「まっ――!」
あと一歩。あと少しで朔に届くはずだった大輝の手は朔には届かなかった。朔の体は八ツ森様の無数の手に覆い隠され、その姿を消した。その瞬間、大輝の胸の中に喜びの気持ちが溢れ出す。
うれシイ! タノしイ! やっとヒトつにナれタ!
八ツ森様の感情が大輝の心の中を占めていく。伸ばした手が届かず、頭が真っ白になればなるほど、八ツ森様の声は大きくなる。
「あぁ、やっとです。やっとこの日が来ました」
深々と頭を下げながら八千代が涙声で呟く。その体は喜びからかかすかに震えており、心の底からこの瞬間を待っていたことがわかった。一人の命が八ツ森様に飲み込まれたばかりだというのに、そのような気持ちを抱く八千代に大輝は恐ろしさを感じる。そこまでして八ツ森様に生贄を捧げたかったのか、と。
「約束が果たされた。今度こそ…………今度こそ、私の子を……」
八千代はゆっくりと顔を起こすと目の前で蠢く無数の手に向かって自身の手を差し出す。そこから何かを与えてもらえると信じている目をしていた。だが、どれだけ待っても八ツ森様が何かを差し出すような動きは見せなかった。むしろ、隣にいる大輝に意識を向けているような気配すらした。
「どうして…………なぜ!?」
何も変化がないことに焦れた八千代が両手で顔面を掻きむしる。立てた爪が皮膚を切り裂いても八千代は気にせず何度も何度も顔を引っ掻く。そして血走った瞳を忙しなく動かし、「何がダメだった。どうしてまたダメだった。何が足らない、何が」とぶつぶつと呟いていた。
異常な様子に大輝は状況も忘れて体が震える。八ツ森様への狂信だけでなく、八千代には別の何かに取り憑かれているようだった。それを狂信と呼ぶのか、それとも別の何かなのか。今の大輝には判別がつかない。それでも、八千代は八ツ森様の何かに切望するように一歩、また一歩と目の前の化け物に向かって進んでいく。
大輝が狂った様子の八千代から距離を取ろうと一歩後ろに下がった時、木造でできた舞台の床が小さく軋んだ。その音は顔を血だらけにした八千代にも届いており、八千代はゆっくりと大輝の方へと顔を向ける。
涙と引き裂かれた皮膚から流れる血液が入り混じり、人とは思えないような表情をしていた。その様子に本能的に逃げなければと感じたのに大輝の足は地面に縫い付けられたように一歩も動かない。八千代は血走った目を走らせながら大輝に向かって一歩ずつ近づく。
「やはり、偽りの約束ではダメだったんです。神道の子は所詮あなたの代替え品。あなたこそ、八ツ森様の生贄にふさわしいのだから」
目の前の狂気に硬直する大輝の両腕を八千代が力強く握る。老婆のどこにそんな力があるのかわからないほど強い力で掴まれた大輝は思わず小さな悲鳴をあげてしまう。
「……っ離せ!」
振り解こうともがいても八千代の手は強くなる一方だった。
「あなたが八ツ森様のところへ行くのなら、きっと八ツ森様も私の願いを叶えてくださるはず。さぁ、さぁ! 早く、八ツ森様の元へ!」
「何が……何が願いだよ! あんたの私利私欲のために、俺たちを都合のいい生贄にすり替えるな!」
「なんと言われても私は構いません。だから、早く——早く!」
八千代から逃げることもできず、逆に体を八ツ森様の方へと押しやられる。大輝はこんなところで八千代と揉めている場合ではなかった。八ツ森様に呑まれた朔を助け出す方法を考えなければいけないのに、目の前の存在が邪魔をする。
早く状況を打開しようとすればするほど、八千代の力は強くなり、大輝は一歩ずつ八ツ森様へと近づく。心の中で「クソッ」と舌打ちをしながら、わずかに後ろを振り返ると八ツ森様の無数の手はそこで蠢いていた。その手の動きが、まるで大輝を包み込もうとしているようで、大輝は無意識に体が震える。
「さぁ! 八ツ森様のところへ——っ!?」
八千代が最後の力を振りしぼるように大輝をの体を押し込もうとした時、その動きを止めるように何かが八千代の腕に当たった。それは力なく地面に落ちるとカラカラと乾いた音を立てて転がる。大輝と八千代は一瞬何事かと思い動きを止めた。そして、大輝はそれが飛んできた方へ、八千代はそれが転がった方へと視線を向ける。
大輝の視線の向こうでは顔を歪めてこちらを見ている宗一郎が立っていた。彼の顔は何歳も年老いたように深い皺が刻まれており、この集落で初めて宗一郎を目にした時のような威厳も威圧感もなかった。ただ、息子を失った深い悲しみと、それでもなおその友を助けようとする大人の意地が垣間見えた。その表情を見た瞬間、大輝の胸には温かい何かが溢れ出す。
