じような説明を受けた。
つまるところ、海神は孤児たちを拾って、海を守る自警団のような組織を作り上げていたということだろう。
(やっぱり海神様は悪い人じゃないんだわ)
真珠は確信する。
子どもたちが続ける。
「真珠様がきてから、頭領がすごく穏やかになりました」
「良かったら、ずっと一緒にいてくださいね」
喜ぶ子どもたちのことを見ていたら、真珠としてはなんだか自分の居場所が出来た気がして嬉しくなったのだった。
***
夜。真珠は甲板に出て唄を歌っていた。
母がよく歌ってくれていた子守唄だ。
「歌が聴こえると思ったら、こんなところにいたのか」
「海神様」
海神が現れると、真珠の横に座りこんだ。
「あんたは歌が上手いようだな。最初に会った時も、今みたいな歌声に惹かれてきたんだった」
歌を褒められて、真珠は淡く微笑んだ。
「あんたは笑うと可愛いな」
「え? そんなことはなくて……」
「照れてるのか?」
海神が意地の悪い笑顔を浮かべてくる。
「そんなんじゃありませんから」
揶揄われているのに気づいて、真珠は頬を膨らませた。
すると、海神はハハっと笑う。
「そういえば、海神さん、今日は海の中に潜っていらっしゃいましたね」
「ああ、見てたのか?」
「はい、なんだか気持ちが良さそうで、私も泳いでみたいなって思いました」
泳ぐ海神は水の中を自由に動き回って楽しそうだった。
「だったら、一緒に泳いでみるか?」
「え? ですが、私は泳ぎ方が分からなくて……」
すると、海神が蕩けるような笑みを浮かべた。
「だったら、俺が教えてやるよ」
***
海神に手を引かれながら真珠は海の中を泳いでいた。着物が重すぎて溺れてはいけないからと、二人とも白襦袢姿だ。裸同然の格好のため恥ずかしくて堪らない。
海神が声をかけてくる。
「ああ、だいぶ泳げるようになってきたな」
「ありがとうございます、海神さんの教え方が上手なんだと思います」
真珠は首を傾げながら微笑んだ。
海神が塗れた髪をかき上げながら告げた。
「あんたに泳ぎ方を教えていたら、俺に泳ぎ方を教えてくれた親友のことを思い出したよ」
「親友?」
「そうだ」
そうして、海神は空にある月を眺めながら告げた。
「俺はな、そこそこ身分のある家の出なんだ」
真珠はハッとする。
海神は粗雑な振る舞いも多いものの、品の良い所作が見え隠れすることがあった。だからこそ、身分のある高貴な家の出身だったとしても、さほど驚きはしなかった。
「自分の運命を呪って家を出て、唯一無二の親友と一緒に海賊になった。親たちの力なんて借りずに自分たちで島の皆を守るんだって息巻いてたよ」
昔を懐かしむように笑っていた海神だったけれど、ふと表情が陰った。
「だが、ある時激しい嵐に見舞われてしまって、俺の親友は命を落とした。俺に力がありさえすれば、あいつが海で命を落とすことはなかった」
親友を海で失くしてしまったという海神。
嵐などの災害などの前では、人の力など無に等しい。けれども、天候を読む能力だったり、船の航海術なり、嵐の中でも生き延びるための最善の行動というものがとれたかもしれない……そんな風に海神は後悔しているのかもしれない。
(だとすれば、数日前に海神様が海に向かって祈りを捧げていたのは、亡くなった親友のご冥福を祈るためだったのね)
真珠は静かに鎮魂歌を歌い始める。
島に伝わる唄。
島の主である海の神へと祈りを捧げる唄。
歌い終わった後、熱い視線を感じて、ハッとする。
「ごめんなさい、突然歌ってしまって」
「いいや、あんたに歌ってもらって、あいつも喜んでいるだろうさ」
そうして、海神の紫水晶の瞳がまっすぐにこちらを射抜いてくる。
「俺はあんたのように海で命を投げ出したがるやつが許せなかった」
ドクン。
真珠の胸がざわつく。
許せないという言葉が胸を抉ってくるかのようだ。
