あの夏、神様に選ばれた君へ

 家の中に入ると、埃っぽくカビ臭い匂いが鼻をツンッと刺す。嗅いだことのない異臭に思わず眉間に皺が寄る。

「私は、甲斐佐原幸代よ。清子さんの身の回りの世話をしているの」

 先ほどよりも柔らかい態度で女性は名乗った。

「あんたは誰? どうしてこの集落に来たの。まさか、本当にこの手紙を信じてここに来たの?」

 玄関から続く廊下を進みなら幸代は捲し立てるように質問を投げかける。

「俺はおばあちゃんから手紙をもらって……母さんが入院してるからその間だけ遊びに来ないかって言われて」
「ふーん。あんたはそれを信じたんだ」

 小馬鹿にするように幸代は鼻で笑った。初対面の大人に失礼な態度を取られて、大輝の機嫌も少しずつ悪くなる。

「信じるも何も、そうやって手紙に書いてあったんだよ」

 大輝の反抗するような言葉は無視される。幸代は廊下の突き当たりにある閉められた襖の前に立つと、不意に大輝の方を振り返った。

「あんたが手紙をもらったのは本当でしょう」

 手の中にある手紙に視線を落とす。幸代は一瞬迷うように視線を揺らすと、大輝の顔をじっと見てから口を開く。


「でも、それは清子さんが出したものじゃない」


「……それって、どういう意味だよ」

「だって清子さんは――」


 幸代は襖に手を添えると、スッと横に移動させる。幸代の向こう側に見えた部屋の中を見て、大輝は目を見開き息を呑む。



「――半年前から、寝たきりなんだから」



 そこには、介護ベッドに横たわる老婆がいた。手は拘縮しているのか手首から固く屈曲しており、カンガルーのように腕は折りたたまれている。開きの衣服着せられ、身動きをするたびに少しずつ着崩れていくのか服の合間からは皮膚が骨に張り付いているのが見える。細くなった腕と足は少し力を入れた誰でも簡単に折ることができそうで、落ち窪んだ眼下に開きっぱなしの口を見て、まるで生きたミイラのように見えた。

 それでも、よく見るとわずかに胸郭が上下しているのがわかり、彼女がまだ死んでいないことがわかった。

「なん……で…………?」

 思わず漏らした声に呼応するようにかひゅっと息を吸い込む音が部屋に響く。なんだ、と思って部屋の中を見渡すと、ふと視線があった。

 死んだように天井を見つめ、光を通さず、虚ろだった清子さんの瞳と。

 落ち窪んだ瞳が、眼窩の奥からギョロリとこちらを向いた。

「ひっ!」

 思わず恐怖で喉が鳴り、足を一歩逃げるように下げる。隣で幸代さんも驚いたように固まっていた。


「……え、れ…………かえ、れ……かえれ!」


 ヒューヒューという喘鳴音の切れ間に清子の甲高い声が混ざる。それは、明確な拒絶だった。


「かえれ、かえれ、かえれ、かえれ」


 呪詛のように清子は唾を吐き散らしながら言葉を紡ぎ続ける。死んだように動かなかったその体のどこに、叫ぶだけの力があったのか。その声は、清子のものではなく、幼子の声だった。


「あー! あー! あー! かえれ、かえれ、かえれ!」


 清子の声にギシギシと家が軋む音が重なる。風が強く吹いたのか、窓ガラスが不自然なほど大きな音を立てる。恐怖に固まる大輝と幸代を嘲笑うかのように、楽しげな笑い声がどこからか聞こえてくる。

 恐怖で足が竦むのに、視線は引き寄せられるように狂った祖母に固定される。


 かえれ、とい言葉の裏に、おいで、という声が聞こえてくる。



 おいで、おいで。

 こっちにおいで。



 自分の意思に反して、手招かれるように、体が前に出る。敷居を超えて、祖母のもとに近づこうとした時、無意識に大輝の顔に薄い笑みが広がる。

 一瞬の静寂の後、大輝は突然幸代に体を突き飛ばされた。

「清子さん! 大丈夫ですか!」

 幸代の焦った声に大輝の意識も戻ってくる。大輝は先ほどの高揚感から一転して、全身を覆った恐怖に思わずその場に崩れ落ちた。清子と同じように、大輝も体を乗っ取られたのか、あの声に応えようとしていた。幸代が突き飛ばしていなかったら、大輝は間違いなくあの声の手をとっていた。

 大輝の意識が清子から外れると、清子の叫びはぴたりと止まった。

 まるで、何かが大輝を呼ぶための媒介にしていたかのようだった。