「あぁ…………あ、あぁ、なんてことを………………」
地面に転がった何かを目にした八千代は宗一郎の覚悟とは反対に、これまでの感情が決壊したかのようにフラフラとそれを追いかける。急に八千代の手が離れた大輝はその場でふらつきながらも八千代の手の先へと視線を移す。
そこには小さな桐箱と床に転がった臍の緒があった。
「どうして、これが…………一体誰が、こんな仕打ちを?」
震える手で八千代は小さな桐箱を掴み、床に転がった臍の緒に手を伸ばす。その目は血走りあらゆるところを見つめながら、必死に状況を理解しようとしているようだった。
「須藤の子供よ! それを八ツ森様へ!」
八千代が臍の緒に触れるより前に、宗一郎は大輝に向かって叫んだ。今がその時なのだと、伝えるように。
大輝はハッとして八千代よりも前に臍の緒をその手の中に収めると八ツ森様へと向かって走り出す。臍の緒を奪われた八千代は「返せぇ! 返せぇ!」と言いながら大輝を追いかける。しかしその足取りは先ほどよりも鈍く、動きも緩慢だった。まるで年相応になっているように。
八ツ森様の無数の手の前に立ち、大輝は足を止める。今も目の前の存在から歓喜の声が流れ込んでいる。だけど、それは先ほど朔を取り込んだ時のような遊び相手が増えた喜びとは違っていた。八ツ森様はそれが何かわかっているように、大輝の手の中にあるものに強い関心を示している。
大輝は深く深呼吸をすると宗一郎の方へと振り返った。
臍の緒を握る手に力を込める。
朔を連れて帰る。
そのためにここまで来たのだから。
「行ってきます!」
「あぁ。ここで、二人の帰りを待っている」
心配かけないように大輝が無理やり笑顔を見せると、宗一郎も口の端を少しだけ持ち上げた。父親がいない大輝にとって、大人の男性に背中を押してもらうのは初めての経験だった。そのことをむず痒く思いながら、大輝はゆっくりと体を後ろに倒していく。色々な感情で顔が歪んだ八千代の手が目の前まで迫った時、大輝の視界は無数の手によって塞がれ、目の前は完全に真っ暗になった。
あと一歩。あと少しで朔に届くはずだった大輝の手は朔には届かなかった。朔の体は八ツ森様の無数の手に覆い隠され、その姿を消した。その瞬間、大輝の胸の中に喜びの気持ちが溢れ出す。
うれシイ! タノしイ! やっとヒトつにナれタ!
八ツ森様の感情が大輝の心の中を占めていく。伸ばした手が届かず、頭が真っ白になればなるほど、八ツ森様の声は大きくなる。
「あぁ、やっとです。やっとこの日が来ました」
深々と頭を下げながら八千代が涙声で呟く。その体は喜びからかかすかに震えており、心の底からこの瞬間を待っていたことがわかった。一人の命が八ツ森様に飲み込まれたばかりだというのに、そのような気持ちを抱く八千代に大輝は恐ろしさを感じる。そこまでして八ツ森様に生贄を捧げたかったのか、と。
「約束が果たされた。今度こそ…………今度こそ、私の子を……」
八千代はゆっくりと顔を起こすと目の前で蠢く無数の手に向かって自身の手を差し出す。そこから何かを与えてもらえると信じている目をしていた。だが、どれだけ待っても八ツ森様が何かを差し出すような動きは見せなかった。むしろ、隣にいる大輝に意識を向けているような気配すらした。
「どうして…………なぜ!?」
何も変化がないことに焦れた八千代が両手で顔面を掻きむしる。立てた爪が皮膚を切り裂いても八千代は気にせず何度も何度も顔を引っ掻く。そして血走った瞳を忙しなく動かし、「何がダメだった。どうしてまたダメだった。何が足らない、何が」とぶつぶつと呟いていた。
異常な様子に大輝は状況も忘れて体が震える。八ツ森様への狂信だけでなく、八千代には別の何かに取り憑かれているようだった。それを狂信と呼ぶのか、それとも別の何かなのか。今の大輝には判別がつかない。それでも、八千代は八ツ森様の何かに切望するように一歩、また一歩と目の前の化け物に向かって進んでいく。
大輝が狂った様子の八千代から距離を取ろうと一歩後ろに下がった時、木造でできた舞台の床が小さく軋んだ。その音は顔を血だらけにした八千代にも届いており、八千代はゆっくりと大輝の方へと顔を向ける。