「だが、わざわざ自分から命を失いたい女が子守唄を必死に歌っているはずがない。話を聞けば、生贄の役目を果たさないといけないという。島の峡谷にいる巫女であれば重宝されてしかるべきなのに、おかしな扱いを受けていることが気になった」
真珠は伏し目がちになった。
凪いだ海はとても静かで、船がそばにいるけれども、自分たちしか世界にいないような錯覚に陥ってしまう。
「私は……見ての通り、和の国の生まれにしては淡い色合いの見た目をしているでしょう?」
「それは俺も同じだ。それで?」
「だからこそです。色合いは薄く、額にはおかしな蛇のような痣がある。そのため、色なしの蛇巫女と一族の者たちからは蔑まれて生きてきました」
真珠は一族から蔑まれていたこと、亡くなった母は優しかったこと、継母が来てからおかしくなったこと、島の領主に求婚されたという異母妹から海の神の生贄になれと言われたことを説明した。
しばらく考え事をしていた海神だったが、ポツポツと話し始める。
「巫女一族は島民のために誠意をもって尽くしてきた者たちだと思っていたが、その継母と異母妹とやらが来てから、きな臭くなったっていう報告は受けていたな」
「報告……?」
「ああ、いや、こっちの話だ」
真珠は海神のことを真っすぐに見据えた。
「海神様、海に投げ出された私を拾ってくださって、ありがとうございました。船に乗って、人々の温かさを知ることができました」
すると、海神が穏やかな笑みを浮かべる。
「そうか、それなら良かった」
そうして、続ける。
「島の皆を幸せにするためにも、俺も覚悟を決めないといけない」
一体何の覚悟だろうか?
けれども、尋ねるよりも早く、海神の手が真珠の顎にかかる。
「なあ、真珠」
ドクン。
真珠の心臓が跳ねる。
初めて名前を呼ばれたはずだ。
トクントクントクン。
鼓動が高鳴っていく。
真珠の髪の先から雫がしたたり落ちる。
頬を流れ落ちる水と濡れた髪を、海神の長くて少しだけ硬い指が払う。
「今度は俺のために歌ってくれないか? 酒よりもあんたの歌に酔いたい気分なんだ」
「海神様のために?」
「ああ、だが……」
海神の顔がゆっくりと近づいてくる。
真珠の唇にゆっくりと柔らかなものが重なる。
海神から触れるだけの口づけを施される。
海面から出た身体は冷えていたけれども、唇から熱が伝わってくる。
「歌の前に……あんた自身にもう俺が酔っちまってるみたいだな」
そうして、二人は再び口づけ合う。
真珠の額の痣がやけに熱く滾ってくるようだ。
雲がゆっくり流れてくると、真ん丸の月を隠す。
ずっと雨が降っていなかったというのに、柔らかな雨が降りはじめたのだった。
***
雨が降ったために船員たちが喜んでいた。
けれども、いよいよ船が港に辿りつくことになった。
近づいてくる港を、甲板からぼんやりと眺める。
(もっと海神様のそばにいたい)
分不相応な願いかもしれないけれど、恋人のフリではなく、本当の恋人になれたのなら……。
そんな思いが真珠の胸を支配しつつあった。
ちょうど真珠の隣に海神が現れる。潮風で彼の長髪が翻った。
「なあ、真珠」
「どうなさいましたか?」
すると、彼が真摯な表情で話しかけてきた。
「これからも俺のそばで過ごさないか?」
真珠の胸の内が明るくなる。
願ったり叶ったりの状態だ。
「海神様、私も……」
「一緒にいたい」と思いを伝えようとしたのだけれど……。
「頭領! 迎えが来てますぜ!」
どうやら港に船が着岸したようだ。
「迎え? すまない、真珠。話をつけてくる」
海神が桟橋を渡って陸へと向かう姿を眺める。
(海神様……)
真珠は夢見心地だったのだけれど……。
「お頭、やっぱりあの巫女一族の娘と結婚するのかな?」
ドクン。
巫女一族の娘。
自分のことが話題に上っているのだろうか?
けれども、自分が巫女一族の出身だと話したことは一度もない。
盗み聞きはよくないけれども、耳を澄ませてみることにした。
「ああ、陸であんな風に待ってくるとかさ。結婚の催促じゃないか?」
「そうだろうな。家同士が決めた許婚なんだっけ?」
「そうらしいよ、棗姫だっけ? あんな女狐とは結婚してほしくないよな。頭領にはさ、せっかく真珠様っていう可愛らしい恋女房ができたっていうのにさ」
「跡取りとかに嫌気が差して海賊やってるんだろう? あんなに自由を愛している人なのに、可哀想だよな」
真珠は瞠目した。
(海神様の婚約者が棗?)
まさか異母妹の棗と婚約関係にあっただなんて。
それに、海神の生家というのは――島の領主一族だ。
海賊たちの会話がそれ以上は耳に入ってこなかった。
真珠は衝撃を受ける。
海の中、自分が巫女一族の出身者だという話を海神にしたけれど、どうしてあの時は何も教えてくれなかったのだろうか?
(気付いていたのに知らないふりをしたの……?)
あんなに毎日一緒に過ごしてきて、なんだか近しい存在になった気がしていたけれど、そんな風に思っていたのは自分だけだったのかもしれない。
ふと、嫌な考えが脳裏を閃く。
(海神様は棗と夫婦になるつもりだったのなら、私に一緒にいないかと話しかけてきたのは……)
同情なのだろうか?
真珠はフラフラと桟橋を渡ると、久しぶりの地上に降り立った。なんとなくまだ船の中にいるみたいで浮遊感が消えてはくれない。
ちょうど海神が気づいてこちらに近づいてくる。
「真珠、悪いな。実はあんたの生家のやつらと……」
「その……!」
真珠は話を遮る。
けれども、ちゃんと尋ねておかないといけない。
「海神様には婚約者がいらっしゃるのですか?」
海神の表情が一気に険しくなる。
「俺が誰と話しているのか見たのか? それとも、船乗りたちが話していたのか?」
質問内容を否定してこなかった。
つまるところ、それが答えだ。
真珠は伏し目がちになると、ぎゅっと拳を握りしめた。
海神が海賊の頭領だろうが島の当主だったとしても……無能の自分なんかよりも、高い神通力を持った異母妹と結婚した方が、絶対に海神のためだ。
「海神さん、先程のお返事なのですが……」
「ああ、さっきの……」
「一緒にいたいと言ってもらえて嬉しかったです。だけど……どうか棗を幸せにしてあげてください」
「真珠!」
真珠は海神のそばを横切ると、波止場から港町の雑踏の中へと消えていったのだった。
***
街の中。
船から離れてしばらく経つ。
真珠はどうしようか悩んでいた。
ふと、自身が纏う山吹色の着物の裾が視界に入る。
海神が差し出してきた柑橘類のことを思い出してしまった。
「海神様にいただいた着物で出てきてしまったわね。お返ししてから来るべきだったかもしれない」
いつか気持ちの整理がついたら、着物を返しに領主の館なり海賊の船になりに、着物を返しに向かおう。
(船で過ごしたおかげで、身の回りのお手伝いをしたりするのが性に合うことに気付けたわ。どこかの屋敷で奉公しながら生計を立てていけないかしら?)