涙と引き裂かれた皮膚から流れる血液が入り混じり、人とは思えないような表情をしていた。その様子に本能的に逃げなければと感じたのに大輝の足は地面に縫い付けられたように一歩も動かない。八千代は血走った目を走らせながら大輝に向かって一歩ずつ近づく。
「やはり、偽りの約束ではダメだったんです。神道の子は所詮あなたの代替え品。あなたこそ、八ツ森様の生贄にふさわしいのだから」
目の前の狂気に硬直する大輝の両腕を八千代が力強く握る。老婆のどこにそんな力があるのかわからないほど強い力で掴まれた大輝は思わず小さな悲鳴をあげてしまう。
「……っ離せ!」
振り解こうともがいても八千代の手は強くなる一方だった。
「あなたが八ツ森様のところへ行くのなら、きっと八ツ森様も私の願いを叶えてくださるはず。さぁ、さぁ! 早く、八ツ森様の元へ!」
「何が……何が願いだよ! あんたの私利私欲のために、俺たちを都合のいい生贄にすり替えるな!」
「なんと言われても私は構いません。だから、早く——早く!」
八千代から逃げることもできず、逆に体を八ツ森様の方へと押しやられる。大輝はこんなところで八千代と揉めている場合ではなかった。八ツ森様に呑まれた朔を助け出す方法を考えなければいけないのに、目の前の存在が邪魔をする。
早く状況を打開しようとすればするほど、八千代の力は強くなり、大輝は一歩ずつ八ツ森様へと近づく。心の中で「クソッ」と舌打ちをしながら、わずかに後ろを振り返ると八ツ森様の無数の手はそこで蠢いていた。その手の動きが、まるで大輝を包み込もうとしているようで、大輝は無意識に体が震える。
「さぁ! 八ツ森様のところへ——っ!?」
八千代が最後の力を振りしぼるように大輝をの体を押し込もうとした時、その動きを止めるように何かが八千代の腕に当たった。それは力なく地面に落ちるとカラカラと乾いた音を立てて転がる。大輝と八千代は一瞬何事かと思い動きを止めた。そして、大輝はそれが飛んできた方へ、八千代はそれが転がった方へと視線を向ける。
大輝の視線の向こうでは顔を歪めてこちらを見ている宗一郎が立っていた。彼の顔は何歳も年老いたように深い皺が刻まれており、この集落で初めて宗一郎を目にした時のような威厳も威圧感もなかった。ただ、息子を失った深い悲しみと、それでもなおその友を助けようとする大人の意地が垣間見えた。その表情を見た瞬間、大輝の胸には温かい何かが溢れ出す。
「あぁ…………あ、あぁ、なんてことを………………」
地面に転がった何かを目にした八千代は宗一郎の覚悟とは反対に、これまでの感情が決壊したかのようにフラフラとそれを追いかける。急に八千代の手が離れた大輝はその場でふらつきながらも八千代の手の先へと視線を移す。
そこには小さな桐箱と床に転がった臍の緒があった。
「どうして、これが…………一体誰が、こんな仕打ちを?」
震える手で八千代は小さな桐箱を掴み、床に転がった臍の緒に手を伸ばす。その目は血走りあらゆるところを見つめながら、必死に状況を理解しようとしているようだった。
「須藤の子供よ! それを八ツ森様へ!」
八千代が臍の緒に触れるより前に、宗一郎は大輝に向かって叫んだ。今がその時なのだと、伝えるように。
大輝はハッとして八千代よりも前に臍の緒をその手の中に収めると八ツ森様へと向かって走り出す。臍の緒を奪われた八千代は「返せぇ! 返せぇ!」と言いながら大輝を追いかける。しかしその足取りは先ほどよりも鈍く、動きも緩慢だった。まるで年相応になっているように。
八ツ森様の無数の手の前に立ち、大輝は足を止める。今も目の前の存在から歓喜の声が流れ込んでいる。だけど、それは先ほど朔を取り込んだ時のような遊び相手が増えた喜びとは違っていた。八ツ森様はそれが何かわかっているように、大輝の手の中にあるものに強い関心を示している。
大輝は深く深呼吸をすると宗一郎の方へと振り返った。
臍の緒を握る手に力を込める。
朔を連れて帰る。
そのためにここまで来たのだから。
「行ってきます!」
「あぁ。ここで、二人の帰りを待っている」
心配かけないように大輝が無理やり笑顔を見せると、宗一郎も口の端を少しだけ持ち上げた。父親がいない大輝にとって、大人の男性に背中を押してもらうのは初めての経験だった。そのことをむず痒く思いながら、大輝はゆっくりと体を後ろに倒していく。色々な感情で顔が歪んだ八千代の手が目の前まで迫った時、大輝の視界は無数の手によって塞がれ、目の前は完全に真っ暗になった。