これまでずっと、無能と蔑まれながらも、巫女としての自分の役目に縋って生きてきた。だけれど、海神と出会えたおかげで、自分には自分に相応しい別の生き方だって出来るのだと自信が持てるようになっていたのだ。
(巫女一族としては無能でも、自分自身で出来ることをやって、そうして島の皆のことを守っていけたら、それが一番だわ)
その時。
少しだけ雲行きが怪しくなってきたかと思うと、また雨がポツポツと降り始めた。
雨宿りをしようかとキョロキョロしていると……。
「こんなところにいたの?」
聞き覚えのある声が耳に届く。
振り返ると、雨に濡れるのもいとわず、その場に立ち尽くす巫女装束の女が立っていた。
「棗」
異母妹の棗だった。
「真珠、どうして貴女が私よりも上等な着物に身を包んでいるの?」
棗は悪鬼のごとき形相で近づいてくると、真珠の淡い金の髪を掴んでくる。
「きゃっ……! 棗、やめてちょうだい!」
「真珠……! 峡谷でだけ、雲が避けて雨が降らないのよ。そのせいで、私の巫女としての資質が悪いのではないかって、おかしな噂が立っているの。私のせいなわけないじゃない? 真珠、あんたが海の神に捧げられていないせいでこんな風になっているのよ」
棗の言い分にこれまでは言われっぱなしだったけれど、真珠は反論することにした。
「そんなわけはないわ。棗、こうやってちゃんと雨は降っているじゃない? 無能な私が海の神に捧げられようと、そうじゃなかろうと……」
「おだまりなさい! この無能の蛇巫女が……!」
そうして、棗が下卑た笑顔を浮かべてきた。
「ねえ、私のためにちゃんと海の神に捧げられてちょうだい、真珠?」
***
雨足がどんどん強くなる。
人々が軒先に隠れたり屋敷の中に戻る中、棗がものすごい力で真珠の髪をひきずりながら港へと向かっていた。逃げ出したいけれど、使用人たちから手に縄を施されてしまっていて、上手に逃げ出すことが出来ない。
「離してちょうだい、棗!」
だが、制止は聞かない。
岸辺に辿りつく。
雨が酷すぎて港に停泊しているはずの船の姿が全く見えない。
「さあ、真珠、私のために死んで!」
真珠は捕縛されたまま、海に投げ出される。
ぎゅっと瞼を瞑ると、唇をぎゅっと噛みしめた。
海面にぶつかって全身が痛い。
同時に海の中に放り出され、着物が水を含んでしまう。
最初に棗から川に流された時であれば、錯乱してしまっていた。
だけど、海神に泳ぎを教えてもらった。
(雨は酷いけれど、海は穏やかだわ。暴れるから沈むのよ。海神様に教わったように、水の流れに逆らわずにやり過ごすのよ)
そうして、真珠が海面まで浮かぼうとしていたところ。
手首をガシリと掴まれる。
熱い。
そう思った時には……。
ザパリ。
真珠は海面に顔を出していた。
「真珠……!」
目の前にはずぶ濡れの海神の姿がある。
感動したのも束の間、異変に気付く。
「海神様、どうして……?」
自分たち二人が神々しいまでの光に包みこまれているのだ。
先ほどまで穏やかだった海が荒れ狂いはじめる。
そのまま光に導かれ、二人は陸地に降り立つ。
(いったい何が起きているの?)
目の前では、異母妹・棗が驚愕していた。悲鳴じみた声を上げてくる。
「そんな、領主さま、どうして異母姉の真珠と一緒にいらっしゃるのですか? そいつのせいで、島に雨が長らく降らなかったのですよ!?」
海神は真珠のことを愛おしそうに地面に下ろすと、棗のことを蔑むように睨みつけた。
「島に雨がずっと降っていなかったのは、お前の祈りが足りなかったせいだ。都合の良いところだけ自分の手柄にして、都合が悪くなると他人のせいにする。そんな者が祈ったところで、神だって嫌がるだろうがな」
そうして、酷く冷たい口調で棗に告げた。
「海神の末裔――いいや、新たな海神として島の支配者となる俺の命令だ。お前はもう島の巫女を辞めろ」
新たな海神とはどういう意味だろうか?
「今、海が荒れ狂っていたのは、俺の伴侶を傷つけようとした者に対して、俺の支配下にある海の生き物たちが怒り狂っているのが原因だ」
棗はわなわなと震えていたが、キッと真珠を睨むと走り寄ってくる。
「お前さえ、いなければ!」
その瞬間。
海神の身体が眩い光に包みこまれる。
眩しすぎる。
真珠が目を瞑る。
光に慣れてきたので目を開けると、そこには……。
「なっ……!」
巨大な竜が目の前には立っていた。美しい純白の鱗、おどろおどろしくもあるけれども、雄々しき相貌に鋭い紫水晶の瞳。とぐろを巻いており、遠目で見たら大蛇だと思うものもいそうだ。
目の前に鋭い牙が現れたからだろう。
「ひッ」
棗はその場で気を失った。
真珠はおそるおそる竜に声をかける。
「海神様なのですか?」
『ああ、そうだ。真珠は俺だって分かるのか?』
「はい、もちろんです」
そっと竜の鱗に触れる。
真珠の額が熱を帯びる。
間違いない、真珠の知る海神だ。
「だって、海神様がそばにいると、とても暖かいのですもの」
『そうか、それは何よりだ』
そうして、海神が竜の姿から人の姿に戻った。
雨もやみ、荒れ狂っていた海も鎮まった。
雲間からは陽光が差してくる。
誰もいない港で、真珠は海神と対峙する。
「島の領主一族は海の神――海に棲む竜の血を継いでいる。だから、ここら一帯を支配している神そのものでもあるんだ」
海神はどこか遠くを眺めた。
「俺は、自身の強大な力を制御できずに過ごしていたんだ。神なんだから天候だって操れないといけないのに、結局はそれさえできず、親友のことも助けられず、俺は右目を失った。俺の心が荒れ狂うたびに空や海は荒れた。だんだん心が乾くように感じていたら、ここ最近は雨が一切降らなくなった」
海神がそっと真珠の手を掴んでくる。
「だがな、真珠。あんたと出会ったことで、俺は力を制御できるようになったんだ。どうにも浮かれてやけに晴天が続いちまったが、あんたが俺のことを受け入れてくれたおかげで、完全に力を制御できるようになったんだ」
「私が海神様を受け入れる?」
すると。
海神が真珠の手の甲に口づけてくる。
「海で俺の口づけを受け入れただろう?」
「あ……」
海の中、初めて口づけを交わしたことを思い出してしまい、真珠の頬が朱に染まる。
そうして、彼が彼女の髪をかき上げる。額にある蛇のような痣に、そっと口づけられた。
「この痣はな、俺の運命の伴侶であることの徴だ」
「私が海神様の……?」
「ああ、そうだ」
まさか、この忌まわしいと言われていた痣が、海の神の伴侶の徴だったなんて。
海神が真摯な眼差しを送ってくる。
「海で拾ってから、看病したり話をしたりしている内に、だんだん放っておけなくて……あいつの……俺の親友のために鎮魂歌を歌ってくれたあんたのことが、気付いたら気になって仕方がなくなってた」
「海神様……」
「陸に上がって、あんたの異母妹じゃなくて、あんたのことを嫁にしたいって言いに行ったのに、あんたの妹が引いてくれないわ、あんたは俺から逃げ出すわでヒヤヒヤしたぜ」
「私は棗と海神様が一緒になった方が、海神様にとって利益があると思ったんです。だから、離れようと思って……」
「そんなことだろうと思ったよ」
少しだけ呆れたように溜息を吐いた後、海神が真珠の身体を抱き寄せてきた。
「俺はあんたがいないとダメなんだ。あんた、俺に捧げられるつもりだったんだろう? どうか俺の妻になってほしい、真珠」
力強く抱きしめられると、海神の全身全力の愛が伝わってくるかのようだ。
「海神様、断ろううにも、逃げ出せないです」
「なんだよ、真珠、断るつもりなのか……?」
いつもは威風堂々としている海神だけれど、少しばかり戸惑った表情を浮かべている。
真珠は海神の顔を覗き込むと、頬を赤く染めながら返事をした。
「海神様は私が断ったら悲しいですか?」
「そりゃあ、そうだろうさ」
真珠は笑顔になった。
「島が一年中嵐になったら困りますし……それに……」
「それに……?」
「私も海神様のことが大好きなんです。どうか私の旦那様になってください」
海神が蕩けるような笑顔を浮かべた。
「ありがとう。大事にするよ、愛している、真珠」
想いが通じ合った真珠と海神はひしと抱きしめ合った。
***
海神は半身ともいえる真珠を妻にしたことで、名実ともに島周辺の海を支配する神となった。
二人は島の民たちや船の皆から見守られながら、島の平和を守りつつ、幸せな夫婦生活を送っているという。



